第2章

 一瞬、頭が真っ白になった。

 忘れてしまわないようにと必死で描き続けた、あの人の手。

 その手が今。確実に。現実に。

 目の前に、ある───。

「…………っ」

 その手の主を見ようと勢いよく顔を上げた私は、顔よりも先に視界に映った彼のネクタイを見て、大きく目を見開いた。

(……え? ……うそ

 彼の首元にゆるめにめられていた、ネクタイの色は。

 記憶の中にある真新しいブルーではなくて、あざやかな赤色だった。

(え? 赤って、ことは……つうの……生徒?)

 ここだけが記憶とちがっていて、混乱した私はじーっと彼のネクタイに見入った。

「───おい?」

 目の前の彼にいぶかしげに声をかけられて、私はハッと我に返った。

「あ、ご、ごめんなさい! あ、ありがとうございます!」

 両手でスケッチブックを受け取りながら、ネクタイで止まっていた視線をゆっくりと上げる。

 思ったよりも彼の顔がすぐ近くにあって、ドキッとした私は思わず一歩後ずさってしまった。

 少しきよを取ったところで、改めてじっくりと彼の顔に見入る。

(この人が……ずっと探してた人……)

 やわらかそうな、げ茶色のかみ。太陽とはえんそうな、白いはだうすめのまゆ。髪と同じ色の、焦げ茶色のひとみ。感情の読み取りにくい、少し下がった口角。

(うわー、うわー、うわー)

 きの特技をいかんなく発揮し、私はしゆんに彼の顔のとくちようを目でとらえていた。

 色々と言葉を並べたけど、全体的にバランスが良く、一言でいえばイケメンだ。

 一年間探し続けていた人の顔を間近で見て、私は感動で打ちふるえていた。

 声をかけなきゃ。……でも、なんて言って声をかけよう?

 まずはやっぱり、あの日のお礼をちゃんと言わなきゃダメだよね。

「……それじゃ」

 無言で震えている私を気味悪く思ったのか、彼は短くそう言ってサッと体を反転させた。

 私はあわてて、立ち去ろうとする彼の背中に声をかけた。

「ま…っ、待って……!!」

 大声で呼び止めると、彼は足を止めてびっくりしたように私の顔を見下ろした。

「───何?」

「お、お礼、お礼が、言いたくて…っ」

「え?」

 彼は再び、私の方に向き直る。

「お礼ならさっき聞いたけど?」

「えっ。あ、いや、さっきのとはまた、別のことで……」

 すっかりい上がり、呼吸すらままならなくなってしまっていて、それを何とか落ち着かせようと私は一度大きく息を吸い込んだ。

 彼は小さく眉をひそめる。

「は?」

「あ、あの……。入学式の日に私貧血でたおれてしまって、階段から落ちかけて……。その時助けてくれた人がいて、でもお礼も言えなくて、あれからずっと、探してたんです……!」

 それを聞いた彼は、ゆっくりと目を見張った。

「打ちどころ悪かったらどうなってたかわからなかったって保健の先生に言われて、どうしてもその人に会って直接お礼言いたかったんですけど、全然見つけられなくて……」

「…………」

「あの……あなた……ですよね? あの時、私を助けてくれたの……」

 チラッと彼の反応をうかがうと、彼はこうていも否定もせずに何だか少し複雑そうな表情を見せた。

「……なんで?」

「え?」

「なんで、それが俺だって?」

「あ……それは……。手を見て……」

「手?」

「あ、私、美術科で絵をいてて……。見たものをしゆんかん的に覚えるのが得意でですね……」

 手を見て分かったなんて言ってドン引きされてはたまらないと思い、私はあせりながら言葉を付けたした。

「あの時、助けてくれた人の手が一瞬だけ見えて、その……時計がすごく特徴的で、印象に残ってて……」

 彼は無言で一瞬、ひだりうでにはめた自分の腕時計に目をやった。

 そうして聞こえるか聞こえないかの小さな声で、そっか……とつぶやいた。

 その後、何か言ってくれるのかと思って彼の言葉を待ったけど、彼は何も言わなかった。

 ───何だろう。

 否定しないってことは、あれは自分だって認めてるって思ってもいいんだよね……?

