chord 1「岬のキモチ」①

 六月も終わりに近い土曜日。その日は授業が早く終わったため、岬は裏庭にトロンボーンを持ち出して音出しをしていた。

 部活は午後からということになっていたけれど、その前に自主練習をしておきたい。いているのは単調な練習の曲。

 その音が、すっきりとした心地ここちよい青空に広がる。

 校舎の中でもほかの部員たちが練習しているのか、開いた窓から音が流れてくる。

 コンクールも近いから、みんな気合いが入っているのだろう。

 大会やコンクールが近いのはすいそうがく部だけではないらしく、屋上では演劇部の生徒たちが発声練習をしているし、校庭では運動部の生徒たちがランニングしていた。

 昼休みにつぼみと弁当を食べる約束をしているけれど、それまでまだ時間はある。

 もう少し練習しておこうと、岬がトロンボーンをかまえた時だった。

 数人の男子たちが笑いながらこちらに歩いてくる。

 その一人が、「あれー?」とニヤニヤしながら声をかけてきた。

(や……やだなぁ……)

 しかも相手は上級生だ。うわきのラインの色がちがうからわかる。

 岬が音を出すのをやめてトロンボーンを下ろすと、彼らはおもしろがるように目配せし合ったあと、そばにやってきた。

「この子、前に俺らの教室で練習してた子じゃん?」

 そんな声に、岬はギクッとする。吹奏楽部の練習は、空き教室を使って行われる。三年生の教室を使わせてもらうこともあるから、その時に見られたのだろう。


 早く立ち去ってほしいと願いながら、聞こえないふりをする。

(もう、なんで話しかけてくるんだろう……)

 実を言えば、岬は男子がものすごく苦手だ。

 子どものころからきんちようするとすぐに顔が赤くなるくせがあり、それを見たクラスの男子に『完熟トマト』なんてあだ名をつけられたことがすっかりトラウマになってしまっていた。

 おかげで、今でも男子を見ると無条件にげ出したくなる。

 気にするほどのことではないとわかっていても、傷ついた経験というのはなかなか忘れられない。

 男子はすぐにイジワルしてくるし、いやなことも平気で言ってくる。

 だから、かかわらないでいられるのなら、それにこしたことはないが──。


「そういや見たことあるわー。トランペット吹いてる子だろ?」

(トロンボーンだよ!)

「二年生の子だろ? 何組ー?」

「この子、すげー顔赤くなってんだけど」

「うわっ、マジだ。かわいーじゃん。トマトみてーっ」

 真っ赤になりながらうつむくと、せんぱいたちはますますおもしろがってからかってくる。

「と、通してください……」

 ベンチから立ち上がり、小さな声でたのんでみたけれど、相手は解放してくれるつもりはないらしい。先輩たちのあいだを通りけようとすると、すぐにうでをつかまれて引きもどされた。

「いいじゃん。逃げなくたって」

「そーそー、一曲吹いてみてよ? なんでもいいからさー。吹奏楽部だろ?」


(先輩だからって、好き勝手にしていいと思ったら大まちがいだよ!)

 せいいつぱいの悪態を心の中でつきながらていこうを試みたけれど、手をはなしてくれそうにない。

(痛い……こわいっ、ヤダ!)

 これだから男子はきらいだと、不覚にも泣きそうになった時だ──。


「あー、センパイ。そこにいると危ないですよー?」

 そんなのんびりとした男子生徒の声が聞こえて、ハッとする。岬のよく知る声だ。

 先輩たちは、「あ!?」といっせいに校舎の二階の窓を見上げた。

 窓から顔を出しているのは、岬と同じクラスの阿久津要だ。

 彼はさわやかなみをかべたまま、手にしていたパックを逆さにして、ギュッとしぼり出す。ふってきたジュースが制服や顔にかかり、先輩たちが「ギャアアッ」と悲鳴を上げた。


 その様子に、岬は目をみはる。

(阿久津君、なんてことを! この人たちセンパイだよ!?)

