第1章②
[みさき]
朝の空気は、
とくに、寒い冬の朝。新聞配達のアルバイトに向かうために早起きすると、
けれど、どうやら俺に早起きのイメージはないらしい。
高校に入ったばかりのころ、朝が好きだと口にすると、「みさきには早起きしてるイメージがない」と、さんざんからかわれたことがある。
それ以来、学校のやつらにバイトのことは言っていない。自分のことをよく知りもしない外野から、なんだかんだと言われることは、気分がいいものではないからだ。
好きなものは好き。
大切な気持ちは、自分の中だけにしまっておくほうがいい。
誰かにからかわれたり、口を出されたりすることがなければ、好きだという
(そうは言っても……)
俺にだって、たまには
たとえば、前日の夜、
バイトに出かける準備をしながら、俺は母親をちらりと見やる。
散らかった部屋の中、自分の
俺はため息をつき、家を出た。
アパートの階段を下り、バイト先の新聞
今日の放課後は、居酒屋でのバイトも入っている。まかないはスタミナがつくものを
自分の学費は、自分で
そう決めてから俺の毎日は、バイト・学校・バイトの
新聞配達を終え、自宅に戻って制服に
俺と志乃莉は、学校ではふたりの関係を秘密にしていた。だから、登校前と下校時に、ここで待ち合わせをしているのだ。
ふたりの約束の場所にしたのは、屋根とベンチのある
雨の日や、
そう思ってここを指定したのだと周囲にバレたら、またからかわれてしまうだろう。
たどり着いた東屋のベンチには、すでに彼女が座っていた。
俺の姿を見たとたん、ぱっと花が
半年前、
「おはよ」
朝の空気みたいに清らかな笑顔で、志乃莉は言った。
「おはよ」
笑顔を返すと、志乃莉は「はい」と
こうして彼女が弁当を作ってくれることになったきっかけは、俺が彼女の家に新聞を配達しに行ったとき、たまたま顔を合わせたこと。志乃莉は、いつもコンビニのパンを昼食にしていた俺を
「……ありがと」
礼を言って受け取ると、志乃莉は、
「じゃあ……また、学校で」
とはにかんで、俺の前から走り去った。
その後ろ姿を見送りながら、俺は半年前までの、味気ない生活を思い返す。
俺の生活は本当に、家と学校、バイト先の往復でしかなかったのだ。
彼女──志乃莉と、出会うまでは。
志乃莉の弁当を食べられる昼休みは、至福の時間だ。
ディスプレイに映っているのは、黒いシルクハットに黒い仮面、黒いマントがトレードマークの動画クリエイター、お
「みさきも見てみろって」
澄夫はこうして、ことあるごとに、動画を見ろと
「いいよ、俺は」
友達が楽しげにしているのはいいことだが、俺は志乃莉の手作り弁当に集中したかった。
「めっちゃハマってんだよねえ、【ハレクレ】」
澄夫はまた、画面に見入って笑っている。
俺は、あらためて弁当に向き合おうとして──それを作ってくれた本人、教室の
志乃莉も、俺の視線を感じたのかもしれない。
彼女は、ほんの
……ふたりのことを、
まわりに知られれば、
バイトに明け暮れる毎日で、俺には正直、
大切な彼女を、守り切ることができない。
そうなってしまうことだけは、絶対に
(それに……)
ふたりの時間は、誰にも
俺は、志乃莉の作ってくれた弁当のおかずを口に入れる。日に日に上達する料理を
「まーた【ハレクレ】見てんの?」
えいこも、澄夫のハレクレ中毒に
「だってこいつ、マジでおもしろいんだもん」
動画を箸の先で指す澄夫に、えいこは「見過ぎだって」とうんざりした声を出す。
「それよりさ。これ、見てよ」
えいこは澄夫に、スマホの画面を見せた。
「おっ、【白ウサ】やん」
えいこは画面をにらみながら、「この子、絶対うちの生徒だ」と断言する。
澄夫が、きょとんとして聞いた。
「え、なんで?」
「だってこの写真、うちの高校の近くの公園だもん」
澄夫はえいこのスマホを取り上げ、「こんな写真じゃわからんやろ」と難しい顔をする。
「ええっ? ねえ、みさきも見てよ」
味方を増やそうとでもいうのか、えいこは俺にスマホを押しつける。
「いいよ」と断ったところで、澄夫が俺を指差した。
「いや、見せてもわかんねえだろ。こいつ、SNSとかやってねえし」
もっともだ。安心してふたたび弁当をつつきはじめると、【白ウサ】の写真を見ていたえいこが、
「しかも、これさ……みさきに似てない?」
(似てる? 俺に?)
