第3章

 私が本気で美術の道を志そうと思ったのは、中3の時。

 子供のころから手先が器用で、絵をいたり物を作ったりするのが好きだった。

 夏休みの宿題はきらいだったけど、自由研究や絵画だけは毎年市から何らかの賞をもらうぐらいの得意分野だった。

 中学に上がって、特別やりたいこともなかったから消去法で美術部に入部して。

 そこでも色んな作品展で、結構賞とかもらえてた。

 もんの先生に、本気で美術の道に進んでみたらどうかと言われて綾城をすすめられたのは中2の時。

 でもその頃の私は、みんなでワイワイさわぎながら遊び半分で描いてるのが楽しかったから、美術の道に進むということがあまりピンとこなくて、結局ギリギリまで進路に迷っていた。

 転機は、中3の時に行った中学校美術展。

 自分たちの作品が出展されていたから、美術部全員でかんしよう会に行ったその美術展で、私はある一枚の絵にくぎづけになってしまった。

 それは、ブルーが印象的な、不思議な絵だった。

 かべ一面をおおうほどのキャンバスの中には、宇宙のような大きな湖が描かれていた。

 その湖に、きようりゆうの化石が水を飲むように口を付けていて、宇宙に大きなもんが広がっている。

 生命を感じさせるような大きながあるかと思えば、湖の底には対照的に近代的なビル群がしずんでいたり。

 何より私の目を引いたのは、独特な青の使い方だった。

 グラデーションともまたちがう、オリジナリティのあるのうたんのつけ方。

 それが宇宙の深みだったり、湖の清さだったりをすごく味わい深く表している。

 とても不思議な世界観で、それでいてきようれつに、せんれつに、心にうつたえかけてくるような──。

 そんな絵だった。

 おそらくゆうに5分ぐらいは、その絵に見入っていたと思う。

 友達にうながされて我に返った私は、慌ててその絵の作者のネームプレートに目を走らせた。《 金賞 綾城学園中等科 美術部3年一同 》

 それを見て体中に、電気が走ったみたいだった。

 綾城に行けって……美術の道に進めって、この絵に背中を押されたような気持ちになった。

 こんな絵を描いてみたい。

 こんな風に、だれかの心にひびく絵を私も描いてみたい。

 今まで感じたことのない、絵に対する情熱みたいなものが、これをきっかけにムクムクとき上がってきて。

 うだうだと長いこと迷っていたのがうそみたいに、私は綾城進学を決意したのだった。


■□■


 楠瀬 晴。

 パンフレットに載っていたその名前を見て、全身にざっととりはだが立った。

 昨日名前を聞いた時は、勝手に『春くん』って脳内へんかんしてしまってたけど……ちがいない。

 まさか彼が、あの絵の作者の一人だったなんて──…。

(……噓でしょ!? こんな……こんなぐうぜんってあるの!?)

 パンフレットを片手に、私はヘナヘナとその場にへたりこんでしまった。

 入学式に助けてくれた人が、あこがれのあの絵を描いた人と同一人物だった。

 そんな、まんみたいな偶然って、起こりうるわけ……!?

「ちょっと千代、どうしたの? だいじよう?」

 ポンとかたたたかれて、私はビクッと体をらせた。

 テンパりすぎていつしゆん自分が何処どこにいるのかもわからなかったけど、芽衣の声でゆっくりと現実に引きもどされる。

 のろのろと顔を上げると、心配そうに私を見つめる芽衣のひとみとぶつかった。

「顔色良くないよ? 立てる?」

「……うん。……大丈夫」

「今日はもう帰ったら?」

「……ん。……でも……」

 差し出された芽衣の手につかまって立ち上がりながら、私は無意識に教室内に目を走らせた。

 様子をうかがうようにこちらを見ている佐々木以外の生徒は、私達なんかに構うことなく、それぞれの作業に集中している。

 それを見ただけで、私はき上げるようなあせりにおそわれていた。

 この中にはきっと……今の私みたいにふわふわした気持ちの生徒なんか一人もいない。

 このままだとどんどんみんなに置いて行かれちゃう……。

(でも……)

