第1章②
息を切らして部屋に入った美紅と凜は、そこに広がる光景に目を疑う。
室内にはイーゼルにのせられたキャンバスが円形に並べられ、数人の生徒が絵を
部屋のあちこちに
木製の机には
「って、ここ……」
「美術室!?」
美紅が
「飯田先輩、ここ保健室じゃないですよ!?」
凜の肩にもたれたままの飯田に問いかける。
「ふふふ……」
下を向いたまま、飯田は不敵な
そして、凜の腕から
「ようこそ! 南山高校美術部へ!」
「はあ!?」
美紅と凜は同時に声を上げた。
「今日は新入生の君たちに向けてデッサンの体験会を
「デッサン……体験会?」
美紅が黒板に目をやるとチョークの
キャンバスに向かっているのは新入生で、それぞれに先輩部員が付きそって指導しているようだ。
「さあさあ、二人ともこちらへどうぞ!」
飯田は美紅と凜の手を取り、美術室の奥へ案内した。
その軽快な動きはどうみても病人ではなく、物静かな
「ちょっと! 私たちのことだましたの!?」
ようやく事態が理解できた凜は勢いよく飯田の手をふり
「バレた?」
飯田は凜に向かって照れくさそうな顔をみせた。
「でも、先輩、顔色まだ真っ青ですよ!?」
美紅は飯田の顔を指さす。
表情と動きは元気に見えるが、顔色はまだ
「あ、これね」
飯田は忘れていたと言わんばかりに、眼鏡を外しておもむろにタオルで顔をふきはじめる。
「ほら、このとおり! これ青色の
絵具を
美紅と凜は
「最低……」
きつくにらみつけながら凜は
「だますなんて最低! 本気で心配して、必死になってここまで連れてきたのよ!?」
凜の声が室内に
デッサンをしていた新入生や部員たちが手を止めてこちらを見ている。
「う……」
「まあまあ、落ち着いて」
飯田は
「美紅、帰ろ!」
凜が美紅の手を取って教室を出ようとしたとき、ひとりの生徒が教室に入ってきた。
大きな画材のケースを
その姿を見た美紅は、すぐに気づいた。
今朝校門で出会った彼だ──。
「あ、悠人!
飯田が男子生徒に向かって声をかける。
美紅はそれを聞き
(ゆうと、って名前なんだ……)
「陽平、悪い……担任に呼び止められて」
低い声でつぶやくと、悠人は目の前にいる美紅に気づいた。
「あれ? 君は、今朝の……」
美紅は彼の
「あのときは、どうも……」
二人の様子を
「なんだなんだ? 二人知り合いなの? ちょうどいいや。悠人はその子を
そう言って、両手で悠人と美紅の背中を押し、空いているキャンバスの前まで連れていった。
「え、ちょっと!」
「こら! 美紅に何すんのよ!」
「はいはい、君はこちらにどうぞー」
飯田は凜の背中を押して別のキャンバスへと
二人のやり取りが耳に入らないほど、美紅は
「あ、あの……えっと……」
悠人は持っていた
その動作は
シャツの
「デッサンははじめて?」
悠人の動きに見とれていた美紅は、ようやく今の状況を思い出した。
(そうだ、デッサンの体験会なんだった……)
キャンバスの向こう側にある木製のテーブルにはリンゴがふたつ、バナナがひと
「すみません……私、飯田
「わかってるよ。陽平のやつ、やり方が
凜はまだ飯田と言い合いをしている。
しかし、うまく言いくるめられたのか、しぶしぶデッサンに取りかかるようだ。
悠人はそっと
「とりあえず
「あ、ありがとうございます」
「俺は三年二組の
「わ、私は、一年四組の
(月島先輩。三年生なんだ──)
ごく基本的な情報だが、悠人について少し知れたことがうれしかった。
なぜ悠人のことがこんなに気になるのか。
自分の心の中にわき上がる感情をまだうまく理解することができない。
言われたとおり、ひとまずデッサンに取りかかろうとキャンバスに向かい合うが、真っ白な画面を目の前にして
何から手をつければいいんだろう?
見慣れたはずのリンゴやバナナだが、いざ
それに隣には悠人がいる。緊張でなかなかキャンバスに一筆目を
とまどう美紅に、悠人が助け船を出してくれる。
「最初はこの
「は、はい」
美紅はテーブルの上にある果物に目を
(輪郭をとる。リンゴの輪郭は、丸だよね。あれ、バナナは……?)
モチーフを見ながら描いているはずなのに、キャンバスに描き出した輪郭線は実物とかけ
「うーん……何か変、ですよね……」
目の前にある物の輪郭線を
描こうとして
「デッサンするときに大事なのは、先入観を取っ
悠人がまたアドバイスをくれた。
その声は落ち着いていて、さざ波の音を聞いているような安心感を覚える。
「先入観、ですか?」
「たいてい、人の
悠人は説明しながら美紅に練り消しゴムを差し出す。
「リンゴはこういう形のはず。バナナはこういう形のはず。まずはそういう思い込みを捨てて、目の前にあるモチーフをしっかり観察する。そうして見えてきた形をキャンバスに写し出していくんだ」
「先入観を捨てる……」
それが言葉で聞くほど簡単な作業でないことは美紅にも想像がつく。
先ほど
自分の記憶にあるリンゴやバナナのイメージを消すために。
隣で悠人がじっと見守っている。
美紅は目を開け、もう一度、リンゴとバナナに視線を向けた。
(リンゴは意外と
鉛筆を手に取り、
その手つきからは先ほどのような迷いはなくなっていた。
先入観を捨てて、ただ目の前にあるものを見つめる。
自分はこうだから。他人はこうだから。
そうやって勝手に決めつけて、目をそらしてきた。
もっと目の前にあるものとちゃんと向き合っていける人間になりたい──。
美紅はそんなことを考えながら、キャンバスに線を
「
思わず声を上げる。
キャンバスに
決して上手とは言えないものの、モチーフを真剣に観察して
「うん、良い感じだ」
悠人にほめられ、美紅は心を
「悠人! 俺、また新入生の
そう言い残すと、飯田は走って教室を出ていってしまった。
「ちょっと、飯田先輩! またあの
ドタバタと二人の足音が遠ざかっていった。
「よし。陽平いなくなったし、もう行っても
悠人は美紅から鉛筆を受け取りながら目配せをした。
そう、美術室から
でも、目の前のキャンバスにようやく描き出した絵をそのままにしていくのは心
デッサンを通して自分を変えられるかもしれない。
そんな考えまで出てきたところなのに。
美紅は少し考えてから、悠人に伝えた。
「月島
悠人は
(先輩が、笑った……!)
はじめて見る悠人の笑顔に美紅の胸は高鳴った。
目の前のものをしっかり見つめる。
そう決めたばかりなのに、悠人の顔をまっすぐ見られない自分がいる。
美紅は心の中にわき上がる不思議な感情の正体に気づいた。
(私、
窓の外では空が夕焼け色に染まりはじめている。
教室に
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