箸を止めて画像を見ると、写っていたのは予想外のものだった。
登下校時にいつも立ち寄る、見慣れた公園。
昨日歩いたばかりの小道。
寄り
(これ……昨日、志乃莉が
ざわっ、と背筋があわ立った。
けれど、ここで
「そんなわけねえだろ」
平静を
「でも……ほら、〈誕生日もいつも通り
「これはアヤシイですねえ」
澄夫がえいこに悪ノリした。
「……意味わかんねえし」
「じゃあ、誕生日の予定は?」
えいこはさらに、とどめのような質問をした。
(なんだよ、それ……)
──ちゃんとふたりで過ごさなきゃ。
誕生日について話す志乃莉の、ちょっと
──じゃあ……とりあえず、学校終わったらいつもの公園で待ち合わせ。
俺だって、そう約束したはずだ。
だが、俺たちの関係がバレたとき、彼女を守り切る自信がない。
そうだとすれば、誕生日の予定を聞かれたときの、正しい答えは──。
「……別に、ないけど」
そう言ったとたん、えいこが「やったー!!」と
「じゃあ、みんなでどっか行く?」
えいこと澄夫は、カラオケ行こう、なに歌おう、と具体的な相談まではじめてしまった。
そんな彼らに気づかれないよう、俺は教室の端に目を向ける。
志乃莉は変わらず、國土と
(予定はないって……彼女を守るためについたウソなのに)
約束を破ることになれば、結果、志乃莉を悲しませてしまう。
(……どうすればよかったんだ?)
考えてみても、うまいやり方は思いつかない。
そんな自分が、
[志乃莉]
その日の放課後。
校舎前の道を公園に向かって急ぎながら、わたしは今朝のできごとを思い出していた。
公園で、みさきくんにお弁当を
登校中、めったにないことに、幼なじみの大地に会ったのだ。
大地の姿に気がついたのは、彼がわたしを追い
『おはよう、大地』
反射的に声をかけると、大地はちらりとこちらを
ところが彼は、なにも言わずに
(あれ……聞こえてない、ってわけじゃないよね?)
同じクラスで、家も
ひさしぶりに近づいてしまった
『なんか、
共通の思い出を引き合いに出してみても、大地の反応はいまひとつ。彼はむしろ、ぐっと足を速めて、学校のほうへと歩き去った。
『ええっ……?』
その場に取り残されたわたしは、
今朝、そんなことがあったからだろうか。
(お昼の時間、大地の視線を感じたんだよね……)
本当に見られていたかどうかはわからない。でも、いちばん前の席の大地は、ちらちらと教室内を振り返り、わたしと──みさきくんのほうを、気にしていたように思うのだ。
もしかすると、大地はわたしたちの関係に、気がついているのだろうか。
(気づかれてるなら、そのほうがいいのかも?)
