第1章②

 息を切らして部屋に入った美紅と凜は、そこに広がる光景に目を疑う。

 室内にはイーゼルにのせられたキャンバスが円形に並べられ、数人の生徒が絵をいている。

 部屋のあちこちにせつこう像が無造作に置かれていて、かべには絵画の作品が貼られていた。

 木製の机には絵具えのぐよごれがついていて、部屋中に木と油絵具が混ざったかおりがただよっている。


「って、ここ……」

「美術室!?」


 美紅がろうに出て教室のプレートをかくにんすると、予想どおり「美術室」と書かれていた。

「飯田先輩、ここ保健室じゃないですよ!?」

 凜の肩にもたれたままの飯田に問いかける。

「ふふふ……」

 下を向いたまま、飯田は不敵なみをかべた。

 そして、凜の腕からけ出すとしなやかに手を上げてポーズをとり、声高らかに告げる。

「ようこそ! 南山高校美術部へ!」

「はあ!?」

 美紅と凜は同時に声を上げた。

 じようきようを飲みこめずにいる二人をおいて、飯田は話しはじめる。

「今日は新入生の君たちに向けてデッサンの体験会をじつ中なんだ。参加費はなんと無料。先輩部員たちが優しく指導しながらデッサンの楽しさを教えてくれるよ」

「デッサン……体験会?」

 美紅が黒板に目をやるとチョークのあざやかな色使いで「新入生かんげい! 美術部デッサン体験会」と書かれている。さすがは美術部、この黒板だけでもひとつの作品と呼べそうなえだと、美紅はみように感心してしまった。

 キャンバスに向かっているのは新入生で、それぞれに先輩部員が付きそって指導しているようだ。


「さあさあ、二人ともこちらへどうぞ!」

 飯田は美紅と凜の手を取り、美術室の奥へ案内した。

 その軽快な動きはどうみても病人ではなく、物静かなふんもどこかへ消えていた。

「ちょっと! 私たちのことだましたの!?」

 ようやく事態が理解できた凜は勢いよく飯田の手をふりはらう。

「バレた?」

 飯田は凜に向かって照れくさそうな顔をみせた。

「でも、先輩、顔色まだ真っ青ですよ!?」

 美紅は飯田の顔を指さす。

 表情と動きは元気に見えるが、顔色はまだそうはくなままだ。

「あ、これね」

 飯田は忘れていたと言わんばかりに、眼鏡を外しておもむろにタオルで顔をふきはじめる。

「ほら、このとおり! これ青色の絵具えのぐだったんだよ。どう? 美術部ならではでしょ?」

 絵具をれいき取り、ニコッと笑ったその顔は血色が良く、どこからどう見ても健康そのものだ。

 美紅と凜は呆気あつけにとられ、言葉が出ないまま数秒の時間が流れる。


「最低……」

 きつくにらみつけながら凜はさけんだ。

「だますなんて最低! 本気で心配して、必死になってここまで連れてきたのよ!?」

 凜の声が室内にひびわたり、あたりは静まり返った。

 デッサンをしていた新入生や部員たちが手を止めてこちらを見ている。

 みなの視線を集めた凜は気まずそうな表情を浮かべた。

「う……」

「まあまあ、落ち着いて」

 飯田は眼鏡めがねをかけながら他人ひとごとのように凜をなだめる。

「美紅、帰ろ!」

 凜が美紅の手を取って教室を出ようとしたとき、ひとりの生徒が教室に入ってきた。


 大きな画材のケースをかたにかけた男子生徒。

 その姿を見た美紅は、すぐに気づいた。


 今朝校門で出会った彼だ──。


「あ、悠人! おそいよ!」

 飯田が男子生徒に向かって声をかける。

 美紅はそれを聞きのがさなかった。

(ゆうと、って名前なんだ……)


「陽平、悪い……担任に呼び止められて」

 低い声でつぶやくと、悠人は目の前にいる美紅に気づいた。

「あれ? 君は、今朝の……」

 美紅は彼のひとみに見つめられ、照れくさい気持ちと自分を覚えていてくれたことへのうれしさで、顔を赤らめてうつむいた。

「あのときは、どうも……」

 二人の様子をのがさず、飯田は声のトーンを上げて話しかけてくる。

「なんだなんだ? 二人知り合いなの? ちょうどいいや。悠人はその子をたのむよ!」

 そう言って、両手で悠人と美紅の背中を押し、空いているキャンバスの前まで連れていった。

「え、ちょっと!」

 ていこうする間もなく、美紅はキャンバスの前に座らされ、となりには悠人がこしを下ろす。

「こら! 美紅に何すんのよ!」

「はいはい、君はこちらにどうぞー」

 飯田は凜の背中を押して別のキャンバスへとゆうどうしていく。

 二人のやり取りが耳に入らないほど、美紅はきんちようしていた。

「あ、あの……えっと……」

 悠人は持っていたかばんをそばの机に置き、制服の上着をいで椅子の背にかける。

 その動作はいつさいがなく、まるでどうの所作を見ているようだ。

 シャツのそでをまくり上げながら悠人がたずねる。

「デッサンははじめて?」

 悠人の動きに見とれていた美紅は、ようやく今の状況を思い出した。


(そうだ、デッサンの体験会なんだった……)


 キャンバスの向こう側にある木製のテーブルにはリンゴがふたつ、バナナがひとふさ、洋酒の空きびんが一本置かれている。その周りに七、八台のキャンバスが配置されていて、新入生はこの果物と空き瓶をデッサンしているようだ。