 頭ではわかっていても、さすがに今日は何も手につきそうになかった。

 キャンバスに向かったって……きっと彼のことを考えてしまう。

 に取り組まないくせにここにいる方が、よっぽど周りに失礼だ……。

 そう思った私は、とりあえず今日はこのまま帰っていったん頭を冷やそう、と思った。

「やっぱり……今日は帰るね」

 これ以上心配させちゃダメだ、と思い、支えてくれていた手をそっと放しながら、私は芽衣に微笑ほほえみかけた。

 それでもあまり上手うまく笑えていなかったのか、芽衣は私を見てあやふやなみを返してきた。


■□■


(ダメだなぁ……。皆に心配かけちゃってる。しっかりしないと……)

 散った桜もなくなり始めた通学路を家に向かって歩きながら、私は強くくちびるんだ。

 多分二人とも、今の私が絵に対する熱意が下がってきてること、気付いてる。

 大丈夫? の言葉には、おそらく色んな意味が込められているんだろう。

 二人に心配させないためにも、私が綾城に入って喜んでる両親のためにも……何より自分のためにも、早く気持ち切りえて綾城祭の絵に集中しなきゃ……!

(……でも……)

 そこでピタッと、足が止まる。

 そうはいっても、やっぱりどうしても気になってしまう。

 合作だったから、彼がどれだけ作品にかかわったのかはわからないけど……あんなてきな絵を描ける人なのに、どうして絵をやめてしまったんだろう。

 つうに転科したってことは、きっと美術の道に進むつもりはないんだろうし……。

 そんなの当人の自由といえば自由なんだろうけど、彼のあの表情見たら多分深い事情があるんだろうな…って、察しはつく。

(さすがに、そこまではみ込めないよね……)

 理由は気になるけど、興味半分で首突っ込むようなことじゃないし……聞いてまた、彼のあんな表情見たくないし……。

(そもそも首突っ込む以前に、また会えるかどうかすらわかんないしなぁ)

 芸術コースと普通科の関係性を思い、私は止まったその場所で思わず頭をかかえてしまった。

 同じ綾城の名が付いているといっても、芸術コースと普通科は全くの別物。

 大きな行事以外は集会も別、授業内容はカブるはずもなく、だんから接点がまるでない。

 校門こそ一つだけどすぐに道は左右に分かれてしまうし……。

 なので昨日みたいに、偶然校門のところでぶつかって再会するなんて、せきに等しい。

(偶然。……偶然……か)

 自分の思考にふと引っかって、私はせていた頭を上げた。

 考え事をしていて気付かなかったけど、いつの間にかは沈んで辺りは真っ暗になっていた。

(ホントに、偶然なのかな……)

 自分は夢見がちではないし、わりとリアリストな方だとは思ってるけど。

 入学式の日に貧血でたおれたところを助けてくれた恩人が、実は自分が美術の道を志すきっかけになった人だった……なんて。

 しかもほとんど交流のない中で再会できた、となったら……。

 これってもしかして、偶然じゃなくて必然なんじゃ……って。

 どうしても彼に運命的なものを感じてしまうのは……仕方ないよね……。

(楠瀬 晴くん……か)

 昨日から心の中で何度もつぶやいた名前だったけど、今はまた少し、ちがった感情が混ざっているような気がした。

 昨日はあんな別れ方をして、どうしよう、どんな失言をしてしまったんだろう…って、こうかいばかりだった。

 ───でも、今は。

(もっと、彼のこと知りたい……)

