第3章
私が本気で美術の道を志そうと思ったのは、中3の時。
子供の
夏休みの宿題は
中学に上がって、特別やりたいこともなかったから消去法で美術部に入部して。
そこでも色んな作品展で、結構賞とかもらえてた。
でもその頃の私は、みんなでワイワイ
転機は、中3の時に行った中学校美術展。
自分たちの作品が出展されていたから、美術部全員で
それは、ブルーが印象的な、不思議な絵だった。
その湖に、
生命を感じさせるような大きな
何より私の目を引いたのは、独特な青の使い方だった。
グラデーションともまた
それが宇宙の深みだったり、湖の清さだったりをすごく味わい深く表している。
とても不思議な世界観で、それでいて
そんな絵だった。
おそらくゆうに5分ぐらいは、その絵に見入っていたと思う。
友達に
それを見て体中に、電気が走ったみたいだった。
綾城に行けって……美術の道に進めって、この絵に背中を押されたような気持ちになった。
こんな絵を描いてみたい。
こんな風に、
今まで感じたことのない、絵に対する情熱みたいなものが、これをきっかけにムクムクと
うだうだと長いこと迷っていたのが
■□■
楠瀬 晴。
パンフレットに載っていたその名前を見て、全身にざっと
昨日名前を聞いた時は、勝手に『春くん』って脳内
まさか彼が、あの絵の作者の一人だったなんて──…。
(……噓でしょ!? こんな……こんな
パンフレットを片手に、私はヘナヘナとその場にへたりこんでしまった。
入学式に助けてくれた人が、
そんな、
「ちょっと千代、どうしたの?
ポンと
テンパりすぎて
のろのろと顔を上げると、心配そうに私を見つめる芽衣の
「顔色良くないよ? 立てる?」
「……うん。……大丈夫」
「今日はもう帰ったら?」
「……ん。……でも……」
差し出された芽衣の手に
様子をうかがうようにこちらを見ている佐々木以外の生徒は、私達なんかに構うことなく、それぞれの作業に集中している。
それを見ただけで、私は
この中にはきっと……今の私みたいにふわふわした気持ちの生徒なんか一人もいない。
このままだとどんどん
(でも……)
頭ではわかっていても、さすがに今日は何も手につきそうになかった。
キャンバスに向かったって……きっと彼のことを考えてしまう。
そう思った私は、とりあえず今日はこのまま帰っていったん頭を冷やそう、と思った。
「やっぱり……今日は帰るね」
これ以上心配させちゃダメだ、と思い、支えてくれていた手をそっと放しながら、私は芽衣に
それでもあまり
■□■
(ダメだなぁ……。皆に心配かけちゃってる。しっかりしないと……)
散った桜もなくなり始めた通学路を家に向かって歩きながら、私は強く
多分二人とも、今の私が絵に対する熱意が下がってきてること、気付いてる。
大丈夫? の言葉には、おそらく色んな意味が込められているんだろう。
二人に心配させないためにも、私が綾城に入って喜んでる両親のためにも……何より自分のためにも、早く気持ち切り
(……でも……)
そこでピタッと、足が止まる。
そうはいっても、やっぱりどうしても気になってしまう。
合作だったから、彼がどれだけ作品に
そんなの当人の自由といえば自由なんだろうけど、彼のあの表情見たら多分深い事情があるんだろうな…って、察しはつく。
(さすがに、そこまでは
理由は気になるけど、興味半分で首突っ込むようなことじゃないし……聞いてまた、彼のあんな表情見たくないし……。
(そもそも首突っ込む以前に、また会えるかどうかすらわかんないしなぁ)
芸術コースと普通科の関係性を思い、私は止まったその場所で思わず頭を
同じ綾城の名が付いているといっても、芸術コースと普通科は全くの別物。
大きな行事以外は集会も別、授業内容はカブるはずもなく、
校門こそ一つだけどすぐに道は左右に分かれてしまうし……。
なので昨日みたいに、偶然校門のところでぶつかって再会するなんて、
(偶然。……偶然……か)
自分の思考にふと引っ
考え事をしていて気付かなかったけど、いつの間にか
(ホントに、偶然なのかな……)
自分は夢見がちではないし、わりとリアリストな方だとは思ってるけど。
入学式の日に貧血で
しかもほとんど交流のない中で再会できた、となったら……。
これってもしかして、偶然じゃなくて必然なんじゃ……って。
どうしても彼に運命的なものを感じてしまうのは……仕方ないよね……。
(楠瀬 晴くん……か)
昨日から心の中で何度も
昨日はあんな別れ方をして、どうしよう、どんな失言をしてしまったんだろう…って、
───でも、今は。
(もっと、彼のこと知りたい……)
こんなモヤモヤした感情のまま、終わりたくない。
憧れの絵を
彼が抱えているもの……まだ何にもわからないし、私でどうにかできる問題だとも思わないけど、でも……。
でも、もっと……もっと、彼のことを、深く知りたい。
強く
