2話 母

 私の本当のお母さんがいなくなったのは、椿の花の赤が雪に映える寒い冬の日だった。

 朝起きると、屋敷には祖母しかいなかった。

「あの女は出て行った」

 祖母は素っ気なく言って、「これからは婆ちゃんと暮らすんだよ」と続けた。

 父は祖母から譲り受けた会社の仕事でほとんど家にいなかった。今もそうだ。だから私が毎日話をする相手は祖母と母の二人だけだった。それが一人になってしまって、私はひどく寂しかった。

 毎朝「おはよう」と言ってくれたり、寝るときには「おやすみ」と言ってくれる人が一人減っただけで、屋敷が急に静かになった気がした。

 寂しくてしょうがない時は、わたしはクダの気配を探して屋敷や庭をうろついた。

 葉擦れの中に、縁の下の暗がりに、屋根裏に積もった埃の上に彼等の気配を感じるたびに少しだけ寂しさが薄らいだ。

 今は、屋敷の中に犬飼さんの気配が残っている。


 あの日から、美しい女の人は週に2回くらい家にやってきた。

 その人は犬飼さんという名前だった。

 犬飼さんはうちに来るたびに私にお土産をくれた。

 子ども用の爪に塗る色水。絵本で読んだ人魚姫が最期に変化した泡みたいな、虹色に光る透き通った腕輪。唇に塗るとほんのり色づくいい香りの水みたいなもの。白粉、頬紅。

 犬飼さんは化粧品を扱う会社に勤めていて、そこに出資している父と出会ったのだそうだ。

 犬飼さんは来るたびに私にお土産に持ってきた。そして持ってきた子どもにも使える化粧品の名前を説明しながら使い方を教えてくれた。

 自分の爪や肌で説明しながら、彼女は綺麗な顔で屈託なく笑い、よく喋った。

 マニキュア、リップクリーム、チーク、アイシャドウ、オーデコロン。それらは私の爪を、瞼を、唇を彩り、私は鏡台の前でお姫様になった気分だった。

 それまでの私の生活は、屋敷の中だけで完結していた。屋敷の外のものは、私に彩りを与え、また犬飼さんの唇を通して語られる外の話はわたしをうっとりさせた。

 覚えた化粧品の名前が増え、新しい色のものが増えるほど、私は犬飼さんが好きになっていった。


「私、犬飼さんにお母さんになってほしい」


 夕飯の席で祖母に告げたのは、庭の紅葉が赤く色つき始めた頃だった。

 さつま芋と蛸の煮たものが食卓に上がっていた。

 祖母が犬飼さんのことを嫌っているのは知っていたけれど、その頃にはもうわたしは犬飼さんに惚れ込んでしまっていた。

 屋敷にはない甘いお菓子の話も、綺麗に着飾る少女たちの話しも、私を魅了して止まなかった。


「菫が決めたのなら、仕方ないね」


 祖母は怒るか、私に失望するかと思っていた。

 でも、祖母はどこか遠い目をしてため息をついただけだった。犬飼さんがうちに来てから、矍鑠としていた祖母はなんだかひどく老け込んでしまったようだった。

 祖母の元気がなくなるにつれ、屋敷の中のクダの気配が薄らいでいることに気がついた。

 前は屋敷の暗がりや庭木の陰に息づいていた密やかな気配たちが見つけられなくなった。

 祖母にそのことを伝えると、「仕方がないことだよ」と言った。

 クダは家に富を運ぶ。

 ならば、クダが離れていった家はどうなるのだろう。

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