 こんなモヤモヤした感情のまま、終わりたくない。

 憧れの絵をいていた人、入学式の日に助けてくれた人……そのまま過去形で、終わらせてしまいたくない。

 彼が抱えているもの……まだ何にもわからないし、私でどうにかできる問題だとも思わないけど、でも……。

 でも、もっと……もっと、彼のことを、深く知りたい。

 強くこぶしにぎりしめ、私は顔を上げてキッと前をえた。

 いつもはどっちかっていうと、自分から積極的に動く方ではないんだけど。

 この時の私はよほど興奮していたのか、普段なら考えられないぐらいの一大決心をしたのだった。


■□■


 翌日の放課後、帰りのあいさつが終わるやいなや、私は教室を飛び出した。

 いつも行く美術室とは反対方向の、職員校舎へ向かってけ出す。

 綾城の校舎はコの字形になっていて、芸術コースと普通科の校舎は向かい合うようにして立っているのだけど、おたがいの校舎を行き来するには真ん中の職員校舎を通らなくてはならない。

 なのでよっぽどの用事がなければおとずれることのない場所で、実際私も普通科の校舎へは足を踏み入れたことはなかった。

(うー、ヤバい。きんちようしてきた……)

 昨日一大決心をした勢いのまま教室を飛び出したけど……さすがに職員校舎の半ばまで来たところで、私の足のスピードもじよじよに落ち始めていた。

 私が来たことがあるのはここまで。

 ここから先は、全くの未知の世界だ。

(普通科か……)

 職員校舎の終わりまで来て一度足を止め、私はふぅっと息をき出した。

 普通科には知り合いもいないし、生徒と声をわしたのも、晴くんを除けばたったの一度だけ。

 昨年の綾城祭で店の焼きそばを買った時に、店番をしていた子と注文のやり取りをした時だけだ。

 それ以外は登下校の道のりでいつしよになるぐらいだけど、ハッキリ言って私、普通科の生徒が少し……苦手だ。

 登下校時でも綾城祭でも思い知らされるけど、普通科はとにかくカップル率が高い。

 もちろんとしごろなので芸術コースにだってカップルがいることにはいる。

 けれどちゆうはんに子供なので、お互いを高めあって認め合って付き合っていけるカップルはごくわずかで、せんたく科目とれんあいを両立できずに別れてしまうパターンも多い。

 その点普通科の生徒はそういうしがらみがいつさいなく、本当に心から青春をおうしてるように見えて、うらやましい半分でどうしても苦手意識が働いてしまうのだ。

(えーい、なやんでてもしょうがない! 行け、千代!)

 おくれする心を何とか奮い立たせ、私は思い切って普通科の校舎に向けて一歩を踏み出した。

 前もって生徒めい簿で調べたところによると、晴くんのクラスは2年3組。

 場所も迷わないようにと頭にたたき込んできたから、あとは晴くんが帰ってしまう前に会えるかどうかが問題だ。

「へー、芸術コースの子だ。めずらしいね」

 下校時刻のため生徒がごった返すろうを歩いていると、時折そんな声が耳に飛び込んできた。

 まずほとんどの生徒がばこへ向かう中、その波に逆らって歩いているだけでも目立っているのに、見慣れないブルーのネクタイの生徒がやはり珍しいのか、チラチラと向けられる視線がはださってくる。

(ヤバい……。帰りたい……)

 緊張とこわさとで心が折れそうになった、その時。

 知らない顔ばかりの中で、ただ一人見覚えのある人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 私は息を止め、思わずその場で立ち止まる。

 げ茶色のかみに、焦げ茶色のひとみ。どこかけだるげな表情。

 ちがいない……、昨日校門の前で再会した、彼だ……!

