ロミオとシンデレラ 前編~ジュリエット編~/doriko・西本紘奈

Prologue

 はつが〝彼〟と出会ったのは、高校に入学して間もないころ。

 桜が散りはじめた四月のある日だった。



「──リリコ!」

 朝、いつもの電車に乗った未紅は、さきに乗車していたはいリリコを見つけて呼びかける。

 車内のすみっこにはリリコのふわふわ頭が見えていた。

 きっとリリコも未紅のほうを見ているはずだけれど、リリコのとなりの男がおおいかぶさるようにして立っているのでよく分からない。

(リリコってばいつ見てもきやしやだな)

 完全に人ごみにもれてしまっているリリコに近づきながら、未紅はそんなことを考えた。


 リリコは未紅にとってようえんのころからの親友だ。

 やわらかくてあわい色のかみ、髪とおなじように色の淡いひとみ

 内気だし、ちいさいし、守ってあげたくなってしまう女の子だった。


 反対に、未紅は幼いころから背も高かったし、リリコみたいに泣き虫でもなかった。

 むしろ、常に真顔。

 それが未紅にとってはちょっとしたコンプレックスなくらいだ。


あいそうとかぶつちようづらとか、我ながらさんざんな言われようだもんね)

 おかげでなぜか初対面の人にこわがられたり「おこってる?」と聞かれたりすることが多い。

 未紅自身としては、そんなつもりは全くないのに。

「落とし物ですよ」と声をかけただけで「ひっ、ご、ごめんなさい!」と謝られてしまった時は、さすがにちょっと悲しかった。


 たしかに未紅はそんなに感情表現が豊かじゃない。

 かといって冷たいわけじゃないし、未紅としてはふつうだと思っている。

 ただちょっと気持ちが顔に出にくいだけだ。

(でも、リリコだけは私を怖がらずにいてくれた)

 未紅を見て、ふわりと微笑ほほえむ親友は本当にかわいいしやさしい。

(だからリリコのことは私が絶対に守らなきゃ)

 幼稚園でも小学校でも中学校でも、引っ込み思案でみんなの輪に入れないリリコを引っ張ってきたのは、いつだって未紅なのだから。

 そんなことを思いながら、未紅はリリコに近づいたのだけれど。


「未紅ちゃん……っ」

(え?)

 そばまで近づいて、やっと顔が見えるようになったリリコは、なぜか目になみだかべていた。

(いったい何があったの?)

 いつしゆん、体調が悪いのかと思ったけれど、すぐにちがうことに気付く。

 リリコのこしに、となりの男の手がびているのが見えたのだ。これは、まちがいない。

(──かん!!)

 気付いたとたん、未紅の頭にカッと血がのぼった。

(どうりでリリコにやたら近いと思った! リリコのことは私が守らなきゃ)

 決意とともに、未紅は痴漢の手をつかみあげる。

「この子からはなれてください──!」


 未紅の声で、痴漢がびくりとかたらした。

「未紅ちゃん!?」とリリコがおどろいた声を出すが、気にしない。

 未紅は痴漢をにらみつける。

(リリコを傷つけるなんて許さない)

 強い意志をこめて、未紅が「この子のことさわってましたよね」と言う。

 ところが。


 ……ばしっ、と未紅の手がはらわれた。


「なに人を痴漢あつかいしてんだ!? うそついてんじゃねぇよ、バカ女!」

「!」


 とつぜんり声だった。

(な──)

 痴漢の言葉に、未紅の血の気が引く。

(なんなの、このひと)

 知らない人に急に怒鳴られたのなんて初めてで。

 ましてやひどい言葉や悪意をぶつけられるなんて、想像もしていなくて。


 どうしてこんなにひどいことを言えるんだろう?

 どうして向こうが悪いのに、怒られなきゃいけないんだろう?


 言いたいことはたくさんあるのに、未紅の口からは声が出ない。

 まわりの乗客は心配そうな目線を向けてくるけど、だれも実際に助けてはくれない。

 未紅の表情があまり変わっていないからだいじようだと判断されているのかもしれない。

(大人の男の人相手に、私ひとりで立ち向かわなきゃいけないの?)

 知らないうちに指がふるえる。

 未紅ちゃん、と、リリコのちいさい声が聞こえた。

(いけない、私はリリコを守らなきゃ。……こんなとこで痴漢に負けちゃいけないのに)

 なのに。


しようもねぇのにえらそうにすんじゃねぇよ!」


(────こわい!)

 だん! と男が車内のかべなぐった。きっと次は未紅が殴られる。

「未紅ちゃんっ」

 リリコが顔を真っあおにして声をあげるけど、何もできるはずがなくて。

(殴られる──)

 怖さのあまり、未紅は両目をぎゅっとつむった。

 そのとき。



「いい加減にしろよ」



(え?)

