第1章①
四月。川沿いに所せましと並んだソメイヨシノの木々は満開をむかえ、人々は足を止めてその美しさに目を
ピッポ。
時計から飛び出したかわいらしいハトが七時三十分を告げる。
「あっ、やば! もうこんな時間! 急がなきゃ!」
鏡の前で
「あら、高校生になったらおさげはやめるんじゃなかったの?」
階段をあわただしくかけ下りてくる美紅に、母親がからかうように問いかける。
「だって、
「はいはい。ハンカチ、
「あ、そうだった。ありがとう!」
美紅がハンカチを取りにいくと、父親が朝ご飯を食べているところだった。
「お父さん、いってきます!」
「うん、気をつけていってらっしゃい」
父親はテレビのほうを向いたままそっけなくこたえた。
ひとり
テレビに映し出された朝の情報番組では、来年の五月に日本で観測されるという
家の外へ出ると、暖かな
つい先週まで道行く人々は厚手のコートを身にまとっていたが、今日はほとんどの人がスプリングコートやジャケット姿に様変わりしていて、心なしか足取りも軽くみえる。
桜の木が立ち並ぶ川沿いは、夏は
今日は県立
晴れて高校生になる美紅は新品の制服に身を包み、これから始まる新しい生活に思いを
どんな出会いがあるだろう?
友達できるかな?
勉強ついていけるかな?
正直なところ、楽しみよりも不安のほうが少し勝っている。
見上げると、
「
思わず声に出てしまうほどの美しさ。
この桜の木は毎年変わらず、春が来る
どんなに寒い冬がきても、どんなに大きな
きっと、来年この道を歩いている頃には、今
そう考えると、なんだか少しだけ心が軽くなる気がした。
美紅はさっきよりもしっかりとした足取りでふたたび通学路を歩き出した。
幹線道路をこえてしばらく歩くと、見慣れたコンビニの看板が見えてくる。
「美紅っ!」
コンビニの
凜とは中学からの付き合いで、美紅と同じく南山高校の新入生だ。
「凜、おはよう!」
「おはよ! 美紅、制服すっごく似合ってる!」
「ありがと! 凜もかわいいよ!」
大好きな凜の顔をみたことで、美紅がさっきまで
「ねえ、私たち同じクラスなんて幸運すぎじゃない!? 私が南高に受かっただけでも
凜は目を
学校からの通知で、凜と同じクラスになることは美紅も知っていた。かなりの人見知りで奥手な美紅にとってクラス分けは死活問題であり、その通知は合格発表と同じくらいの
そして、自分と同じように凜も喜んでくれていることがうれしくてたまらなかった。
「そうだね。神様ありがとうございます!」
美紅も凜のポーズを
雲ひとつない空。
本当にどこかで神様が見ているような気がしてくる。
二人は顔を見合わせて
美紅と凜が住む街から電車で二十分ほど
駅から高校までは十分ほど歩くことになる。
学校が近づくにつれて、周囲には美紅たちと同じ制服を来た生徒が増えてきた。新入生と
そして、美紅たちがこれから三年間通う学び
南山高校は県内ではトップクラスの進学校だ。歴史ある学校ゆえに建物は年季が入っているものの、綺麗に手入れされた樹木や
「せーのっ!」
美紅と凜はかけ声を上げて同時に校門の
「高校生活のはじまり!」
高らかに言いながら、凜は校舎を目指して軽快に歩き出した。
うれしそうな凜の後ろ姿を見て小さく微笑み、追いつこうと足を
そのとき──。
「いたっ!」
美紅の背中に何かがぶつかった。すかさず横から声が聞こえてくる。
「ごめん……
顔を上げると、そこには一人の男子生徒が立っていた。
美術の画材だろうか? これが美紅の背中にぶつかったようだ。
「は、はい。大丈夫です……軽くあたっただけなので」
吸い込まれるような彼の瞳に映る自分に気づき、とっさに目をふせる。
「よかった……本当にごめん」
男子生徒はもう一度頭を下げると、校舎に向かって歩いていった。
その後ろ姿を美紅はしばらく
凜が美紅にかけ寄ってくる。
「美紅、どうしたの? 今の
「ううん、何でもない! さ、早くいこ!」
凜を
男子生徒の姿はもう見えなくなっている。
なぜだろう?
