光を失ったピアニスト/2

 首都の中心街にある、ガラス張りの高層ビル。吹き抜けのエントランスから、二階の回路へと登る階段。

 龍が最上階へエレベータも使わず、まっすぐ上へと登ってゆく様は雄大だが、人々は慣れたもので、それぞれ忙しそうにフロアを歩いていた。

 個性的な服装をした猫が二足歩行で、反対側からくる人の横を通り過ぎようとすると、

「お疲れ様です!」

「あぁ、この間の音源ありますか?」

 資料を抱えていた人間の男が急に立ち止まり、勢いよく振り返った。かぎ爪のついた手のひらが向けられると、瞬間移動で四角いものが現れた。

「携帯電話に入ってますよ」

「ちょっとエフェクターをいじりたいので、データいただけますか?」

「いいですよ」

 ネットを経由するのではなく、弓形ゆみなりの鋭い瞳が画面を見つめると、必要なファイルが空中に半透明で浮かび上がり、そのまま人間のスタッフがポケットから取り出した携帯電話に吸収されるように消え去った。

 意識化で操作できるそれは、データの送受信は視線の動きでできる。便利な時代を神々は、人間として生きていた。

 そのやり取りをしている廊下の一番奥にあるのは、自社ビルを持つ恩富隊の社長室。窓の外には今日も太陽がなくても綺麗な青空が広がる。ブラインドカーテンからの隙間から入り込む日差しは、デスクに飾られた花々を通り越して、床へと伸びていた。

 秘書もいない人払いされた応接セットのソファーに、部屋のあるじである弁財天が座り、ひどく残念そうにため息をついた。

「そう。ツアーは全て中止でいいのね?」

 念を押すように聞き返された、向かいの席に座る光命は、冷静な水色の瞳を曇らせていたが、あくまでも平常心をたもったまま、「えぇ」と優雅にうなずき、「倒れないという可能性がゼロになるまでは、行うことはできません。先日のように、楽しみにしていらっしゃった方々の気持ちを傷つけることをしたくありません」

 ツアーの初日、ピアノを弾いている途中で切れてしまった記憶は、次は病院の天井からだった。開演時刻どころか、日付は翌日になっていて、後悔してもし切れず、思わず硬く閉じたまぶたの感触は今でも忘れない。

 弁財天は何度も説得してみたが、他人優先の光命が一番したくなかったことが起きてしまい、誰の言葉も彼には届かなかった。

 やり直しから帰ってきて、少し様子がおかしいと思っていた。何か力になれることはないかと、弁財天も聞こうと努力をしてみたが、光命は硬く心を閉ざし、のらりくらりと交わすだけで、決して口を開こうとはしなかった。結局防ぐことはできず、こんな形になってしまった。

 ひどく疲れた様子の光命に、弁財天は優しく微笑んで心配する。

「そう、わかったわ。CDはどうするの?」

「今の体調のままでは、レコーディングのスケジュールも決められません。ですから、そちらもしばらくお休みにします」

 耳にかけていた後毛が落ちると、細い指先ですぐにかけ直すのに、それもしない。光命が必死に何かを耐えながら話しているのは、長く生きている弁財天には痛いほどわかった。

「そう。光がそう言うなら仕方がないわね」

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 激情という獣を、冷静な頭脳という盾で飼い慣らし、光命は事務的に話を終えて、スプリングコートを手にして帰るような仕草を見せた。

 弁財天は慌てることもなく、少し低めの声で、人生の難所に差し掛かっている青年に先輩として一言忠告した。

「これだけは決して忘れないで。ピアニストはピアノを弾いている時が一番幸せなのよ。だから、ピアノから遠ざからないで――」

 光命は喉が締めつけられるように痛くなり、水色の瞳は涙でにじんだ。幼いからピアノがとても好きで、何が起きても弾いているうちに、頭の中が整理されて、新しい可能性が浮かんだ日々だった。

 それが最近はなくなり、今まで緻密に積み上げてきたデータが取り出しづらくなって、可能性の数値が全て狂ってしまっていた。

 自身の基盤となるものが崩壊していたが、あっという間に冷静な頭脳で押さえ込み、光命は深々と頭を下げた。

「お気遣い、感謝いたします」

 ソファーから立ち上がると、ロングカーディガンの裾が気品高く揺れ、ショートブーツのかかとが床にカツカツと、軽やかなステップを残していたかと思うと、すうっと瞬間移動で寂しげに消え去った。


    *


 太陽もないのに、春の日差しが穏やかにさす神世。城の隣にある早秋津家の庭では、広い芝生の上で五歳の子供たちが、ボール遊びをしていた。

「いくよ〜!」

「は〜い!」

 それぞれの服装は上質な白のシャツに蝶ネクタイと半ズボン。パーティーに行くようなふわふわのドレス。ハイソな装い。

「きゃははははっ!」

「うわっ!」

 他の家とは違って、上品に遊んでいる子供たちは、ボールが不意に誰もいない――思ってもみないおかしな方向へ飛んでゆき、声高らかに笑った。

「あははははっ!」

 ウッドデッキのチェアでは、この家の長男――光命が本を読みながら、アフタヌーンティをたしなんでいたが、彼は上の空だった。

(あちらの可能性が34.57%。こちらが67.97%……)

