あの日溢れた涙に誰も気づかない
他人にこのように手を握られた事は旦那以外で記憶になかった。
無遠慮に愛情を押しつけるかのごとく、強く力をこめて握られた事など。
わたしは彼の手のひらの温かさが怖かった。
子供特有の高い体温は大人であるわたしに責任を与える。
だって、彼がいたら気軽に外泊することも出来ないじゃないか。
彼は恨まない、愛さない、憎まない、わたしを傷つけたりなんか絶対にしない。
彼は人懐っこくて話しやすいタイプで、すぐに誰とでも仲良くなれていた。
わたしは、彼のことならよく知っている。
だから、きっと大丈夫だと盲目したのだ。
あの人の為に作ったカレーライスをコンビニの袋に捨てながら嘲笑する。
はじめから分かっていたはずだった。
家に帰って来ないのだってべつに珍しくない。
むしろ日常茶飯事、よくある事柄だった。
両手の指を全て使っても数えても足りない。
あの人は一箇所に留まることが出来ない男で、いつだって当事者意識に欠けている。
そういう人種なのだ。罪悪という感情に関しては、もとより無かったような気さえする。
人間としての一通りの良心はお義母様のお腹の中に置き忘れてきたのだろう。
あの人はおそらく鬼か悪魔か、そんな分かりやすい邪悪な存在ではない。
近しいものを挙げるとすれば、神だ。
およそ破壊を目的にした、邪神なのだろう。
「信仰はいつだって気楽なものだよ。期待しちゃってバカみたいだな。そんなだから愛想を尽かされたのさ。道具扱いと神様扱いに違いがあると思ったら大間違いだよ」
ノイズ混じりに聞こえる声はただの幻聴だ。
わたしの気に留めるようなことじゃない。
あの人を定番となったファミレスへ誘い、お金を貰って、そのまま別れる。
わたしは、もう別れ際にセックスを求める名残惜しそうな顔はしなくなった。
「馬鹿め、またそうやって逃げるんだな」
校舎の三階にある美術室に入るなり、教室の角に寄せて置かれたイーゼルを移動させる。
わたしは棚に積まれたキャンバスを引っ張り出し、イーゼルにセットしてから、後ろのネジを回してキャンバスの高さを調節した。
つぎに油彩の道具を広げて、低いパイプ椅子に座る。
中学時代は絵心なんて簡単に育ちはしないと諦めていたのだけど、高校生になると同時に美術部に入り浸って木製パレットを片手に油絵の具を練り合わせていたのだから、人生とは分からないものだ。
画溶液を白い小皿に垂らして油絵具と混ぜて伸ばし、ペインティングナイフで真新しいキャンパスに塗り広げていく。
するとそこにはさっきまで無かった小さな何かが存在し、幾度も重ねて広げていくうちに小さな何かは大きな物質へ変わる。
うっすらとわたしたちの存在する世界が創られていく。
油絵はわたしを日増しに強く魅了していった。
美術部にいる時だけは、振り向いてくれないあの人のことを忘れることができる。
それは素晴らしいことだった。
「あらら。記憶捏造もそこまで来ると病ではなく才能だな。専業主婦を諦めて作家にでもなったらいかがでしょうか?」
そんなのわかってるよ、うるさいな。
わたしはこれが夢ってことくらい勘づいていたものの、じゃあ現実はどこにあるんだろうといくら探してみてもわからなかった。
この世界から脱する出口が見つからないのだ。
「かあさん、おねがい。なかないで、なかないで、だいじょうぶだから、いっしょにいる。ずっとすきだから、おれはちゃんとすきだから」
瞬間。変声期前特有の声が聞こえ、頭の中が真っ白になって、返事をしようにも喋っていることをうまくコントロールできなくなる。
わたしの場合、子供と話すだけでもかなり緊張するタチなので、二重の恐怖なのだった。
モーター音が聞こえて、瞼を開くと、はーちゃんがベランダの窓を開けて洗濯物を取り込み、わたしの隣に胡座をかくとそれを畳みはじめる。
障子の隙間から、雲に包まれた外の景色をぼうっと眺めた。
軍事ヘリコプターが音を轟かせながら雲間を過ぎって行く。
そうだ、今日はアスファルトで目玉焼きが焼けそうなぐらい暑い日だったから、日課である散歩に行かずに自室に籠っていたのだ。
「昼間からまあまあ、よく寝てましたね。ちょっと寝過ぎじゃないですか?寝れないよりは全然良いですけど、昼夜逆転生活もどうかと思いますよ。頑張って治してください」
声に反応して眼球を動かすと、はーちゃんのむすっとした表情があった。
不満を隠すことなく、わたしに全力でぶつけてきている。
「はーちゃん、お怒りですかにゃー。カリカリですか、カリカリ。うにゃー!」
「……まあ、それなりに。怒ってるというよりは拗ねてます。咲璃さんは寝てるし、結局美術館に行けなかったじゃないですか。楽しみにしてたんですよ、久しぶりの美術館」
「おデートがイヤだったわけじゃにゃーです。はーちゃん、らいしゅきー」
「はぁ……でも、出掛けるのはイヤだったんでしょう」
流石、はーちゃんは鋭い。
惚けた声を出すわたしに対して、少しも納得していないと露骨な態度でアピールしてくる。
「はーちゃん、ご質問よろしいでしょうか」
「なんですか、生理止まりましたか」
いきなりのセクハラ発言。
どうしてそこに結び付けるのか、失礼極まりない。
「ちがう!なんで、美術館に行けないくらいでそんなに不機嫌になるのだ!」
「好きなんですから仕方ないじゃないですか」
わたしのTシャツをたたみながら、一瞬の思考時間もなく、はーちゃんはさらっと答える。
「今年はゴッホとゴーギャンの作品が来てるんですよ。実物が見たいじゃないですか、会場に行きたいじゃないですか。俺ってそんなにおかしなこと言ってますか」
「ゴッホってひまわりの?はーちゃんはひまわりが見たいの?ひまわりって並ぶやつじゃないの?」
左手で頬杖をつきながら、わたしは尋ねた。
はーちゃんは訝しげな視線を向ける。
「並びませんよ。というか、今回はひまわりは来ませんし。前もそうやって誤魔化して連れてってくれなかったじゃないですか」
「まえー?そんな頻繁に来るならわざわざ暑い日に行かなくても良くない?」
首を振る扇風機の風が当たると、額の生え際にじっとりと汗がにじんでいるのが分かった。
熱風を撒き散らす窓の外は緋色に輝いていて、まだ夜になるまでしばらくかかるだろう。
「年単位で過去の話ですけど。咲璃さんって本当に忘れっぽいですね」
「いつの間にかはーちゃんが美術館オタクになっていてわたしはびっくりだよ」
「……母も昔は好きだったので」
「ふうん」
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