(……晴くん……)

 迷子になった時に母親を見つけたしゆんかんみたいに、晴くんの顔を見たたんみようにホッとしてしまって。

 何故なぜだかグッと、がしらが熱くなった。

 晴くんはゆっくりとした足取りで歩いていたけれど、私とのきよが1メートルぐらいになったところで、ふっとこちらに目を向けた。

 目が合った瞬間、びっくりしたように目を見開き、足を止める。

「…………」

 ほんの一瞬無言で見つめ合った後、彼はフイと私から目をらし、再び足を動かし始めた。

 そのまま何も言わず私の横を通り過ぎようとしたので、私はあわてて彼のそでぐちをつかんだ。

「ま……待って!」

 勢いよく袖を引っ張ったせいか、晴くんはガクン、と体をつんのめらせた。

 はずみでこちらをり返り、目を丸くして私の顔を見下ろす。

「───何だよ」

 少し非難するように、彼の声は低くするどかった。

 ちょっとあつされて、私はパッと彼から手を放す。

「あ、あの……、ちょっと、話があるんだけど……」

「話?」

 ふるえる声で言うと、晴くんは小さくまゆをひそめた。

 私はコクコクと無言でうなずく。

「なんだよ、話って……」

 晴くんはこちらに体を向き直らせながら、ふとそこで言葉を止めた。

 そうして軽く辺りをわたす。

 緊張で視野がせまくなっていて全く周りが見えていなかった私は、そこで初めて周囲の注目を集めていることに気が付いた。

「え、マジで告白?」

「うそ、芸術コースの子が?」

 そんなおもしろがっているような声がチラホラ聞こえてきて、私の体がカーッと熱くほてりだした。

 晴くんはまえがみき上げながらハァッとため息をつき、直後私に向かって小さく手招きした。

「来て」

 そのまま返事も聞かずに、クルッと方向てんかんする。

 私は足に力を入れ、慌てて彼の後を追った。

 どこに行くんだろう、と思っていると、晴くんは振り返りもせずにスタスタと階段を上り始めた。

 屋上に行くんだな、と何となく察する。

(なんか悪いことしちゃったな……)

