第3話「空を見上げれば」②

 久しぶりに頭を使う時間はとんでもなくだるかったけれど、ゆっくりと流れる時間で行う勉強は学校でする授業よりもずっとわかりやすかった。

 先生のこのやわらかい独特のふんのおかげかもしれないけれど。


「予習はもちろん、復習も大事なんですよー。勉強は特にね」

「ふぅん」

 今、それを身にしみて感じたところだ。

 さすが先生をしているだけあって、教え方がうまいなぁと感心していた時だった。

「あっ、これ過去形じゃないですよ」

「えっ、どれ?」


 先生が身を乗り出したと同時に私も同じ動きをした。

 額がぶつかるくらい、私と先生のきよは近くて男の人にこんなに近寄ったのは初めてだ。

「ほら、ここはですね……」

 頭を上げればとんでもなく近い距離にいる先生のせいで、せっかく教えてもらった説明は全く頭に入ってこなかった。

「わかりましたか?」

「あっ……」


 せっかくヒントを教えてくれたのに、全然理解できなかった。

 わかったのは先生はお父さんみたいな男くさいにおいはあんまりしなくって、シャンプーみたいなにおいが強いってことと、せた目がすぐ前にあったから、意外とまつ毛が長いということだけ。

 そして、ひとみの色がくもってなくてとうめいかんがある、とてもれいな瞳だった、ということだ。


「あれー、説明の仕方が悪かったですかね?」

 先生は私がそんなことを思っているとは知らず、後頭部をかいて困った顔をしている。

ちがう、先生は悪くない。私が聞いてなかったの」

「そうですか。まぁ、いきなりずっと勉強はつかれましたよね。きゆうけいしましょうか」

 悪いのは私なのに、先生はおこらない。

 そういえば先生の怒った声って聞いたことがない。

 表情を見たって、いつもニコニコとしたがおだ。

「先生って何歳?」

「んっ? どうしたんですか、急に」

「いや、何となく……」

「もう二十五歳ですよー。あともう少しでアラサーですねぇ。つい最近まで学生だと思っていたのに」


 先生は窓の外をながめて遠くを見つめ、なつかしそうにつぶやいた。

 自分の高校生のころでも思い出しているのかな。

「先生ってどんな高校生だったの?」

「きょ、今日はずいぶんと質問してくれるんですね」

「べ、別に……興味があるとかじゃなくって、単に話題がないだけだから!」

「あぁ、そうですねぇ。僕みたいな年上だと共通の話題なんてないですもんねぇ」


 先生はクスクスとテーブルの上にうでみをして微笑ほほえんでいる。

 私はずかしくなってしまって、窓の外をぷいっと向いた。

「僕の高校時代は……そうですね、弥生さんになら話してもいいかもしれませんね」

 先生らしくない切なげな笑みをかべ、ぽつっと呟いた。

 私はいつものようにじやけんな雰囲気を出してはいけないと思い、姿勢を正して先生を真っぐ見た。

「……あんまりいい思い出とかないの?」

「ないですよー。部活でバレーボールばっかりしていたので。つらくて苦い思い出しかないですね」

 ハハッと笑う先生からは切ない表情は消えていた。

「……そんなにいやだったの? 練習」

 ツッコんで聞いていいかわからなかったけれど、いやなら話題をらされるだろうと思い勢いで聞いてみた。


「練習はたしかにきつくていつもいやだと思っていましたよ。でも、原因は練習じゃないんです」

「じゃあ、なに?」

 私が問うと先生はテーブルの下にある左足を私に見える位置までずらし、ズボンのすそをまくり始めた。

「ちょ、何してんの……!」

 先生の行動におどろいて目を両手でかくそうとしたけれど、その手は止まってしまった。

「高校三年生の時に交通事故に巻き込まれてケガをしてしまったんです。これ、その時の傷なんですよ」


 先生の左足のひざから足首にかけて、かなり目立つきずあとが真っ直ぐにある。

 こんなにはっきり残っているくらいだから、そうとう大きなケガだったんだろうなと、簡単に想像がついた。


「高校三年生の……夏を、むかえる前くらいだったから、ちょうど今くらいの季節ですね」

「今……」

 苦笑いをしながら、先生はズボンの裾をもどした。

「最初はね、夏の大会に間に合うようにリハビリもがんっていたんですよ。高校最後の大会だし、僕はリベロというポジションで同じ学年にひかえはいなかったので、絶対に間に合わせなくちゃいけないって」

「リハビリはかなり辛かったんですよー。毎回泣き言を言っていました」と笑いながら語る先生。

 私はそんな声を聞きながら、その先に考えられる最悪の予想が頭の中にめぐると、あせりしか生まれなかった。

 でも、そんな私とは反対に先生はたんたんと語る。


「でも、退院して部活をのぞきに行ったらね、代わりがいたんです。気にも留めていなかった二年生のこうはいがね、僕の代わりにコートに立っていたんですよ。しかも、周りはそれを当たり前のように受け止めていた」