大地とは、たしかにここのところ親しくしてはいなかった。
でも、決定的に
もしも大地と、昔のように楽しく話せる仲に戻って、みさきくんとのことを聞いてもらえたら……そんなことを想像しながら、わたしは公園の
東屋に着いてみると、みさきくんはすでにベンチに座っていて、手元のスマホをいじっている。みさきくんにしてはめずらしく、SNSを見ているようだ。
「ごめんね、待った?」
「……いや、別に」
いつもより低い声のみさきくんは、気もそぞろな様子だ。
どうしたんだろうと思いつつ、わたしは彼の隣に座る。
いつもならスムーズに会話がはじまるところなのに、なんだか今日はうまくいかない。
「あっ、ねえ、誕生日! どこ行きたいか決まった?」
なにを言えばいいかわからなくなって、わたしは昨日の話題を持ち出した。
するとみさきくんは、どうしてだかイラついたように言う。
「行けなくなった」
「えっ……それ、どういうこと?」
みさきくんは、こちらを見ないまま続ける。
「誕生日、澄夫とかえいこたちと遊びに行くから」
「ふたりでお祝いしようって、約束したじゃん」
しかも、昨日の帰り道で取りつけたばかりの約束だ。
それなのに──みさきくんは、深いため息をつくばかり。
そんな彼が心配になってきて、わたしは言った。
「ねえ……なにかあった?」
みさきくんは、言いにくそうに切り出した。
「志乃莉さ……俺に、
「……えっ?」
ほんの
みさきくんに隠していることなんて、それしかない。
けれど、ほかでもない、みさきくんとの思い出を
「なに、急に。ないよ……」
ふいを
そんなわたしをどう思ったのか、みさきくんは静かに言った。
「志乃莉なんだろ、【白ウサ】って」
「……!」
まさに【白ウサ】のことを問いただされて、わたしは声を失った。
みさきくんは、
「えいこに、写真見せられた。俺たちのこと、ぜんぶネットに上げてたんだ?」
「……それは」
「ちょっと
彼は、「マジでありえない」と
こちらを責める彼の態度に、わたしの中でも、隠そうとしていたものがふくれ上がってくる。
「……ふたりだけのことにしたいのは、みさきくんでしょ」
わたしの口調に、みさきくんが
「は?」
この関係を、ふたりだけのものにしたいのは、みさきくんだ。
できるならわたしは、堂々とみんなに言いたい。
こんなに
でも……。
それが
「わたしとつき合ってるのが
「そんなわけねえだろ」
「じゃあ今、えいこちゃんたちに伝えられる!? わたしたちのこと!」
勢いあまって声を
「……ほらね、言えないでしょ」
みさきくんは、思いつめたような顔をして、「……もういい」とベンチを立つ。
「冷静に話せないなら、これ以上はムダ」
「えっ……ち、ちょっと……!」
あわてて引き止めようとすると、みさきくんは、大人びた表情で──ううん、冷ややかな顔つきで、わたしのほうに向き直った。
「そんなふうに思われてたんだな、俺って」
「……、っ……」
わたしが返事に困っていると、彼はくるりと
「みさきくんってば! ねえ、ちょっと待って……」
「悪い。バイトだから」
きっぱりとした声に
小さくなっていく彼の背中を、わたしは見送ることしかできなくて──。
(なんで、こうなったんだろう)
公園からの帰り道を、わたしはひとり、とぼとぼと歩いた。
なんとか家に帰り着き、のろのろと自室に入ると、ベッドの上に
居酒屋のバイトに入っている彼は、お客さんの注文を取ったり、料理を運んだりと
そんな、気持ちの通ったやりとりができるはずだったのに。
(なんで、こうなっちゃったんだろう)
こんなことになるのなら、早く「ごめん」って言えばよかった。
みさきくんのことが大好きだから、誰かに
ふたりとも幸せだって知ってもらって、みんなに祝ってほしかった。
(でも……それは、みさきくんに黙ってやっていいことじゃなかったよね)
冷静になれば、こうして素直になれるのに──。
「ごめん」って言えなくて、意固地になってしまっていた。
そのくせ今は、「ごめん」を言えずに
泣きたい気分で
(みさきくん……!?)
