第1章

「そろそろあやしろさいの絵、本気で取りかからなきゃだねぇ……」

 真っ白なスケッチブックを前に、私達三人は同時にハァッと大きなため息をついた。

は何くか決めた?」

「んー。今年はちゆうしようちようせんしてみようかなー、と」

「うわ、マジ? 評価されにくいのに、チャレンジャーだねー」

「そういうばやしは決まってんのかよ」

「油絵ってことだけは決めてる」

 クラスメートで友人の小林 と、佐々木 たくの会話をじっとだまって聞いていた私だったけど、一向にこっちに話題がられないので、会話がれたタイミングを見計らって思わずグイッと前のめりに身を乗り出した。

「ちょっと、なんで私には聞いてくんないのよ」

 軽く二人をにらみながら言うと、二人はゆっくりと目を見合わせた後で同時に小さくかたをすくめた。

「だって、聞かなくてもわかってるし」

「どうせ、あれだろ」

 そして二人はまるで示し合わせたように声を合わせた。

「王子様の手」

「…………」

 二人の言葉には完全にからかうような色が込められていて、カチンときた私はムゥッとくちびるをとがらせた。


■□■


 私、さくらざわ は、この春高2になったばかり。

 私立綾城学園という高校の、芸術コースにざいせき中。

 綾城は、芸術コースとつうコースとに分かれていて、自分で言うのもなんだけど、芸術コースは県内外でもとっても有名な名門コース。

 音楽科や美術科等々、芸術の道を志すトップクラスの生徒が集まってくる。

 普通科とは職員校舎をはさんできっちり二つに分けられていて、制服も芸術コースはブルーのネクタイ、普通科は赤のネクタイってちゃんと分けられていて。

 学祭の時ぐらいしか交流がないせいか、おたがいに少し苦手意識を持っているのが何となくわかる。

 そして、我が校あげての一大イベントが、秋にもよおされる綾城祭だ。

 言ってしまえばまぁ学園祭なんだけど、綾城祭は普通の高校の学園祭とは一味ちがう。

 芸術コースのそれぞれの科の生徒たちがそれぞれのうでろうする場所。

 有名大学や、有名ぎようの関係者もこの日はたくさん来校して、『将来有望な人材』を探しに来るのだ。

 この日で人生が決まると言ってしまっても過言ではなくて。

 なので芸術コースの生徒達は、学年が上がると同時に綾城祭の準備に取りかかり始める。

 高校の学園祭と言えばほとんどの人は楽しいイベントだと思ってるんだろうけど、私達芸術コースの生徒からしてみれば、秋までの長い戦いが始まったわけで、気合とプレッシャーの入り混じった複雑な感情が先立ってしまうのが実情だった。


(今年は何描くかなぁ……)

 に絵の構想に取りかかり始めた芽衣と佐々木から、私は自分の真っ白なスケッチブックにそっと目線を落とした。

 パラパラ…と過去の絵をさかのぼると、そこには何枚にもわたってある人の『手の絵』が描かれていた。

 芸術コースの男子生徒、としかわかっていない、ずっと探し続けている人の手の絵。

(もう……見つけらんないのかなぁ……)

 それらを見つめながら、私はふっと小さく息をついた。

 さっき二人が言った『王子様の手』。

 この手の主を私はこの一年、ずっと探し続けている────。


■□■


 あれは、ちょうど一年前。

 目を閉じて思い出そうとしても、少しずつうすれていく思い出。

 入学式当日。窓の向こうでハラハラと桜がうのを、初めてみ入れた校舎からながめながら、私の胸は期待と希望ではちきれそうだった。

 いよいよ、あの綾城美術科での学生生活が始まる───。

 そう思うと、前日の夜はほとんどねむれなくて、朝食ものどを通らなくて。

 それがわざわいしたのかどうかはわからなかったけど、入学式のちゆうから私は少し胸がムカムカするのを感じていた。

 何とか式を乗り切り、いざ教室へ向かおうと階段を上っている最中、それはますます激しくなってきた。

 キーンとひびく耳鳴りの音、サーッと血の気が引いていく感覚。

 あ、ヤバい、と思った次のしゆんかん、私の意識がふっと遠のいた。

 かすんでいく意識の中で、だれかがガシッと私の腕をつかんでくれたのがわかったけど。

 その人の顔もかくにんできないまま、私はそこで意識を手放してしまった。


 次に目を覚ました時、私は保健室のベッドの上にいた。

 どうやってここまで来たのかわからなくて、その場にいた保健の先生にたずねたところ、同じ1年の男子生徒が私をかかえてここまで運んできてくれたらしい。

 それを聞いて室内をぐるっとわたしたけど、もうすでにその生徒の姿は何処どこにもなかった。

 先生が名前を聞く前に、サッと部屋を出て行ってしまったそうだ。

 それから念のため、熱と脈を測ってもらって異常なしと言われた私は、重い足取りで保健室を出た。

 教室にもどってから、正直私は担任の話も上の空で、まだ少しクラクラする頭を押さえながらさっきの彼のことを何とか思い出そうとしていた。

(顔は見えなかったんだよなー…)

