クダのいる家

いぬきつねこ

1話 菫の家

 その日、私は自分の部屋にいて、座敷の真ん中に寝そべりながら天井の木目を見つめていた。

 籐で編んだ昼寝用の硬い枕に頭を預け、お腹にタオルケットをかけて天井の木目をぼんやりと数える。


 扇風機が生温い風を頬に運んでくる。

 私は寝返りを打って庭の方を向いた。

 廊下に面した襖は閉められているが、庭に面した障子とガラス戸は開け放たれていた。庭と座敷の間には広縁があって、木漏れ日が磨かれた床板に落ちて揺らめいていた。穏やかな風の吹く夏の午後のことだった。

 少し前までうるさいくらいに鳴いていた蝉の声はぴたりと止んで、代わりに庭に植った様々な木々と草花の立てる音が耳に届いた。

 屋敷は大きな庭で取り囲まれている。

 通りの喧騒はここまで届かない。

 庭は小さな森のように木や草が生茂り、微かな風でも枝葉が擦れ合う音が聞こえるのだった。他に聞こえるのは虫や鳥の声くらいのものだ。

 葉擦れの音の合間に、何かが密やかに笑い合うようなさざめきが私の耳に届くことがあった。

 鳥の羽ばたきとさえずりの間に、囁く何かの声がすることがあった。

 風が庭から屋敷に入ってくる音に紛れて、無人の廊下を駆け抜けていく小さな足音がすることがあった。

 庭の隅の、湿った土の上についた、人のものでも獣のものでもない小さな足跡を見つけたこともあった。

 物心ついた時から、それらと共に私は生きてきた。

 鳥でも獣でも、人でもない彼らは、姿を見せることなくひっそりと息づいていた。

 あれは何?と祖母に尋ねると、「クダ」だと教えてくれた。クダはこの家にたくさんいて、家に悪さする人を退け、富を運んできてくれるのだという。丁寧に扱えば富をもたらし、粗末に扱えば屋敷から出て行ってしまうのだと。

 祖母は姿が見えない同居人たちのために、庭の暗がりに食べ物を撒き、屋敷の中を適度に清潔に保っていた。

 屋敷は私たちが生活するところだけ適度に整い、屋根裏や普段は使われない客間には調度品が雑然としていた。庭には身を隠せそうな茂みや、座り心地の良さそうな岩も転がっていた。細い葉が密集した南国の扇のような枝をを四方に茂らせて目隠しになる大きな蘇鉄の木もあった。そういうものをクダは好むのだという。だから屋敷を片付けすぎてはいけない。


 小さな声がした。


 ——終わりが来るよ。


 その声は屋敷の中にいるというクダのものだったのかもしれないし、半覚醒で聴いた幻聴かもしれなかった。


 天井の木目が歪んで、視界が暗くなる。

 夢の現の境をうろうろしていると、襖の開く音がした。


「菫ちゃん。こんにちは」


 甘い花の香りが、鼻腔に流れ込んできた。

 祖母が着物に焚き込めている香とは違う、もっと鮮烈で艶やかな香りだった。

 桃の花の色をした服を着た女の人の後ろに、祖母が渋い顔で立っていた。

 私は、祖母以外の人に声をかけられたのがあまりにも久しぶりだったので半分体を起こしたまま、その人の顔を見つめるしかなかった。

 女の人の皺のない肌はつやつやしてして、瞼には光を跳ね返す粉みたいなものがついていた。瞬きに合わせて星屑みたいに光った。長くて曲線を描くまつ毛はお人形みたいに長くて濃い。唇は百日紅の花の色をしていて、やはり星屑みたいにきらめいていた。私はその時、この人の顔を形容する都会的な言葉を持っていなかった。けれど、綺麗だということは確かにわかった。

 私は化粧をして着飾った若い女の人を初めて見たのだった。私の母が化粧しているところを見たことはない。こんなに鮮やかな服を着ていることもなかったと思う。


「もうええじゃろ」


 私が呆然としている間に祖母がぶっきらぼうに言い、女の人は祖母に連れられて部屋を出て行った。

 嗅いだことのない花の匂いだけが残った。

「あの人は誰?」


 夕飯の席で私は祖母に尋ねた。

 祖母は美しい所作で箸を操り、油揚げと南瓜を煮たものを私の皿に取り分けてから言った。


「お前のお父さんの新しい女だよ」


「お母さんになる人?」


「お母さんになってほしいかい?」


 祖母は私を見た。

 皺の奥に隠れた目は、いつになく険悪な色をしていた。

 緑内障が進んで視力はほとんどないらしい祖母だが、身の回りのことや家事で困ることはなかった。


「あんまり……」


 私は祖母が怒っているのだと思って、気のないふりをした。でも本当はあの美しい人がお母さんになったらどうだろうと考え始めていた。



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