いつもはどっちかっていうと、自分から積極的に動く方ではないんだけど。
この時の私はよほど興奮していたのか、普段なら考えられないぐらいの一大決心をしたのだった。
■□■
翌日の放課後、帰りのあいさつが終わるやいなや、私は教室を飛び出した。
いつも行く美術室とは反対方向の、職員校舎へ向かって
綾城の校舎はコの字形になっていて、芸術コースと普通科の校舎は向かい合うようにして立っているのだけど、お
なのでよっぽどの用事がなければ
(うー、ヤバい。
昨日一大決心をした勢いのまま教室を飛び出したけど……さすがに職員校舎の半ばまで来たところで、私の足のスピードも
私が来たことがあるのはここまで。
ここから先は、全くの未知の世界だ。
(普通科か……)
職員校舎の終わりまで来て一度足を止め、私はふぅっと息を
普通科には知り合いもいないし、生徒と声を
昨年の綾城祭で
それ以外は登下校の道のりで
登下校時でも綾城祭でも思い知らされるけど、普通科はとにかくカップル率が高い。
もちろん
けれど
その点普通科の生徒はそういうしがらみが
(えーい、
前もって生徒
場所も迷わないようにと頭に
「へー、芸術コースの子だ。
下校時刻のため生徒がごった返す
まずほとんどの生徒が
(ヤバい……。帰りたい……)
緊張と
知らない顔ばかりの中で、ただ一人見覚えのある人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
私は息を止め、思わずその場で立ち止まる。
(……晴くん……)
迷子になった時に母親を見つけた
晴くんはゆっくりとした足取りで歩いていたけれど、私との
目が合った瞬間、びっくりしたように目を見開き、足を止める。
「…………」
ほんの一瞬無言で見つめ合った後、彼はフイと私から目を
そのまま何も言わず私の横を通り過ぎようとしたので、私は
「ま……待って!」
勢いよく袖を引っ張ったせいか、晴くんはガクン、と体をつんのめらせた。
「───何だよ」
少し非難するように、彼の声は低く
ちょっと
「あ、あの……、ちょっと、話があるんだけど……」
「話?」
私はコクコクと無言でうなずく。
「なんだよ、話って……」
晴くんはこちらに体を向き直らせながら、ふとそこで言葉を止めた。
そうして軽く辺りを
緊張で視野がせまくなっていて全く周りが見えていなかった私は、そこで初めて周囲の注目を集めていることに気が付いた。
「え、マジで告白?」
「うそ、芸術コースの子が?」
そんな
晴くんは
「来て」
そのまま返事も聞かずに、クルッと方向
私は足に力を入れ、慌てて彼の後を追った。
どこに行くんだろう、と思っていると、晴くんは振り返りもせずにスタスタと階段を上り始めた。
屋上に行くんだな、と何となく察する。
(なんか悪いことしちゃったな……)
ふしぎと
四階まで上り切ると屋上へ通じる大きな鉄のドアがあり、晴くんはそれを体全体で押すようにして開けた。
ヒヤリと冷たい風が
「何、話って」
屋上へ出て向かい合ってすぐ、晴くんは
一度収まりかけていた緊張に再び
落ち着け……落ち着け。
昨日家に帰ってから、死ぬ気で考えた最善策。
晴くんとの
「楠瀬 晴くん! お願いがあります!」
ペコッと頭を下げながら大きな声を出すと、顔は見えないけど晴くんが軽く身じろぎする気配がした。
徐々に徐々に、心臓の音が大きくなってくる。
晴くんが何も言わないので、私は
「あ、あの……」
「…………」
「綾城祭に展示する、絵のモデルになってもらえないでしょうか……!?」
言い
私の言葉を聞いた晴くんは、一瞬ポカンとしたような顔になった。
───そう、これが。
私が一晩考え
晴くんに、絵のモデルになってもらうこと。
今までみたいに
晴くんとの繫がりもできるし、もっと晴くんのこと知ることができるかもしれない。
そう考えると、昨日まで綾城祭の絵の構想なんてまるで
「……は? ……モデル?」
しばらくして、
私はコクリと
「うん。……美術科では綾城祭で一人一作品必ず展示しなきゃいけなくて……」
「…………」
「その絵のモデルを、あなたに頼めたらなぁ…って」
じっと射抜くような彼の視線に少しおびえて、声がだんだんと小さくなってゆく。
そのまま
「話、終わり?」
「え?」
「絵のモデルになってっていうのが、あんたの話?」
「……そう、です」
小さく頷いた私を見て晴くんは一度目を閉じ、ふっと一つ息を
直後目を開けたかと思うと、彼の体は
「───悪いけど」
とりつくしまもない、という言葉のお手本のように短くそれだけ言い、晴くんはサッとドアへ向かって歩き始めてしまった。
予想はしてたけど、それをはるかに
ギョッとした私はとっさに晴くんの前に立ちはだかる。
「ま、待ってよ! ちょっとぐらい考えてくれても……」
「考えたって同じだよ。モデルなんてやりたくない」
「どうして……!?」