 相手はいかにも素行が悪そうだ。おこらせて目をつけられるようなことになったら大変なのに。

 それをわかっているのか、わかっていないのか、要はシレッとした顔をしている。

「なにしやがんだ!!」

 先輩たちはいきり立ち、要をにらみつけてせいを上げた。


(ああ、ほら、やっぱり。怒るに決まってるよ!)

 岬は青ざめ、棒きれのようにっ立っていることしかできない。

 要はむしろこのじようきようを楽しむように、口角をわずかに上げている。

「すみませんねー。ゴミが集まってるから、ゴミ捨て場かと思って」

 なんて言いながら、要はクシャッとにぎりつぶしたジュースのパックを先輩たちめがけて投げつけた。

 それは見事に命中して、相手はいまにも火をきそうなほど真っ赤になる。

「今、行くから、そこ動くんじゃねーぞ!」

「あいつ、どこのクラスだ!」

「待ってろ!!」

 わめいている先輩たちに向かって、要は「ヤダねーっ!」と舌を出し、窓からはなれた。

 先輩たちはもはや岬のことなど眼中にないらしく、目の色を変えて校舎に戻っていく。

「どうしよう……だれかに知らせないと!!」

 岬はあせりながら、トロンボーンを手にしたままけ出した。




 担任の先生か、もんの先生に知らせようと思い職員室に向かったものの、タイミング悪く職員会議中のようだった。

「ああ、もう……こんな時に!」

 岬が要の姿をさがしてろうを走っていると、窓の外から「おい、待て!」と怒声が聞こえる。見れば要が先輩たちに追いかけられて裏庭をしつそうしているところだった。

 向かっているのは体育館のほうだ。


「阿久津君!」

 岬は校舎を飛び出し、後を追いかける。

 自分が行ったところで、男子たちが本気でケンカを始めたら止めることなんてできないだろう。まして相手は多勢だ。

 けれど、要が先輩たちにひどい目にあわされるのをだまって見ていることなんてできない。

 こうなれば、誰でもいいから助けを呼ぶしかない。


 ようやく岬が追いついた時には、要は体育館倉庫のそばで先輩たちに取りかこまれていた。

「散々、バカにしやがって!」

 先輩の一人がいきり立ちながら、要のむなぐらをつかもうとする。

 岬は考えるひまもなくトロンボーンをかまえ、力いっぱい音を吹き鳴らした。

 プワアアアア───────ンッとひびいた音に、全員が動きを止める。

 その視線がいっせいに向けられて、岬はワタワタしながら思わずものかげかくれた。

 息をひそめていると、体育館のドアの開く音が聞こえる。

「なんだ、ケンカか?」

 そう言いながらゾロゾロと出てきたのは男子バスケ部の部員たちだ。その大半は岬や要と同じ二年生の生徒だった。

 先輩たちもさすがに見つかってはマズいと思ったのだろう。「てめえ、覚えてろよ!!」と、ちんな捨て台詞ぜりふいて一目散に逃げていく。

 その様子を見届けると、岬は力が抜けてヘナヘナと座りこんだ。

(よかったぁ……)


「なにやってんだー、要?」

 男子バスケ部員から声をかけられた要は、「べつに、ひまつぶし」とあっけらかんとしている。

「なんだよ、それ。ひまなら、バスケやろーぜ」

あせかくからヤダ。着がえ持ってきてないし」

「要、すいとかやめてバスケ部入れよー。すけでもいいぞー?」

「そっちがかわりにうちの部入ってトロンボーンいてくれるならいいけど?」

「ムリ! リコーダーなら吹けるけど」

 ひとしきり笑った後で、「練習戻るぞ!」と誰かが号令をかけた。

 バスケ部員たちが体育館に戻ると、辺りはようやく静かになる。


「こら、桜井」

 岬がのっそりと顔を上げると、いつの間にか要がそばに立っていた。

「なんだよ、今の」

「え? ……え!?」

「音割れすぎ、音程悪すぎ!! あれじゃ、ただの雑音だろ。B♭、もう一回!!」

「ええええー、ここで!?」

(しかも、ダメ出し!?)

