君の世界の悲しい欺瞞について
町外れの深い森の中に、古く寂れた祠がある。
年老いた男性がひとりで管理しているその祠には、一匹のキツネが住み着いていた。
雨を吸い込み湿っているその祠は、神社にあるようなものとは少しだけ形が違っている。
わたしは祠の裏側に回り込んで、膝を抱え丸くなった存在を見つけた。
くりくりで丸い大きな目をした男の子。
地面は落ち葉も土も濡れてるのに、彼は躊躇なくお尻をくっつけて、いつもボロボロの薄汚れた服を着ていたのだ。
わたしは手にしていた傘を近くの木に立て掛けてから、身体を前に折り曲げて声をかけた。
「ぼく、自分の名前は言える?」
「ぁ、っ、あまくさえんじ……」
彼の返答に、わたしはニコリと笑みを浮かべる。
天草遠志(あまくさ えんじ)という名はわたしが三日三晩考えに考え抜いて、彼に初めてプレゼントした贈り物なのだ。
おいで、と手でやると彼は立ち上がり、もつれ気味の足取りで近寄ってきた。
獣特有の濃い臭いが鼻腔を刺激する。
昨日よりも油っぽい体臭が強くなった気がした。お風呂に入っていないせいかな。
わたしは二ヶ月ほど前に、家の近くで地べたに倒れた謎の妖怪、天草遠志を偶然発見したのだ。
天草遠志は赤いTシャツを着た遠目から見たらごく普通の少年だったが、近づいてみると頭からキツネの耳がぴんと伸び、尻から稲穂みたいな黄金色の尻尾が垂れている。
いくら世間知らずなわたしでも、彼が人間でないことは理解できた。
「彼が人間じゃないだって?確かに妖怪だったら法律は関係ない、社会が存在を認知しなくても良い、自分が役目を放棄しても問題ないはずだ。でも、まさかそんな都合の良い御伽噺を本当に信じてるわけじゃないよな?」
わたしはどうするか暫し悩んだが、放っておくのも目覚めが悪くて、一時的保護という名目で自室まで連れて帰ることにしたのだ。
天草遠志は小学生程度の子供で、大人の庇護がなければ生きられない、一匹でいたら野垂れ死にが関の山である。
わたしは彼をふかふかのベッドに寝かせて、目を覚ますと風呂場に押し込んで身体を洗わせてから、二日目のカレーを温めて振る舞った。
天草遠志はカレーライスを見るや否や、鼻を膨らませて深呼吸をして、何度も唾を飲み込む。
何の変哲もない、手抜きとも言われそうな質素なカレー。
これが、天草遠志にとっては最高のご馳走だったらしい。
空腹こそ最高のスパイスとはよく言ったものである。
向かい合って、「いただきます」をすると、天草遠志は子供用スプーンを握り拳で掴んで「美味しいです美味しいです」と言いながらカレーライスをパクパク平らげて、三杯もおかわりしてくれた。
わたしが止めなければもっと食べていたかもしれない。
天草遠志はカレーのルーで薄茶色に汚れた口元を細い手首で拭う。随分と動物的だ。
ティッシュを使わない辺りに、彼の育ちの悪さか露見する。
汚れたお皿を重ねながら、わたしは何気なく尋ねた。
「どうして、あんな場所にいたの?」
「かあさんは必ずむかえに来てくれると、おれはずっと信じていたので!」
ふわふわの尻尾をピンと高くあげて、耳をわたしの方に一生懸命向けて、天草遠志はニコニコと笑う。
「あなたのお母さんとお父さんはどこに?」
「何を言ってるんですか?かあさんはかあさんです!ぁ、……間違えた、間違えました、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいッ!分からないです!遠くにいるらしい?らしいです!」
「そうなんだ」
わたしが食事の片付けをしている間、天草遠志は玄関に置きっぱにしていた紙袋を持ってきて長方形の箱を取り出し、包装紙を破って五台セットのミニカーを開封した。
フローリングにお腹と顎をぺたんとつけて、「ぐるるる、ぶるんぶるん」と擬音を口ずさみながら、ミニカーを手で押したり引いたりしている姿は微笑ましいと思う。
それから数日間の、天草遠志との生活は決して悪いものでは無かった。
天草遠志はわたしのことが大好き。
わたしは天草遠志のことを好きでも嫌いでもないけど、彼はわたしを愛してくれる。
まさに無償の愛ってやつだ。
彼はわたしのことを「かあさん」と呼んで、子犬のようについて回った。
わたしが教えたことを、天草遠志は一語一句噛み締めるように聞いて一生懸命覚えようとする。
家事のやり方を教えて、手間をかけた。
手間とは愛で、愛とは手間なのだ。
彼は貧相な足でわたしの後を必死こいて追いかけてきて、食事が目の前にあるにも関わらず、「いただきます」をするまで食べてはいけない、というわたしとの約束にも実直に従った。
わたしの言葉を鵜呑みにする存在は、可愛いと思う。
意味なんてない、無駄なことを肯定する存在は可愛いと、そう思った。
つまり、わたしは彼を気に入り始めていたのだ。
けれど、妖怪である彼にだって心配する本当の親や兄弟といった家族がいる。
そう考えたら、このまま家に引き留めておくのは良心が痛んだ。
人間特有の文化的な暮らしに味をしめたのか、天草遠志を家から追い出す時はそれはもう大変だった。
泣いて暴れて叫んで引っ掻いて、発狂状態。
ミントグリーンのソファーに清潔な爪を立ててしがみついて、天草遠志は全身で全力の抵抗を示したのだ。
「嫌です嫌です、もう外は嫌です。お家が良いです。ごめんなさい!あやまりますから!許してください、許してください、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいッ!」
人間の生活に長期に渡り慣れさせると、野生に帰すのは難しくなるというじゃないか。
甘やかし過ぎるのは良くない、彼の為にならないだろう。
わたしは心を鬼にして、天草遠志の足首を掴み、「ぎょいええええ」と奇声を発しながら、回転をつけてベランダの窓まで投げ飛ばした。
バンッ、と大きな音を立て、ガラスの窓に背をぶつけた天草遠志は、小さく唸りながらキツネの耳と尻尾をぺしゃんと垂らして、気絶したようだ。
わたしは気絶した天草遠志を抱き上げて、町外れの森の祠の前に置いてきた。
「子供相手に、虐待じゃないか?流石に」
うるさいな、少しくらい酷いことしたって良いんだよ。
だって、これはわたしの妄想なんだから。
世間にはわたしがしてることは、内緒。
だって、きっと関係がないもの。
わたしの家の表札が天草(あまくさ)であることも、天草遠志があの人と同じ色の瞳をしていることも、キツネの耳も尻尾もわたしにしか見えないってことも、全部が、本当はどうでもいいことのはずなのだ。
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