「すみません……私、飯田せんぱいここに連れて来られて……その……」

「わかってるよ。陽平のやつ、やり方がごういんだから」

 凜はまだ飯田と言い合いをしている。

 しかし、うまく言いくるめられたのか、しぶしぶデッサンに取りかかるようだ。

 悠人はそっとえんぴつを美紅に差し出した。

「とりあえずくふりして、陽平が見てないすきに出ていけばいいよ。見つかるとまたアイツうるさいからさ」

「あ、ありがとうございます」

「俺は三年二組のつきしま悠人。名前は?」

「わ、私は、一年四組のあおやま美紅です」

(月島先輩。三年生なんだ──)


 ごく基本的な情報だが、悠人について少し知れたことがうれしかった。

 なぜ悠人のことがこんなに気になるのか。

 自分の心の中にわき上がる感情をまだうまく理解することができない。


 言われたとおり、ひとまずデッサンに取りかかろうとキャンバスに向かい合うが、真っ白な画面を目の前にしてほうに暮れてしまう。

 何から手をつければいいんだろう?

 見慣れたはずのリンゴやバナナだが、いざこうとすると手がかりがない。

 それに隣には悠人がいる。緊張でなかなかキャンバスに一筆目をえがくことができずにいた。


 とまどう美紅に、悠人が助け船を出してくれる。

「最初はこのやわらかめの2Bの鉛筆でモチーフのりんかくをとっていくんだ。あまり筆圧を強くしないように、でるようなイメージで」

「は、はい」

 美紅はテーブルの上にある果物に目をらしながらおそるおそる鉛筆をすべらせた。

(輪郭をとる。リンゴの輪郭は、丸だよね。あれ、バナナは……?)


 モチーフを見ながら描いているはずなのに、キャンバスに描き出した輪郭線は実物とかけはなれている。

「うーん……何か変、ですよね……」

 目の前にある物の輪郭線をく。これだけの作業だが美紅は早くもかべにあたった。

 描こうとしてしんけんに見つめれば見つめるほど、そこにあるのはありふれた果物ではなく、生まれてはじめて目にする複雑な物体のように正体が見えなくなってくる。


「デッサンするときに大事なのは、先入観を取っぱらうこと」

 悠人がまたアドバイスをくれた。

 その声は落ち着いていて、さざ波の音を聞いているような安心感を覚える。

「先入観、ですか?」

「たいてい、人のおくの中にある物のイメージなんていい加減なんだ。そのイメージがじやをしてモチーフを正しくとらえることができなくなる」

 悠人は説明しながら美紅に練り消しゴムを差し出す。

「リンゴはこういう形のはず。バナナはこういう形のはず。まずはそういう思い込みを捨てて、目の前にあるモチーフをしっかり観察する。そうして見えてきた形をキャンバスに写し出していくんだ」

「先入観を捨てる……」


 それが言葉で聞くほど簡単な作業でないことは美紅にも想像がつく。

 先ほどいた輪郭線を練り消しゴムで消すと、静かに目を閉じてみた。

 自分の記憶にあるリンゴやバナナのイメージを消すために。

 隣で悠人がじっと見守っている。


 美紅は目を開け、もう一度、リンゴとバナナに視線を向けた。

(リンゴは意外とれいな丸じゃなくて所々ゴツゴツしている。バナナは、私が思っていたよりも曲がりくねっている)

 鉛筆を手に取り、しんの先をキャンバスに走らせる。

 その手つきからは先ほどのような迷いはなくなっていた。


 先入観を捨てて、ただ目の前にあるものを見つめる。


 おくびような性格だからといつも目をふせてばかりで、物事を正面から見ることをこばんできた気がする。

 自分はこうだから。他人はこうだから。

 そうやって勝手に決めつけて、目をそらしてきた。

 もっと目の前にあるものとちゃんと向き合っていける人間になりたい──。

 美紅はそんなことを考えながら、キャンバスに線をえがいていった。


けた……!」

 思わず声を上げる。

 キャンバスにえがかれたリンゴとバナナと空き瓶の輪郭線。

 決して上手とは言えないものの、モチーフを真剣に観察してびようしやしたことが伝わってくる。

「うん、良い感じだ」

 悠人にほめられ、美紅は心をはずませた。


 とつぜんとびらのほうから飯田の声が聞こえてくる。

「悠人! 俺、また新入生のかんゆうに行ってくるから、あとはたのんだぜ!」

 そう言い残すと、飯田は走って教室を出ていってしまった。

「ちょっと、飯田先輩! またあのきような手口使うんじゃないでしょうね!!」

 おにの形相をした凜が飯田の後を追いかけて教室を飛び出す。

 ドタバタと二人の足音が遠ざかっていった。


「よし。陽平いなくなったし、もう行ってもだいじようだよ」

 悠人は美紅から鉛筆を受け取りながら目配せをした。

 そう、美術室からけ出すなら今が絶好のチャンスだ。

 でも、目の前のキャンバスにようやく描き出した絵をそのままにしていくのは心しい気がする。

 デッサンを通して自分を変えられるかもしれない。

 そんな考えまで出てきたところなのに。


 美紅は少し考えてから、悠人に伝えた。


「月島せんぱい。私、デッサン最後までやりたいです。このまま続けてもいいですか?」


 悠人はいつしゆんおどろいた表情をかべたが、「ああ、もちろん」と言って微笑ほほえんだ。


(先輩が、笑った……!)


 はじめて見る悠人の笑顔に美紅の胸は高鳴った。

 目の前のものをしっかり見つめる。

 そう決めたばかりなのに、悠人の顔をまっすぐ見られない自分がいる。

 美紅は心の中にわき上がる不思議な感情の正体に気づいた。


(私、こいしてるのかな──……?)


 窓の外では空が夕焼け色に染まりはじめている。

 教室にしこむオレンジの光のおかげで、顔が赤くなるのを悠人に気づかれずにすんだ。

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