 読んでいた本をいつの間にかティーカップの脇へ置き、少し曲げた人差し指をあごに当てて、思考時のポーズを取ったまま、一日も早い復帰の目処めどを立てようと、頭をフル回転させていた。

 今までの記憶で残っている部分を、土砂降りの雨でも降るようにザーッと流したまま、そこから必要なものを取り出して、可能性の数値に置き換え――

「――お兄様?」

 あどけない声が足元で聞こえたが、冷静な水色の瞳は動かず、紺の長い髪が春風に優しく揺れるだけだった。

 小さな兄弟たちは、すらっと二メートル近くの背丈を持つ兄が無反応なのを見て取って、小首を傾げた。

「ん?」

 最近、兄の様子がおかしいのだ。刺すような冷たさをもともと持っていたが、上品な笑みで優しく話しかけたりすることが、減った気がする。氷雨ひさめでも降っているようなクールさだけになり、どこか遠くに行ってしまっているようだった。

「お兄様?」

 袖口を引っ張られて、光命は思案の旅から現実へと戻ってきた。彼らしい驚き方をして、

「おや? どうかしたのですか?」

 弟や妹に心配かけないように優しく微笑んだ。弟の一人が大きなボールを差し出して、とびきりの笑顔を見せる。

「一緒に遊ぼう?」

「えぇ、構いませんよ」

 光命はこう言って、もたれかかっていたデッキチェアから起き上がり、ブーツのかかとを鳴らそうとすると、母の優しい声が背後からかけられた。

「光?」

「えぇ」

 若さゆえに可能性が導き出せない――隠しているそぶりを見せている光命に、母親は精一杯手を差し伸べた。

「あとは私たちが見ているから、お友達に会ってきたら?」

 ツアーが中止になってからふさぎがちで、小さな子供の面倒ばかり。自身の子供ならまだしも、兄弟ならば、それを見る役目は自分たち親になると、母と父は思っていた。

「しばらく顔を見せとらんから、待っているかもしれないぞ」

 テラスへ出る廊下の扉口で、父に言われてリムジンの用意をした運転手が丁寧に頭を下げた。

 弟や妹たちだけでなく、両親も運転手からお手伝いさんまでに、心配をかけているのだと思うと、光命は何としてもここから出たいと懇願した。

 飲みかけの紅茶はそのままに、久しぶりに見せた優しい笑みでうなずく。

「そうかもしれませんね」

 暖かく見守ってくれている家族を見渡して、光命はテーブルの上に置いてあった懐中時計を手に取り、

「それでは、出かけてきます」

 ポケットに忍ばせると、ブーツのかかとを鳴らして窓へと歩いて行き、運転手に視線だけで合図をした。

「いってらっしゃ〜い!」

 家族全員が手を振る前で、長男は外出のための上着を瞬間移動させ、瑠璃色のタキシードを着て、暮れかけた夜の街にリムジンを走らせた。


    *


 家でじっとしていることがない光命。彼の社交場は色々とあった。乗馬クラブ、カジノ、社交ダンス、高級ラウンジ、クラシックコンサートなどなど……。

 夜は特に家にいることがないほど、早秋津家の長男は大人の世界を満喫していた。

 壮大なクラシック音楽を車内で楽しんでいると、広く少し長めの階段の前に、黒塗りのリムジンは止まった。

 運転手がドアを開けるとすぐに、黒のショートブーツが石畳を踏んだ。

「ありがとうございます」

 光命が頭を下げながら立ち上がり、甘くスパイシーな香水が春の夜に漂った。長い階段を上がり、神殿のような柱の間にある入り口へ向かってゆく。

 あちこちから、タキシードとドレスを着た人々が集まってくるダンスパーティ会場。本日は月に一度のイベントの日。今日を楽しみにしてきた人々に、光命は混じりながら中へと入った。

 どこかの城の廊下かと勘違いするほど豪華な通路。真紅の絨毯が敷かれ、子供の入場が禁止されている完全な大人の世界。

 そんな華やかな世界に見劣らない絶美な男が優雅に通り過ぎるたび、人々は振り返ってぼうっとする。自惚れることなく、ただの事実――データとして頭に仕舞い込み、光命はメインホールへと足早に進んでいた。

「あぁ〜! 光〜、久しぶり〜!」

「元気してた〜!」

 若さあふれるキャピキャピとした女の声が背後からかけられた。振り返るとそこには、やり直しをした時のクラスメイトの女子がふたり、ドレスを着て笑顔を見せていた。

 心の闇は隠して、光命は優雅に「えぇ」とうなずいて、最低限の挨拶をした。

「あなたたちも元気そうで何よりです」

 十八歳とはいえ、つい最近生まれたばかりの同級生は、テンションが高めで夢中で話し出す。

「この子さ、今度結婚するんだって」

 人族の男性と、健全たる交際をしていたのが、光命の全てを記憶する頭脳にはきちんと残っていた。

「高校の時から付き合っていた方とですか?」

「そう。やっと仕事も落ち着いてきたからね」

 あれから時はずいぶんと流れ、社会人として生きている同級生たちは順調に人生を乗り切っている。それに比べて、仕事は暗礁に乗り上げ、愛してはいけない人を愛し、何度もあきらめようとしては失敗を繰り返す日々。