今にも泣き出しそうな彼の目が、美紅の
二人は
この
そう考えると急に
そんな美紅の心情を知ってか知らずか、凜は何のためらいもなく扉を開け放つ。
「おはようございまーす!」
他の新入生たちも笑顔で凜と美紅に挨拶を返す。
(凜と同じクラスじゃなかったら、扉の前で引き返してたかも。神様、本当にありがとうございます)
美紅は心の中でもう一度小さく祈った。
幸いなことに、クラスの顔ぶれは落ち着いた面々が多く、美紅は自分と近い席のクラスメイトとは挨拶を
凜はというと、下校するまでにはクラスの全員と会話し、早くも名前と顔を覚えてしまったらしい。
息をつく間もなく、高校生活の初日はあわただしく過ぎていった。
ホームルームを終えると、美紅と凜は帰り
「式典のときの校長先生の話長すぎだよねー。私、
あくびをしながら凜が言う。
「えっ! 凜、寝てたの? 入学初日から勇気あるね……」
「だって、同じような話、何回もくり返してたよ!? 美紅だって
たしかに校長先生の話は長く、しかも「若いうちは夢中になれる何かを見つけることが大事」という内容を少なくとも三回はくり返していた。
「んー……まあ、ちょっとね」
「でしょー」
苦笑いで同調する美紅に、凜はニヤリと笑ってみせた。
「ねえ、君たち! ちょっといいかな!」
しまった──。
校長先生の悪口を言っているのを誰かに聞かれたのだろうか。
おそるおそるふり返ると、体操着姿の男子生徒が
「え、わ、私たちですか?」
「僕はクライミング部の二年なんだけど、君たちボルダリングに興味あるかい?」
「ボル……リング?」
とまどう美紅たちを気にもせず、男子生徒は二人に歩み寄りながら熱く語りかける。
「簡単に言うと、数メートルの高さの
「は、はあ……」
「とにかく、百聞は一見にしかず。体育館に新入生向けのコースを用意しているから、君たちも体験してみないかい? ああ、
男子生徒は話しながら美紅の手をつかんで連れていこうとする。
「ごめんなさい! 私たち急いでるので!」
次の
「ああ、びっくりした。私たち、
凜は男子生徒が追ってこないか周囲を
「凜、助けてくれてありがと。そっか、部活の
息を切らしながら踊り場を見回すと、壁のあちこちに部活の勧誘チラシが
野球部、サッカー部、バスケ部、バレー部、放送部、茶道部、
大きな書体でシンプルに「新入部員求む!」と書かれたもの。
イラストをちりばめてかわいらしくレイアウトされたもの。
どのチラシからもそれぞれの部活の個性が感じられた。
あらゆる部活にとって、今は新入部員を確保するための大事な時期なのだ。
「部活かー。美紅は何か入るの? 中学と同じバスケ部?」
凜は階段に
「ううん。バスケは中学までって決めてたから。今はまだ何も考えてないや」
中学時代のことを思い返してみる。
バスケ部での三年間、欠かさず練習に
そのため、美紅の中で部活はがんばっても
「まあ、まだ高校生活はじまったばかりですから。ゆっくりやりたいこと見つけていけばいいよね。校長先生もそう言ってたし」
凜はいたずらっぽく
「寝てたくせに何
美紅は笑いながら凜の頭を
そこから
ラクロス部、アーチェリー部、
「や、やっと着いた……」
美紅の
「どの部活も必死すぎて警戒しちゃうよね……」
勧誘を断ってきた生徒たちを思うと、少しだけ心が痛んでしまう。同時に、誰かに必要とされることにあまり慣れていない美紅は、
「部員が少ないとこは新入部員が入らなかったら
凜がそう言いながら自分たちのクラスの下駄箱に向かって歩き出したとき、またもや背後から声が聞こえてきた。
「失礼ですが、新入生の方ですか?」
二人がふり返った先にいた声の主は、
「僕は美術部三年の
これまでの部活の勧誘とは
美術部と聞いて、今朝校門で出会った男子生徒の姿が美紅の頭をよぎる。
返事に困っている美紅の前に立ち、凜はきっぱりとふるまった。
「お誘いありがとうございます。あいにく私たち急いでいるので、申し訳ありませんが今日はお断りさせていただきます。それでは……」
「そうですか……残念です。それじゃ、また次の機会にぜひ」
飯田は少し悲しげな表情で返答した。
美紅は申し訳ない気持ちになりながら、飯田に軽く頭を下げると急いで靴を履きかえた。
「なんだかちょっと悪いことしちゃったかな……?」
先に歩き出した凜に追いついて耳打ちする。
「いいのいいの。自分で入る部活くらい自分で調べて決めるんだから」
凜はふり返ろうとする美紅を制した。
二人が下駄箱から立ち去ろうとしたその瞬間──。
下駄箱のほうでドシン! と何かが
人が倒れている──。
その光景を目の前にして、すぐに事態を理解することができない。
「え、え、うそ!?」
「う……うう……」
うめき声を聞いた美紅と凜は、あわてて飯田のそばにかけ寄る。
「ど、どうしたんですか!
「お、お
美紅の問いかけに、飯田はかすれた声でこたえた。腹部を両手でおさえ、顔色は真っ青になっている。
「大変、保健室に連れていかなきゃ!」
「で、でも保健室ってどっちだっけ!?」
登校初日の美紅たちは、自分たちの教室や体育館の場所を覚えるのに
「こ、こっちです……」
飯田は痛みに顔を
「わかりました。私たちが連れていくので案内してください!」
美紅と凜はそれぞれの肩に飯田の腕をまわして立ち上がる。
体型が
「飯田
美紅は必死で声をかけた。
もしかすると自分たちが冷たく断ったことによるストレスが原因では──?
別れ際の彼の表情を思い返してそんな考えがよぎる。
飯田の案内に従ってゆっくりと歩き、なんとか三人は目的地に着いた。
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