飛び起きて、スマホを手に取る。
けれど、通知内容に書いてあるのは、SNSの投稿へのコメントだ。
〈白ウサさん絶対美人〉
〈1万5000フォロワーまであと10人!〉
〈とても
〈彼氏さんと仲が良くて
〈理想のカップル〉
SNSアプリを立ち上げて、指先でコメントをスクロールしていく。
顔も知らない遠くの誰かだけが、いつも欲しい言葉をくれる。
【白ウサ】が、ニセモノだって知らずに……。
タイムラインを流れる文字が、ぼんやり
〈二人のような幸せなカップルになれますように〉
「わたしだって……なりたいよ」
つぶやいた声は、涙を
部屋の照明が、チカチカとまたたく。
ああ、あのスイッチひとつでパチンと消える、電気みたいに……。
どうにもならない自分なんて、いっそパチンと消えちゃえばいいのに。
SNSの世界にいる【白ウサ】が、ホントの自分ならよかったのに。
震える指で、わたしは新しい文章を打ち込んだ。
〈こっちがホントならいいのに〉
照明が、いっそう激しくまたたきはじめる。
投稿の表示をタップした、その瞬間。
ブレーカーが落ちたように、部屋の明かりが
■□■
停電は、けっこう大規模なものだったらしい。
それでも、アラームの音に目を覚ますと、まぶしすぎる朝が来ていた。
(みさきくんに会ったら、すぐに謝ろう)
そうすればぜんぶ、元通りだ。
ランチバッグにお弁当箱を入れ、わたしは公園へと急ぐ。
ところが──。
約束の場所、ふたりで会うことになっている
(まだ、
みさきくんが連絡もなしに来なかったことなんて、つき合い出してからはじめてだ。
(……早く仲直りしたいよ)
わたしはランチバッグを
しばらく待ってみたけれど、みさきくんは公園に現れなかった。
わたしは仕方なく、学校に向かうことにする。
どちらにしても、学校に行けば会えるはず。お弁当だってこっそり
みさきくんと会えなかったこと以外は、いつもとなにも変わらない朝だ。
でも、教室に入ってみると。
「おはよ~、志乃っ!」
(……志乃?)
それは、幼いころのわたしの呼び名。
わたしの肩を叩いたのは、ふだんの
「なにしてんだよ。志乃の席、あそこだろ?」
大地が指し示したのは、教室の中心──いつもは、みさきくんが座っている席。
目を見開いたまま固まっていると、大地はわたしの手を取って、教室の真ん中へといざなう。
「ほら、行くぞ。なんで
「え……えっ……?」
「ここだよ、ここ」
わたしに
人違いをしているんじゃないかと思うほどの
「あ……あの、大地……くん、だよね?」
すると今度は大地のほうがぽかんとして、次の
「なんだよ、その反応。ウケるんだけど!」
満面の
そこにたたみかけるように、「志乃莉!」と大声で呼ばれた。
ぎょっとしてそちらを向くと、こちらもいつものおさげではなく、さらさらの
「まだ
「鶴江さん……?」
なにがなんだかわからない。
ぼうっと教室を
「……?」
なんとなく、
いつも明るいえいこちゃんが、おどおどしているように見えたから。
はたして、ファッション雑誌をめくっていた彼女は、目が合うとそそくさと顔を
「えいこちゃん……澄夫くん……?」
動転したわたしは、登校してきたなるちゃんを見つけ、すがるように
「なるちゃん! ねえ、みんな、どうしちゃったの?」
明らかに、みんながおかしい。まるでいつもと、性格が逆転してしまっているようだ。
そう思ってたずねたのだけれど、なるちゃんは
「ごめんなさい……なんの話? 二渡さん……」
と
「え……二渡さんって、
「だって、あまりお話ししたことないから」
「えっ……?」
わたしは、荷物を抱えたまま立ち
「どうなってるの……」
つぶやいた自分の声さえも、違う人の声みたいだった。
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