 そうかいしやくした私は、その場で勢いよくガバッと頭を下げた。

「あのっ、あの時は助けていただいて本当にありがとうございました! おかげさまで、ケガなく今も元気で生活できてます! お礼がおそくなって、すみませんでした!」

 やっと本人にお礼が言えた…っていう一年分のおもいが込み上げてきて、何だかものすごく胸がじーんと熱くなってきたのだけど。

「……別に。たまたまそこにいただけだから」

 そんな私とは対照的なすごく冷めた声が聞こえてきて、私は下げていた頭を上げて、彼の顔を見つめた。

 彼は私なんか見ていなくて、目をそらすように地面に視線を落としていた。

「…………」

 どうしよう、これって……。

 もしかして、メンドくさがられてるんだろうか……。

 そう思うと、メーターがり切れるぐらいに上がっていたテンションが、急激にしぼんでいくのを感じた。

 名前を聞く前に保健室を出て行ったって先生が言ってたけど……やっぱりこういうのがメンドくさくて、言わなかったのかな……。

 今聞いてもやっぱり、教えてはくれないんだろうか……。

「───すみません、あの……」

 思い切って声をかけると、彼は視線を上げて目だけで私の顔を見た。

 ドキドキとはずむ胸を押さえながら、ためらいがちに口を開く。

「名前……教えてもらってもいいですか?」

「え?」

「あ、私は…っ、美術科2年の、桜沢 千代って言います!」

 すると彼は、少しびっくりしたような表情になった。

 その後しばらくちんもくが流れる。

 最初からダメ元だったけど、やっぱりダメだったか……と、内心がっくりとかたを落とした、その時。

「───つう2年。くすのせ はる」

 ボソッ、と。

 ホントにすごくすごく小さな声で彼がつぶやいたので、私ははじかれたように顔を上げた。

「くすのせ、はる……くん?」

 コクリ、と彼は無言でうなずく。

 さっきの何とも読み取りにくい表情を見て、もしかしたら教えてもらえないんじゃないかと思っていただけに、彼の口からちゃんと名前を聞けたことでしずみかけていた気持ちが再びグンとじようしようした。

(くすのせ はる。……はる、くん。はるくんかぁ……)

 そっか、同い年なんだ……。

 うれしくて、心の中で何度も何度も彼の名をつぶやく。

(……あれ。……でも)

 そこで私は、ふとある疑問に行き当たった。

 そういえばさっきも不思議に思ったけど……何故なぜ彼は赤のネクタイをしてるんだろう?

 普通科の2年だって自分でも言ったから、普通科の生徒でちがいないんだろうけど……。

 でも入学式の日は芸術コースの校舎にいたし、ちゃんとブルーのネクタイだってしてた。

 なのに……なんで?

「あの……」

 聞いていいものか一瞬迷ったけど、モヤモヤしたまま別れてしまうのはいやだったので、私は意を決して口を開いた。

「私を助けてくれた時、芸術コースの生徒……でしたよね?」

 ───次の瞬間。

 夕暮れの中でもはっきりと、彼の顔がかたこわるのがわかった。

 それがこわいぐらいに険しい顔で、私はされて口をつぐんでしまった。

 これは聞いちゃいけないことだったんだって、しゆんさとったけど。

 時すでに遅し……だった。

「───関係ねーだろ」

 短くそう言ったかと思うと、彼はグルッと体を反転させてスタスタと門に向かって歩き始めてしまった。

 身動きすらできず、私はぼうぜんと彼の後ろ姿を見つめる。

 その背中は、もう話しかけるな、と言っているようで、完全に私をこばんでいて。

 私は何も言葉を発せず、その場にたたずんでだまってその背中を見送るしかなかった。


■□■


(あーもー……。何でこうなっちゃったんだろ……)

 しようげき的な一日から、一夜明けて。

 あまりにも自分が思い描いていたビジョンとはかけはなれた彼との再会に、私はショックで昨日から何も手につかないような状態だった。

 別に、芽衣や佐々木が言うように、彼を王子様だなんて思い描いてた訳ではなかった。

 そりゃ……少女まんみたいな助け方してくれた人だから、どんな人だろう、カッコ良かったらいいな……ぐらいは考えてたけど、じゆんすいにまず、ちゃんとお礼が言いたいって気持ちが一番だった。