 当時のことを思い出しながら語っている先生、いったい今、どんな気持ちなんだろう。

「部員はみんな同情はしてくれましたよー。チームワークはよかったですから。でも、時間は待ってくれませんでした。大会に間に合わないとまれたんでしょうね。ポジションは下級生に取られちゃいまして……」

 淡々と語る先生の声からは、何の感情も伝わってこない。

 こんなの、授業の時の方がよっぽど楽し気に話してる気がする。


「その上、こうしようのこってしまったので、最後の大会はレギュラーからおろされて控えになってしまいました」

 先生は少し切なげな表情をしただけで、にこやかな笑みにまた戻っていた。

 そんな過去を持っているなんて、だんの先生からは全く想像つかなかった。

「大会もちゆうで負けて、試合にも出られなかった。これが僕の高校生活最後の部活でした」

 それでも先生は明るく笑っている。

 私はギュッとしたくちびるみしめた。


「試合に出られなかったこと、こうかいしてる?」

「それはもちろん。くやしい気持ちでいっぱいです」

 先生は前のめりになって私に顔を近付けてきた。

 結構な距離の近さに、驚くほど心臓は音を鳴らして飛びねる。


「弥生さんは? やり残したことや後悔とかありませんか?」

 都築先生にうかがうような視線を送られ、私はまばたきさえもできずに固まってしまった。

 それからも先生とは目線を合わせることができず、無言で自分の太ももを見つめる。

「……すみません。ちょっと踏み込んだ質問をしすぎてしまいましたよね。続き、しましょうかー。時間はあっという間ですよー」

 そう、時間はあっという間に過ぎていくんだ。

 私がずっと同じところで立ち止まっている間も、周りの時間は止まらない。

 どうして私だけがこんな目にあっているんだろうって気持ちが次々といてくる。

「……悔しい」

 気付けば、口から言葉がこぼれていた。

「私、なんにも悪いことしてないのに……」

「弥生さん?」

 先生が私の名前をやさしく呼んでくれた。

 その声を聞いたしゆんかん、こらえていたなみだこうずいのようにあふれ出した。


「私、悪くないのに、私が悪者になって……なんで……」

 ボロボロとおおつぶの涙がほおに伝って、それをいつしようけんめいぬぐった。

 でも、いくら拭っても涙は止まらない。


 先生はいきなり泣いた私を見て驚いているだろう。

 でも、先生の過去の苦しい話を聞いて、じようきようちがうけれど苦しいおもいをしてそれを乗りえた先生なら、私に起こった出来事を受け止めてくれるんじゃないかって気持ちが生まれ始めたんだ。

「……僕でよかったら話してくれますか?」

 先生のその一言で、私の意地でガチガチに固まっていた心はゆるやかにけていった。

 何度かうなずいた後、私は涙を拭いゆっくりと自分に起きたあの最悪な出来事を語り始めた。

 すべてを話した時は、ずっと足に付いていたなまりのように重い物が少しだけ軽くなった感じがした。


「そうですか」

 先生はその一言を言うと、うつむいていた私の頭にあたたかい手をせてくれた。

「辛かったですね」

 先生の手は言葉のリズムに合わせて何度か私の頭を往復する。

 その手は優しいけれど、でもしっかりと力強く私を支えてくれていた。

こわかったでしょう。友達だった人たちに責められて、だれも味方がいなかったのですから」


 先生のこの言葉にまた大粒の涙が溢れ出してきた。

 思わないようにしていたその感情に、私は初めて頷くことができた。

 ……怖かったんだ。ずっと。

 学校に行ってもけいべつされた目で見られて、追われて、誰も味方がいなかったあの学校が、怖かった。

「すみません。僕が一番に気付くべきだったのに、なんにもしてあげられなくて」

 返事はせず、ただ首を横にブンブンとり続ける。

 もう涙で言葉を出せるゆうはなかった。


「なにか僕にできることはありますか? きっと、まだおそくないと思うんです。だって、なにも解決していないでしょう? 弥生さんの問題は」


 ……先生は、私に起こった出来事を今さらどうにかできると思っているんだろうか。

 げた私はもうかかわることをきよしたのに、先生は解決しようとしている。

「今すぐにどうにかしようとは言いません。ただ、ほんの少しだけでいいから勇気を出してください。僕が協力しますから」


 想像もしていなかった展開に、私の意志はついて行かず、どうしたらいいのかと視線をただ泳がすだけだった。

「ゆっくりでいいです。ゆっくり、これからのことを考えましょう」

 そして先生はうでけいで時間をかくにんする。

 小声で「あっ」と放つと、申し訳なさそうに私を見た。

「すみません、話をしすぎたせいで部活に行かなきゃいけない時間になってしまいました……今日できなかった分は、次までの宿題にしておきますので、必ず解いておいてくださいね」