「なっ」

 痴漢のあわてる声が聞こえた。

 なにが、と思って未紅が閉じていた目を開けると、すぐ前にあるのは広い背中。

 未紅と痴漢との間に割って入ってきたのは、未紅たちと同じさい高校の男子だった。


(誰? 知り合いじゃない、よね。こんな男子、きっと一度見たら忘れないもん)

 突然現れた男子生徒に、未紅は大きく目を見開く。

 さらさらのくろかみと、するどいまなざし。それに、見とれるほど整った顔立ち。

 ただし表情は険しくて、少し怖いくらいだ。

 身長は平均よりはるかに高く百八十cm以上あるかもしれない。


 なにからなにまでかんぺきな容姿の男子生徒は、低い声で痴漢に告げた。

「言っとくけど、証拠なんて今どき簡単に集められる。……男なら、せめておとなしく罪を認めろよな」

「な……っ」

 男子生徒の言葉に、痴漢がおびえた表情を浮かべる。

 けれど男子生徒は気にせず、今度はリリコのほうを見た。

「きみ、警察に届ける?」

「え? い、いえ、あの」

 男子生徒に聞かれ、リリコのほおが一気に赤くなる。

 たどたどしく首を横にふるリリコに、男子生徒が険しい顔のまま「そうか」とうなずいた。

「なら、この痴漢は俺が駅員に届けてくるから」

「あの、でも」

「気にしなくていいよ」

 言葉少なに男子生徒は言い、次の駅に止まるアナウンスが流れはじめる。

 痴漢は男子生徒のはくりよくに怯えて、ちいさくなっていた。

(さっきまでこわかったのに、いまはもう全然怖くない)

 男子生徒のおかげだ。

 ちょうど電車の速度が落ち、張りつめていた車内の空気がゆるんだ。


 それまで男子生徒の行動を見つめていた未紅も、ハッと我に返る。

(いけない、私も助けてもらったんだからお礼を言わないと)

 すみません、と男子生徒に声をかけようとすると。

 男子生徒の視線が、ちらりと未紅をとらえた。

「──!」

 未紅の心臓が、大きくふるえる。

 未紅がなにかを言おうとするより前に。

「……助けるの、おそくなってごめん」


 ちいさな声で、男子生徒がささやいた。

(そんな、どうしてこのひとが謝るの?)

 まさかお礼を言う前に謝られるとは想像もしていなかった。

 とっさに何も返せない未紅に、男子生徒が続けて言う。


「怖かっただろ? 震えてた」と──。


(私が怖がってたって気付いてた……!?)

 未紅がおもわず息をのむ。

 かけられた声はちいさくて、きっと未紅以外の人間には届いていない。

(そんな、だって私の表情は分かりにくいのに)

 きっとほかの乗客も、かんも、おさなみのリリコでさえも、未紅が怯えていたことには気付いていなかった。

(なのに)

 どうして、と、未紅のくちびるがうごく。

(どうして、このひとは気付いてくれるの?)

 誰も気付かなかったことに気付いて、そして助けてくれたなんて。

(どうして──)


 混乱してしまって未紅は返す言葉が見つからない。

 そんな未紅に、彼は言う。


 ゆっくりと。

 いたわるように、たたえるように。


「よく、がんったな」

「──……っ」


 さっきまでとはちがう、やわらかい声で。

 おだやかなまなざしで。

 彼が、未紅にほほえむ。

 ほんのすこしのみなのに、未紅の目をうばうには十分で。


(このひと、こんな風に笑うの?)

 最初に見たときの怖いふんとは全く印象が違う。


(……やさしい)


 彼は、優しい。

 とても。

 信じられないくらいに、優しい。


 未紅の指先が熱くなる。

(息が、くるしい)

 心臓がめ付けられる。

(お礼を言わなきゃ。言って、そして)


 がたん、と、電車が大きくれた。

 音とともにドアが開き、アナウンスが流れだす。

『──駅にとうちやくしました。お乗りえのお客様は──』

「じゃあ」

「!」

 短い言葉を告げて、男子生徒は痴漢を連れて電車から降りる。

 まだ高校のり駅ではないから、きっと痴漢を連れていくためにこくかくで降りてくれたのだろう。

 待って、と言うことも、ありがとう、と言うこともできず。

 未紅はただ、スポーツバッグを背負う彼の後ろ姿を見つめる。

 かけられた優しい声が、やわらかい笑みが、頭からはなれない。


(まるで王子さまみたい──……)



 それが、そうれいとの出会いだった。

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