 ヤバい、と思ってから意識がなくなるまでのほんのいつしゆん、私の視界に映ったもの。

 それは、真新しいブルーのネクタイと。

 私の手首をとっさにつかんでくれた、彼の手だった。

 それから保健室までのおくはぷっつりと途切れてしまっている。

 けれど彼の手だけは何故なぜせんめいに覚えていて。

 思わず私は、配られたプリントの裏にそれをき出していた。

(ちょっと骨ばってて……れいな指だった。左手だったから、もしかして左きなのかな……。うでけいのベルトの色、ちょっと変わってたんだよね。薄いモスグリーンに、オレンジ色のラインが入ってて……)

 絶対視覚とまではいかないけど、昔から一度見たものはわりと正確に覚えることができて、私は記憶の中の彼の手をサラサラとプリントの上にスケッチした。

 描きながら、あれ、これけっこうとくちようあるんじゃない? 案外すぐに見つけられるんじゃない? ……なんて、この時の私は気楽に考えていたんだけど。

 その後、自分なりにいつしようけんめい探してはみたものの、一向に彼を見つけることができないでいた。

 あの時、打ちどころが悪ければどうなっていたかわからなかったと思ったら後からホントにゾッとしてしまって、どうしてもその人に会って直接お礼を言いたかった。


 それからは、校舎内ですれ違う男子生徒の手を観察するのがくせになってしまって……。

 さらには記憶の中にある彼の手を忘れてしまわないように、と、彼の手の絵を描き続けているうちに、周りにはすっかり『桜沢は手フェチ』というイメージが定着してしまった。

 席が近くて仲良くなった芽衣と佐々木には事情を話したけれど、それ以降二人はおもしろ半分で『王子様は見つかった?』『まーた王子様の手描いてる』などと言ってからかってくる。

 それからこの一年ずっと探し続けたけれど結局その人を見つけることはできず、最近になって私は半ば探すことをあきらめ始めてしまっていた。

(ホントはもう知らないうちに、何回もすれ違ったりしてるのかもしれないなぁ……。左利きっていうのもおくそくだし、時計だってたまたまその日一日だけ着けてきたやつかもしれないし……)

 確かな情報は彼がブルーのネクタイをしていたということのみ。

 つまり、芸術コースの生徒ということだけだ。

 でも芸術コースとひとくちに言っても、色んな科があるんだよなぁ……。


■□■


(絵のテーマ、早く決めなきゃ……)

 芽衣や佐々木より早く部活を切り上げた私は、トボトボとろうを歩いていた。

 1年生の教室の前に差しかかると、中からとっても楽しげな声が聞こえてきた。

 チラッと教室内に目を走らせる。

 数人の生徒が一ヶ所に集まって、昨年の綾城祭のパンフレットを手に何やら盛り上がっていた。

 一年前の私も……あんな風に目をキラキラさせてたのかな……。

 そう思うと、何だかみようさびしい気持ちになった。

「…………はぁ」

 くつえ、校門に向かって歩きながらため息がこぼれる。

 薄い春の雲にゆうが映り込んで、辺りは焼けるように真っ赤だった。

 何か上手うまく、歯車がみ合わない感じ。

 ずっと探している人も見つからない。

 そしてかんじんな絵の方も上手くいってるとは言えず、ヤル気だけが空回りしている状態。

 こんな夕陽を見ていると、こういったばくぜんとした不安のようなものがどうしても胸にいてきてしまう。

「……きゃっ」

 ボーッと考え事をしながら歩いていた私は、校門を出ようとした瞬間、どん! と誰かにぶつかってしまった。

 ぐらっと体がかたむきかけるのをなんとかその場でみとどまる。

 けれどはずみで、持っていたスケッチブックを勢いよく地面にほうり出してしまった。

「……だいじよう?」

「あ、す、すみませ……」

「はい」

 ぶつかってしまった男子生徒がそれを拾って差し出してくれたので、あわてて頭を下げて受け取ろうとした、次の瞬間。

 彼の手が視界に飛び込んできて、私は思わず息を飲んだ。

 スケッチブックをつかむ、左手。

 骨ばった、長くて綺麗な指。

 そして手首には、特徴のある、モスグリーンにオレンジのラインが入ったベルトの腕時計────。

「…………っ!」

 それは、この一年。

 ずーっとずーっと探し続けて、何枚も何枚もスケッチブックに描き留めてきた……。

 入学式の日に私を助けてくれた、あの人の手だった。

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