 要はこしに手をやったまま、吹くまでがさないというようにジッと見つめてくる。

 岬は仕方なく、トロンボーンをかまえてマウスピースを口に当てる。

 おそる恐る音を出してみると、自信のなさそうなスカスカした音になった。

 それをきいていた要のけんには、見る見るしわが寄る。

(ものすごくあきれてる!!!)


「桜井さ。トロンボーン始めたの、高校入ってからだよな?」

 要にきかれて、岬はコクコクとうなずく。

「一年以上、ったよな?」

 もう一度コクコクとうなずきながら、トロンボーンをきしめる。

(阿久津君、完全に目がわってる!)

「初めて吹部に入った中学生でもさ、二年目にはそこそこ吹けるようになるよな? コンクールとかにも出るよな?」

(うっ……胸が痛いです……でも、さっきのは、きんきゆう事態だったからで、だんはもうちょっといい音が出せるんだよ!?)

 先日の部活の全体練習では先生に「よくなった」と言われたし、要にも「前よりいい音が出るようになった」と褒められた。

 なんて言い訳にもならないが……確かに、今の音はわれながらひどかった。


「さーくーらーいー、聞いてんのか!?」

「は、はいっ! 聞いてます!!」

 岬は姿勢を正して返事する。そのほおを、要が両手でパシンとはさんだ。

「う……っ」

 要の手が熱くて、岬の頰までジワジワと熱を帯びてくる。

「練習不足! ロングトーンの練習からやり直し!」

「ふぁい……」

 ムギュッと頰を押しつぶされ、岬は変な声で答える。

 要は同じトロンボーンパートだ。初心者だった岬を今まで指導してくれたのも要だ。

 そのおかげで、去年は出場できなかったコンクールにも今年は出してもらえる。それはとてもうれしいし、要の演奏する姿にあこがれて入ったのだから、少しでも近づけるようにがんばりたい。

 がんばりたいが、練習中の要はスパルタだ。経験が浅いからなんてようしやしてくれない。

 それもこれも、岬がみんなの足を引っ張らないようにしてくれているのだということは重々承知しているのだが──。


「よし」

 要は満足そうにうなずいて、岬の頰から手をはなす。

「じゃ、今から音楽室にもどって練習だな。トロンボーンパートのはじにならないように、みっちりきたえる!」

「ええ、今から!? 私、これからつぼみとお弁当を食べる約束してて……」

「桜井は人一倍練習しなきゃ追いつかないだろ?」

「う……ごめんなさい……」

「わかればよろしい」

 がっしりとうでをつかまれて、岬は内心うろたえた。

 はだれる手のかんしよくと体温に、しんぱくすうが上がってしまう。

 要はあまり気にしない性格だが、岬は緊張してしまって──困るのだ。


「だいたい、ちゃんとチューニングしてんのか?」

「してるよ! 音はバッチリ合ってる!」

「ふーん……それ、ちょっと借りていい?」

 要が手を出してくるので、岬はなにも考えないままトロンボーンをわたす。

「なんで、あんな変な音が出せるんだ? 桜井、むしろ天才なんじゃない?」

 そう言いながら、要はトロンボーンを自分の口に運ぶ。

(……え?)