 ふしぎとおこっているように感じる彼の背中を見つめながら、私は少し彼に申し訳なく思った。

 四階まで上り切ると屋上へ通じる大きな鉄のドアがあり、晴くんはそれを体全体で押すようにして開けた。

 ヒヤリと冷たい風がき込み、そこで初めて晴くんは私を振り返った。

「何、話って」

 屋上へ出て向かい合ってすぐ、晴くんはけいかいするような声でそう聞いてきた。

 一度収まりかけていた緊張に再びおそわれて、私はゴクリと息を飲む。

 落ち着け……落ち着け。

 昨日家に帰ってから、死ぬ気で考えた最善策。

 晴くんとのつながりを持てて、なおかつ美術活動にも支障をきたさない、ゆいいつの方法。

「楠瀬 晴くん! お願いがあります!」

 ペコッと頭を下げながら大きな声を出すと、顔は見えないけど晴くんが軽く身じろぎする気配がした。

 徐々に徐々に、心臓の音が大きくなってくる。

 晴くんが何も言わないので、私はうかがうようにそろりと顔を上げた。

「あ、あの……」

「…………」

「綾城祭に展示する、絵のモデルになってもらえないでしょうか……!?」

 言いよどんでいても仕方がないと思い、私は一気に吐き出すようにそう言った。

 私の言葉を聞いた晴くんは、一瞬ポカンとしたような顔になった。

 ───そう、これが。

 私が一晩考えいて出した答え。

 晴くんに、絵のモデルになってもらうこと。

 今までみたいにおくの中の彼をくんじゃなくて、晴くん本人にもしモデルをたのめたなら。

 晴くんとの繫がりもできるし、もっと晴くんのこと知ることができるかもしれない。

 そう考えると、昨日まで綾城祭の絵の構想なんてまるでかんでこなかったのに、みるみる作画意欲がいてきて。

 だんはそんなに行動力のない私でも、普通科まで足をみ入れる勇気が自然に出たのだった。

「……は? ……モデル?」

 しばらくして、こんわくしたように晴くんがそう言った。

 私はコクリとうなずく。

「うん。……美術科では綾城祭で一人一作品必ず展示しなきゃいけなくて……」

「…………」

「その絵のモデルを、あなたに頼めたらなぁ…って」

 じっと射抜くような彼の視線に少しおびえて、声がだんだんと小さくなってゆく。

 そのまましりすぼみになって言葉を止めると、晴くんは静かに口を開いた。

「話、終わり?」

「え?」

「絵のモデルになってっていうのが、あんたの話?」

「……そう、です」

 小さく頷いた私を見て晴くんは一度目を閉じ、ふっと一つ息をいた。

 直後目を開けたかと思うと、彼の体はすでに校舎へともどるドアの方へと反転していた。

「───悪いけど」

 とりつくしまもない、という言葉のお手本のように短くそれだけ言い、晴くんはサッとドアへ向かって歩き始めてしまった。

 予想はしてたけど、それをはるかにえるあっさり具合だった。

 ギョッとした私はとっさに晴くんの前に立ちはだかる。

「ま、待ってよ! ちょっとぐらい考えてくれても……」

「考えたって同じだよ。モデルなんてやりたくない」

「どうして……!?」

 すると晴くんは険しい顔で私を見下ろした。

「どうして? その質問自体、おかしいだろ」

「…………」

「あんたの絵のモデルになって、俺に何のメリットがある訳?」

(……メリット……)

 ごくごもっともな彼の言葉に、私は二の句がげなくなる。

 言われてみれば……確かにそうだよね。

 私にとっては、一石二鳥だ! なんて喜んでたけど、晴くんからしてみれば何のメリットもない。

 それどころか、モデル料をもらう訳でもないのに時間をとられて、ハッキリ言ってメリットどころかむしろデメリットだと言われても仕方がない。

(でも……ここであきらめたら、きっともう接点なんて完全に無くなっちゃうよ……)

 スカートの横で、私はギュッとりようこぶしにぎりしめる。

 今日もう一度会えて、改めて強く思ったのに。

 やっぱり私、この人のこともっと知りたい……。

 運命ってものを、信じてみたい……って。

「───お願いします!」

 どうしてもこのまま終わりにはしたくなくて、気が付くと私はガバッとこしを折って深く深く頭を下げていた。

「どうしても……どうしても、あなたをモデルに絵を描きたいの!」

「…………」

「今年の絵のテーマ、全然決まらなくて、すごく迷ってて……。そんな時に晴くんと再会して。引いちゃうかもしれないけど、助けてくれた人の手、忘れたくなくて、ずっとスケッチしてたの。……だからせっかくなら手だけじゃなくて、全体を描いてみたいなぁ……って。そう思ったら、ちょっと下がってたモチベーションも上がってきて、意欲も湧いてきて……。だからどうしても、あなたにモデルを引き受けてほしかったの」