 謝罪のポーズをしながらも、しっかりと宿題を出す先生。

 私は瞬きをして涙を引っ込め、「わかった」とつぶやいた。


「ゆっくり、ゆっくり頑張りましょうね」


 最後にそう言い、先生はから立ち上がる。

 私は涙とあせき、机の上を片づけた後、立ち上がった。

 静かにくつおとを鳴らしながら、図書館の出入り口へと歩く私達。

 私は先生のすぐ後ろを歩き、このまま帰ってしまうのをなぜか心細く思い、先生の服のすそつかみそうになってあわてて手をひっこめた。


(なにやってんだ、私……)

 先生をこいしく思って引き止めるなんて、どうしてそんなことをしそうになったんだろう。

 先生から見えないように左右に首を振り、図書館を出る。

 すると、いつの間にか雨が降り始めていたみたいで、アスファルトからは雨のにおいがした。

「降ってきちゃったんですねぇ。しょうがない、弥生さんここで待っててください。車をここまで回します」

「えっ、いいよ。私も車まで行く」

「ダメですよ。雨にれちゃいます」

「少しくらいならいいよ」

「じゃあ、これ頭にせてください」


 先生はそう言って、私に背負っていたリュックをわたす。

 うでにはなかなかの重さが伝わってきた。

「お、重い……」

「濡れるよりマシでしょう。ほら、走りますよ」


 先生に背中を押され、私はリュックを頭に載せて先生のななめ後ろを走った。

 先生は私がちゃんとついてきているか振り返り、存在を確認する。

 目と目が合うと、ニコッと優しく笑ってくれ、その瞬間、ドキッと高鳴る私の心臓。

 先生にときめくなんて、ありえない……と思っているのに、ドキドキが止まらない。

 車に着くと、先生は慌ててかいじようして助手席のとびらを開けてくれた。

「早く乗ってください。雨に濡れる前に」

「先生のリュックがあるからだいじよう

「いえ、それ以上濡れると僕のリュックがボトボトになるんですー。それ一つしかないんですよ」

「ちょ……なんでもっと早くそういうことを言ってくれないの!」


 私のギョッとした顔と慌てて助手席に乗る姿がおもしろかったんだろうか、先生は雨に濡れたまえがみをぐしゃぐしゃとかき上げながら笑う。

 そんな仕草にいちいち反応して照れてしまい、プイッと横を向くと先生は助手席をゆっくりと閉めて運転席側に回る。

「ちょっと急ぎますねー」とびした声とは反対に、せわしない動作で車を発進させた。

 これから部活だ……と思うとなんだか申し訳ない気持ちになって、私はなおに謝った。


「……いそがしいのにごめん」

「えっ、謝らないでください。言い出したのは僕ですし、連れ出したみたいなものでしたし」

「でも、これから部活なんでしょ」

「そうですねー。女子の弥生さんと一対一とは正反対のむさくるしい男子の集団の相手をしなくちゃですねー。でも、楽しいんですよ、彼らといると」


 本当に楽しいのか、先生はとってもいい顔をして笑っている。

 そういえば、男子の間から都築先生の悪い話って聞いたことがないから、男子にはそれだけ信用されている先生ってことなんだ。

 その気持ち、今の私ならわかるかも……


「……先生」

「はい、なんですか?」

 いざ、言葉に出すのはずかしいから私は雨が打ち付ける窓を見ながらポツリと呟いた。

「今日、来てくれてありがと」

「……」

 感謝の言葉を口に出したのに、先生は無言だ。

 それを不思議に思い、視線を少しだけ運転席に向けると、先生はまばたきを何度もしていた。

「ちょっ! 前見て! 運転中!」

「あっ、あぁ、すみません」

 慌ててハンドルを持ち直しながら前を向く先生は、心底おどろいた顔をしていたけれど、その顔はすぐにゆるんだがおへと変わった。

「やっぱり生徒から感謝をされるのって最高にうれしいですねぇ。教師をやっててよかったと思える一番のしゆんかんですよ」

 本当にほがらかに笑う先生の横顔を見ていると、私までつられて笑ってしまう。


「ふふっ」

「あっ、笑いました? 笑ってくれました?」

「私だって笑うし……」

「でも、初めて見ましたよー、弥生さんの笑顔。かわいいですねぇ」

 先生に「かわいい」と言われて、心臓がばくはつしそうなくらいに高鳴った。


「バッカじゃないの! かわいいとか!」

「あっ、これって教師としてマズいんですかね? どう思います? 弥生さん」

「そんなの知らないし!」

 最後は都築先生の緩いふんにのまれたまま終わった短い授業時間だった。

 私はその日は一日、とてもゆったりした気持ちで過ごすことができたんだ。


<続きは本編でぜひお楽しみください。>

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