 ポカンとして見ている前で、要はB♭の音を出す。

「え……ええええっ、ちょ、ちょっと、待って。阿久津君。それっ!!」

(さっきまで、私が使ってたのに……)


 うろたえていると、要はマウスピースをくちびるに当てたまま、チラッと視線だけを岬に向ける。

 いたずらっぽいみがその口もとにのぞいていた。

 そのまま、スライドをすべらせるとびやかな、耳に心地ここちいい音が空いっぱいにひびき渡った。


(ああ、やっぱり上手だ……下手へたくそな私みたいに割れたり、スカスカしたりしない)


 クリアで、どこまでも広がっていく──。

 岬は目をせ、音にきき入っていた。

 初心者のくせに、楽器の経験もないくせに、すいそうがく部に入ろうなんて大それたことを考えたのは、要と出会ったからだ。

 入学してまだ、どこの部に入るのか決めていない時だった。

 ぐうぜん通りかかった音楽室のドアが開いたままになっていて、音がろうにもれていた。

 だれが吹いているのだろうと気になってのぞいてみれば、要が一人、トロンボーンを手に吹いていた。

 一音一音、確かめるみたいなやさしい、静かな音。

 チューニングという作業なのだと、音楽にそれほどくわしくない岬でもわかった。

 フルートを吹いていたつぼみもよくやっていたから。

 チューナーという機械を使って、ズレている音を合わせていく大事な作業。

 その姿から、しばらく目がはなせなかった……。

 かっこよくて、音がとてもれいで、あんな風に楽器が吹けたらと強く憧れて、その日のうちに、要に声をかけた。


『初心者でも、楽器ってできるかな!?』


 そうきいた岬に、要は『だいじようだよ』と答えてくれた。

 実際に始めてみると想像以上に大変だったが、今ではなんとかみんなにもついていけるようになった。まだまだではあるが、それでも要の音をきくたびに、もっとがんばりたくなる。

 もっと上達して、要といつしよに演奏したいと強く思う。


 要は軽く音を確かめてから、流すようにその場で演奏を始めた。

(この曲……夏のコンクールのために練習してる曲だ)

 切れのいい音と、軽快なテンポ。難しいところもサラッとこなしてしまう。

(うん、やっぱりうまい……)

 要の演奏をきいていると、自分まで楽しくなって心がフワフワしてくる。


 ジッときいていると、要の演奏がピタリとやんだ。

(あれ、最後までかないの?)

 そろっと要を見ると、目が合った。

「今、少し、ドキッとしただろ?」

「えっ!?」

「なんてな」

 要は岬にトロンボーンを返し、軽い足取りで校舎のほうに戻っていく。

 岬は頭から湯気が出そうになり、トロンボーンを持つ手に力をこめた。

「し、ないよ、バカァ!」

 要は背を向けたまま笑っている。本当はさっきからずっとドキドキしっぱなしだ。

(人の気も知らないで……)

 岬は唇を引き結んでうつむく。


 要にとっては大したことではないのだろう。

 軽いノリでじようだんみたいに言ってしまえるようなことなのだ。

 岬は心臓がいまにもはじけそうになっているのに。

 こんなに意識しているのは自分のほうだけだ。

 要にとってはただのクラスメイトで、部活仲間。だから、きっと気にしないでいられるのだ。


 その場にしゃがんだ岬は、「うー……」と小さくうなった。

「バカ、どんかん! 無自覚にもほどがある!」

 どうして気づかないのだろう?

 こんなにもわかりやすく顔にも態度にも出ているのに。

 それとも、気づかないふりをしているだけ?

(そうじゃない。本当に、全然わかってないんだ。私が阿久津君を好きだなんてこれっぽっちも思ってない)

「言うまで、気づかないかなぁ……」

 力なくつぶやいて立ち上がると、切ないため息がこぼれた。そのまま、空に視線を移す。

 まだ要の音のいんが残っているような気がした。

 岬は一年生の時からずっとかたおもい中。もう一年半がすぎた。残された高校生活はあと半分。

 変わらない関係値──。

 ずっと、このままなのだろうか?


 み出したい。でも、踏み出せない。

 要とはあいまいな関係のまま、今年も夏をむかえようとしていた。

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