 そこで私はゆっくりと顔を上げ、真っぐに晴くんのひとみを見つめた。

 決してうわついた気持ちじゃなく、あなたの絵を描きたいと本気で思っていることだけはちゃんと伝えたいと思った。

「全部あなたの都合に合わせるから……。ちゃんと毎回、こっちまで通うから。……何か条件があれば、できる限りそれを飲むから」

「…………」

「だから……だから、お願いします。……モデル、引き受けてもらえませんか」

 最後はなみだのにじんだふるえ声になってしまって、言い終わった後で私は強くしたくちびるんだ。

 それでも目をそらさずに、私は晴くんの瞳を真っ直ぐに見つめ続けた。

 少しでも下を向くと涙がこぼれそうで、それはすごくズルいと思ったから。

 さっきのかたくなな態度を見て、多分もう引き受けてはもらえないんだろうな…って、うすうす感じていたのだけど。

 ほんのいつしゆん、彼のげ茶色の瞳がれたような気がした。

「…………」

 晴くんはさっきみたいに瞬殺で断るようなことはなく。

 目線を下げて、少し考え込むような表情になった。

 それから長い長いちんもくが続き──…。

 私達のかげも少し長くなったように感じた、その時。

 ずっと固まったように動かなかった晴くんが、ようやく顔を上げた。

 久しぶりに目が合ったようなさつかくおそわれて、ドキッと大きく胸がはずむ。

 ど……どんな答えが返ってくるんだろう……。

 ホントに全く、見当がつかないよ……。

「───条件」

 不意に晴くんが口を開いたので、私はビクッと体を揺らせた。

「え。……え?」

「条件、飲むっつったよな」

 晴くんの言葉に、私はハッとする。

 さっき私が言ったことだと気付き、私は夢中でコクコクと頷いた。

「う、うん……!」

「じゃあ……」

 ゆっくりと晴くんが口を開くのを、私は息を止めて見つめた。

「1日30分だけなら」

「…………」

 一瞬意味がわからなくて、私はキョトンと晴くんの顔を見上げる。

「え、あの……」

「夏休みまでの放課後30分、あんたがつうまで毎回通うっていうのが条件」

 晴くんは私に向かって三本の指をき立てて見せた。

 おそらく、30分の意味なのだろう。

 さっきとはちがうれしいドキドキで、私の心臓が激しく脈打ち始めた。

 それって……。それって、もしかして……。

「ひ……引き受けてくれるの?」

 かくにんために震える声で問うと、晴くんはあきらめたようにかたで息をついた。

「しょうがねーだろ。ここで断っても、あんた毎日とつげきしてきそうだし」

「そ、そこまでしないよ。今日ここに来るのだって、ものすごく勇気しぼったのに……」

 それでなくても、そんなにしつこくして完全にきらわれてしまうようなことはしたくなかった。

(でも……よかった……)

 ものすごくホッとして、ものすごく嬉しくて、私は熱くなった胸をそっと押さえる。

 どうして晴くんの気が変わって急に引き受けてくれる気になったのかわからなかったけど……完全に晴くんとのつながりがなくなってしまわなくて、本当によかった。

 なんだか今なら、ものすごくいい絵がけそうな気がする……。

「あの……ありがとう、ホントに……」

 ニコッと彼に笑いかけると、晴くんはフイッと横を向いた。

「言っただろ。毎日来られるとめいわくだからって。お礼言われることじゃねーよ」

「…………」

 ぶっきらぼうな物言いを聞いて、ふと疑問に思う。

 ……何だろう。入学式の日にさっさと立ち去ってしまったこともそうだけど、晴くんって、お礼言われたりするのが苦手なのかな。

 一見あいがないようにも感じるけど、もしかしたらこれって、一種の照れかくしなのかもしれない……。

 今まで全くわからなかった、晴くんの『人となり』みたいなものを少しかいま見れたような気がして、私は何だかすごく嬉しい気持ちになった。

「……あ、それともう一つ」

 口元がニヤけそうになるのを何とかこらえていると、晴くんが何かを思い出したように声を出した。

 我に返った私はあわてて表情を引きめる。

 もう一つって……条件追加って、こと……?

 な、なんだろう……。

「ヌードはNGだから」

 ドギマギしながら彼の言葉を待っていた私は、それを聞いてギョッと目をむいた。

 ちょっとはだざむいとすら思っていたのに、一気に顔がカアッと熱くなってくる。

 ヌ、ヌ、ヌード……!?

 おどろいた私は、グイッと前のめりに身を乗り出した。

「そ、そんな要求、しません!」

「一応言っとかねーとと思って。当日げとか言われてもできねーし」

 元々芸術系の人だから『ヌード』って単語にあまりていこうがないのか、ケロリとした表情で彼はそう言った。

 そんな彼を見て、私は開いた口がふさがらなくなる。

 じようだん……なら、もっとそれっぽく言うよね?

 でもこの人、全然表情が表に出ないし……に言ってんのか、ちょっと冗談を言っただけなのか、全く判断できないんだけど……。

(やっぱ、晴くんてよくわかんない人だ……)

 彼の言動がイマイチ理解できなくて。

 すでにドアに向かって歩き始めた晴くんの背中を見つめながら、明日あしたからの彼との付き合い方にじやつかんの期待と不安を、私は感じたのだった。



<続きは本編でぜひお楽しみください。>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る