 足元がぐらぐらと揺れ、真っ暗な底なし沼へ落ちてゆくような感覚に囚われる光命の前で、同級生の女の子たちはまだまだ元気に話を続けている。

「光も結婚し――」

「お嬢さんたち?」

 深みのある低い男の声が、身を包み込むように広がった。

「はい?」

 全員が振り返ると、幅の十分ある廊下はその人でいっぱいになっていた。緑色をしたひげに、銀のウロコで顔も体も覆われている。牙の見える大きなワニのような口が何度か動いた。

「一緒に踊りませんか?」

 光命が以前から親しくさせてもらっている、気品のある龍だった。女の子たちは目を輝かせる。

「龍族の人とダンスなんて、異種族交流で素敵だね?」

「踊っちゃおう!」

 そして、彼女たちは話していたことも忘れて、光命から遠ざかっていった。彼は近くのドアから使われていない部屋へ入り、薄暗い空間で一人壁に寄りかかる。

 焦点が合ったり合わなかったりを繰り返す瞳で、しっかりと床を見つめる。意識がどこかへ飛んでしまわないようにと。


    *


 数分が過ぎた頃、場の雰囲気を壊さないように、平常を装って、光命はドアから廊下へと出た。

 ダンス曲がちょうど終わるところで、壁際にさりげなく立って、さっきの銀色をした龍がフロアから降りるのを待っていた。

 人の流れを壊さないように、光命のショートブーツは足早に近づき、さっき話をそらしてくれた龍にお礼を言った。

「先ほどはありがとうございました」

「構わんさ」

 バーカウンターでモルトを頼んだ龍は優しく微笑み、弓形の瞳で人間の男をじっと見つめる。

「君の心は優しくできているから、相手のためにその場から逃げないが、時には自身を大切にすることが、相手の幸せにつながることもあるんだよ」

「えぇ、そうかもしれませんね」

 優雅な笑みという仮面を被った光命はうなずいたが、心の中では彼の負けず嫌いの精神がにじみ出ていた。

(私は逃げることはしたくない。いいえ、逃げてはいけない――)

 この龍は自身よりもはるかに長い時を生きている。気づいているのかもしれない、光命の心は許されぬ愛にずぶ濡れになっていることを。

 しかし、これは自分一人の問題ではなく、たくさんの人間が関係することで、そうそうむやみやたらに相談できることではなかった。やはり自身で抱え込んで、誰も傷つかない方法を見つけるしかないのだと、光命は改めて思った。

「あら? 光坊や、お久しぶり」

 色っぽい女の声がカウンターの反対側で響き、振り返ると、上品な龍の女性がいた。光命は思う。やはり自身は世の中ではまだまだ若いのだと。

「お久しぶりです」

「ツアーのことは聞いたわよ」

「えぇ」

 あれから顔を見せなくなった、目の前に座っている人間の若い男。何千年も生きている龍の女性は優しく諭した。

「長く生きていると、いろんなことが起きるの。はじめの頃はみんな、驚いたり戸惑ったりするのよ。でもね、いつかそれが普通になる時が来るの。いつだってそうだったわ」

 同性愛がそれに当てはまるのか、事実――過去から可能性を導き出す光命は見極められずにいた。

 今度は反対側から、男の龍が声をかける。

「誰かの未来は予測できたとしても自分のことはできない」

 次に誰が何をするのか、小さな子供であったとしても予知できるのがこの世界に生きている人たちだ。

 弟や妹が何を望んでいるのかよくわかる。先回りして、プレゼントを渡したり、何かをしてあげることが、光命は兄として幸せな限りだ。ただ自分よりレベルの高い大人にはこれが通用しないから、世の中は面白いのだ。

 モルトの入ったグラスを傾け、龍の男は人生を語る。

「今起きていることが、何につながっているかは誰もわからない。ただ言えるのは、どんなことでもいい意味があるということさ」

 光命を間に挟んで、龍の女がカクテルグラスを同じように傾けて、少しだけ微笑む

「そうね。邪神界はなくなったのだから、無意味なことはもう起きないのよ」

「邪神界でさえ意味があったと、僕は思うけどね」

「確かにそうね〜?」

 悪を知らない世代の大人。その一人が光命。厳しい世の中を生き抜いてきた先人のふたりに囲まれ、ブランデーグラスを弄ぶようにくるくる回した。

「お気遣い、感謝いたします」

 迷路は誰かの力で抜け出せても、目隠しされたままゴールへとたどり着くのと一緒で、新しい景色は望めないのだろう。だから何としても、光命は自分の力で歩みたがった。

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