 そして何とかその思いはかなえられたけど……。

 その後の私の発言が、どうやら何か彼のらいんでしまったらしい。

(芸術コースの話題出した瞬間だったよね……。あれってそんなに、ダメな質問だったのかな……)

 相変わらず真っ白なスケッチブックにほおを乗せて、私はぼんやりとそこから見える空を見つめた。

 何をしていても、目を開けていても閉じていても、思い出してしまう。

 この時ばかりは、自分のおく力が少しうらめしいと思った。

 まなうらに、胸に……すべてに焼き付いた、あの時の彼の顔。

 その表情には、痛みとか、くやしさとか……そんなものがいろいろ複雑に混じっているように感じた。

 一体彼に、何があったんだろう。

 どんなことが起こったら、芸術コースから普通科に移ることになるんだろう──…。

 ……そんなことを一日考えていたら、あっという間に放課後になってしまっていた。

 ただでさえスランプ気味で周りからおくれてるのに、これじゃあ彼のことが気になりすぎて、綾城祭のテーマ決めるどころじゃないよ……。


■□■


「王子様が見つかった!?」

 その日の放課後、美術室。

 芽衣と佐々木に昨日の出来事を話すと、よほどおどろいたのか二人は同時にさけんで目を丸くした。

 周りで作業をしているほかの生徒達にじろりとにらまれて、私達はあわてて小声になる。

「ちょっと、あんまり大きな声出さないでよ」

「悪い。で、でも、見つかったって……マジで?」

「うん。……まぁ」

「何よー、よかったじゃん。それでなんでそんなかない顔してんのよ?」

 本来なら喜ぶべきことなのに、朝からずっと頭をかかえてもんぜつしている私を見て不思議に思ったのか、芽衣は小さく首をかしげた。

 私はほおづえをつきながら、ハァッとため息をつく。

「それが……。普通科の人……だったんだよね」

「…………え」

 二人は同時に動きを止め、まゆをひそめた。

「……普通科?」

「うん」

「え。なんで。だって……ネクタイ青だったんでしょ?」

「うん、そうなんだけど……。なんかワケありっぽくて……」

 昨日のことを思い出しながら、私は順を追って二人に彼と再会してからの一連の出来事を説明した。


「じゃあその人……うちから普通科に転科した……って、こと?」

 話を聞き終えた芽衣が、こんわくしたようにつぶやく。

 その横で佐々木が何かに思い当たったように『あ……』と声を上げた。

「そう言えば……ウワサで聞いたことあるな。となりのクラスのやつで、1年の初めに美術科から普通科に転科した生徒がいるって」

「えっ、ホントに!?」

「ああ。しかも中等科上がりで、結構実力もあったらしいって……」

 あごをつまんで話す佐々木の口元を見つめながら、私は再び彼のあのキレイな手をのうに思い浮かべていた。

 彼が本当にそのウワサの人なら……私と同じように何らかの美術活動をしてた……って、こと?

 しかも中等科から通うくらいの実力があったなんて……。

(え……。ちょっと待って。中等科から?)

 頭の中で、何かがチカッと光った気がした。

 ガタッとるようにして立ち上がる。

 二人がびっくりしたように私を見上げたのにも構わず、私はそのまま資料だなへとけ出した。

(もしかして……もしかして……)

 美術展関連の資料が並んでいる棚の前に立ち、私は深く息をく。

 はやる気持ちが指をふるえさせ、私は一度ぐっとこぶしにぎりしめた。

(あった……!)

 昨年度の中学校美術展のパンフレットを見つけて、私は急いでそれを棚から引きいた。

 パラパラとページをめくって、受賞者一覧がっている個所を探す。

 そうして金賞を受賞した綾城中等科のページに行き当たった私は、大きく目を見開いた。


楠瀬くすのせ はる


 受賞者である3年生一同の一覧の中に。

 堂々とトップをかざって、その名前は記されていた。

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