すると晴くんは険しい顔で私を見下ろした。
「どうして? その質問自体、おかしいだろ」
「…………」
「あんたの絵のモデルになって、俺に何のメリットがある訳?」
(……メリット……)
言われてみれば……確かにそうだよね。
私にとっては、一石二鳥だ! なんて喜んでたけど、晴くんからしてみれば何のメリットもない。
それどころか、モデル料を
(でも……ここであきらめたら、きっともう接点なんて完全に無くなっちゃうよ……)
スカートの横で、私はギュッと
今日もう一度会えて、改めて強く思ったのに。
やっぱり私、この人のこともっと知りたい……。
運命ってものを、信じてみたい……って。
「───お願いします!」
どうしてもこのまま終わりにはしたくなくて、気が付くと私はガバッと
「どうしても……どうしても、あなたをモデルに絵を描きたいの!」
「…………」
「今年の絵のテーマ、全然決まらなくて、すごく迷ってて……。そんな時に晴くんと再会して。引いちゃうかもしれないけど、助けてくれた人の手、忘れたくなくて、ずっとスケッチしてたの。……だからせっかくなら手だけじゃなくて、全体を描いてみたいなぁ……って。そう思ったら、ちょっと下がってたモチベーションも上がってきて、意欲も湧いてきて……。だからどうしても、あなたにモデルを引き受けてほしかったの」
そこで私はゆっくりと顔を上げ、真っ
決して
「全部あなたの都合に合わせるから……。ちゃんと毎回、こっちまで通うから。……何か条件があれば、できる限りそれを飲むから」
「…………」
「だから……だから、お願いします。……モデル、引き受けてもらえませんか」
最後は
それでも目をそらさずに、私は晴くんの瞳を真っ直ぐに見つめ続けた。
少しでも下を向くと涙が
さっきのかたくなな態度を見て、多分もう引き受けてはもらえないんだろうな…って、
ほんの
「…………」
晴くんはさっきみたいに瞬殺で断るようなことはなく。
目線を下げて、少し考え込むような表情になった。
それから長い長い
私達の
ずっと固まったように動かなかった晴くんが、ようやく顔を上げた。
久しぶりに目が合ったような
ど……どんな答えが返ってくるんだろう……。
ホントに全く、見当がつかないよ……。
「───条件」
不意に晴くんが口を開いたので、私はビクッと体を揺らせた。
「え。……え?」
「条件、飲むっつったよな」
晴くんの言葉に、私はハッとする。
さっき私が言ったことだと気付き、私は夢中でコクコクと頷いた。
「う、うん……!」
「じゃあ……」
ゆっくりと晴くんが口を開くのを、私は息を止めて見つめた。
「1日30分だけなら」
「…………」
一瞬意味がわからなくて、私はキョトンと晴くんの顔を見上げる。
「え、あの……」
「夏休みまでの放課後30分、あんたが
晴くんは私に向かって三本の指を
おそらく、30分の意味なのだろう。
さっきとは
それって……。それって、もしかして……。
「ひ……引き受けてくれるの?」
「しょうがねーだろ。ここで断っても、あんた毎日
「そ、そこまでしないよ。今日ここに来るのだって、ものすごく勇気
それでなくても、そんなにしつこくして完全に
(でも……よかった……)
ものすごくホッとして、ものすごく嬉しくて、私は熱くなった胸をそっと押さえる。
どうして晴くんの気が変わって急に引き受けてくれる気になったのかわからなかったけど……完全に晴くんとの
なんだか今なら、ものすごくいい絵が
「あの……ありがとう、ホントに……」
ニコッと彼に笑いかけると、晴くんはフイッと横を向いた。
「言っただろ。毎日来られると
「…………」
ぶっきらぼうな物言いを聞いて、ふと疑問に思う。
……何だろう。入学式の日にさっさと立ち去ってしまったこともそうだけど、晴くんって、お礼言われたりするのが苦手なのかな。
一見
今まで全くわからなかった、晴くんの『人となり』みたいなものを少しかいま見れたような気がして、私は何だかすごく嬉しい気持ちになった。
「……あ、それともう一つ」
口元がニヤけそうになるのを何とか
我に返った私は
もう一つって……条件追加って、こと……?
な、なんだろう……。
「ヌードはNGだから」
ドギマギしながら彼の言葉を待っていた私は、それを聞いてギョッと目をむいた。
ちょっと
ヌ、ヌ、ヌード……!?
「そ、そんな要求、しません!」
「一応言っとかねーとと思って。当日
元々芸術系の人だから『ヌード』って単語にあまり
そんな彼を見て、私は開いた口が
でもこの人、全然表情が表に出ないし……
(やっぱ、晴くんてよくわかんない人だ……)
彼の言動がイマイチ理解できなくて。
すでにドアに向かって歩き始めた晴くんの背中を見つめながら、
<続きは本編でぜひお楽しみください。>
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