光を失ったピアニスト/1
城に面した大通り。空中道路が主な道である首都の街は、地面を走るそれは渋滞もなくスムーズに車がゆったりと行き交っていた。
交差点で停車していた車は信号が青になると、東へと曲がりいくつかブロックを進む。すると、デパートが
人々が歩く店先では春らしい淡い飾りが、優しいそよ風に吹かれ、芽吹きの季節を祝福しているようだった。
龍や人、イルカなどが作る人の波を追い越しながら、首都の街を南下してゆくと、大きな音楽堂が近未来的な顔を見せた。
その壁や入り口は、今日の主役の人物を象徴するような、青で統一された、大きな垂れ幕がかけられていた。
――HIKARI First Concert。
人混み歩けば、人々を老若男女振り返させる男の、ベストショットがポスターとして何枚も貼られていた。どんなに控えめに飾ったとしても、石畳の上を歩く人々は誰かれ構わず、足を止めて、感嘆のため息をもらす。
風で横へとなびく、シルクのような滑らかさを持つ紺の長い髪。遊び心を表すように、リボンで結ばず自由に宙を舞っている。少しきつめの印象がある冷静な水色の瞳は切れ長で、真っ直ぐをこっちを見ている。内に眠る情熱を氷河期のようなクールさで抑えているギャップが人を惹きつけてやまない。
頭のよさを強調するように、細く神経質な手で髪を大きくかき上げ、頬は白くきめ細やかで、全体的に貴族的なイメージ。
五百倍の速さで流れる時の中で、大人に急成長した人の特徴で、あどけなさが強く残るのに、成人としての若さあふれる矛盾を含む貴重な雰囲気。彼は実際まだ七年しか生きていないのに、十八歳として生きているのだから。人々の目はどうやっても引き寄せられてしまう。
持ち前の美麗さで、歩道をゆく人々が、光命のポスターを見て立ち止まっては、チケット売り場へと向かってゆく。
増設をして当日券を用意したが、それが完売するのもあと間近だった。
*
客席のライトは一部分だけついていて、音楽堂の中はまだ空席ばかり。ステージの上では、作業しやすい格好をしたスタッフが、忙しそうに大道具を運んだりしている。
中央に大きな黒のグランドピアノが堂々たる風格で置かれ、両脇に花を添える楽団員が座る椅子が並べられてゆく。
「ライト、もう少し右でお願いします!」
太陽光のように差し込んでいる強い光りが言われた方向へ動く隣で、スタッフ数名に囲まれた、光命が最後の打ち合わせをしていた。
「ステージに上がったら、中央で一旦挨拶をしていただきます」
「えぇ」
足下につけられた印の近くで、今日の主役である光命は、
白いカットソーに、黒革のチョーカー。甘くスパイシーな香水が美しさに拍車をかける。細身の黒いパンツに、膝までの濃い紫のロングブーツは、逆三角形の体躯を足元で引き締めていた。
舞台袖に集まっていたスタッフたちが、紺の長い髪が揺れ動く様を遠くから眺めながら、感慨深げに語り出した。
「いや〜、いよいよ、コンサートツアー今日からスタートですね」
腕組みをして二本足で立っている犬の横で、鹿がテンション高めで言葉を添える。
「女王陛下のご姉妹!
頭に赤い鉢巻を巻いた猫が、横から顔をのぞかせた。
「光命さんは、テレビゲームのモデルでも女性に人気ですから。ツアーも最終日まで完売ですよ」
大盛り上がりのスタッフの背後から、重厚感を漂わせた女の声が突然割って入ってきた。
「――それはあくまでも宣伝のうち。
スタッフたちはよく聞き慣れた響きに、ギョッとした顔をして一斉に振り返った。
「社長っ!? おはようございます」
恩富隊の代表――弁財天が両腕を組んで、足をモデルのようにクロスさせながら、光命の姿が見えるところまで近づいてきた。
「おはよう。どうかしら?」
彼女はアーティスト自身の様子を聞いたが、浮かれているスタッフは誰もまだいない客席を頼もしげに眺めた。
「若さあふれる、期待のピアニストと会えるという、ファンにとってはなかなかないチャンスですから」
「このまま波に乗って、三枚目のCDもクラシックというジャンルを問わず、一位を取ること間違いなしですよ」
母親の影響を受けて、一枚目のCDはそこそこ売れた。作曲家として他のアーティストにも曲を提供している。そんな活動の中で、自身のピアノ曲も作り、二枚目で多くの人に知れ渡ることとなり、今日の日を迎えた。
しかし、弁財天には心配事があった。やり直しから戻ってきた光命が、社長にだけは伝えておきたいと言って、あることを教えてくれた。それで人気が落ちるとは思わないが、起こらないのならそれに越したことはなく、スタッフ全員には伝えていない。
今や恩富隊はこの世界では一番大きい事務所となっていて、数多くのアーティストを抱えている。通常ならば、一アーティストのツアー初日に顔を出せるほど、時間の余裕はないのだが、子供の成長を見守る母親のような気持ちで、弁財天はやってきてしまった。
スポットライトを浴びる中で、冷静な水色の瞳が揺れ動いたり、優雅に微笑んだりするさまを眺めていた弁財天の耳に、スタッフたちの吐息が入ってきた。
「やっぱり綺麗ですね。光命さんが歩くと、みんな振り返ってしまう」
仕事をしているのに、その手を止めてまで、どこかの国の王子みたいな気品のある男に釘付けになっているのを、弁財天は見つけた。
うさぎのスタッフが話すと、長い耳がゆらゆらと揺れた。
「あの繊細さが人気なのかもしれませんね」
だからこそ、逆に危険だと、弁財天は思った。ステージの中央にいたスタッフの一人が右手を大きく上げた。
「光命さん! ピアノの準備整いました」
「えぇ」
舞台の端でスタッフの話を聞いていた、ピアニストは短くうなずき、ロングブーツのかかとを鳴らしてピアノに近づいて、慣れた感じで腰を下ろした。
「ピアノの音の響きを調べますから、演奏をお願いします」
「えぇ、お願いします」
白と黒が規則正しく並ぶ鍵盤に、光命の神経質な両手が乗せられると、香水の香りがふわっと舞い上がった。右足はダンパーペタルに乗せられ、白いカットソーの下にある胸へ息が吸い込まれ吐き出されたと同時に、ピアノの弦を叩く音が激しく鳴り出した。
三十二連符の十二連打が土砂降りの雨のように、音階を滑り落ちてゆく。紺の長い髪はリズムに乗って揺れ動き、不意に入り込む高音のフォルティッシモが、雷鳴のように鋭く会場の隅々につき刺さる。
余韻を残すペダルは、主旋律を際立たせるために、一拍ごとに小刻みに踏み直され、ピアニストとしての技術と光命の激情を惜しげもなく披露する
たくさんの人が見るであろうステージの上でピアノを弾く。その行為が、光命の脳裏で、人生のやり直しをした、ある時を色濃くなぞった――
ピアノのコンクールで一位を取った時、晴々とした気持ちでロビーへ出ると、深緑の短髪と無感情、無動のはしばみ色の瞳で、自分とは真逆の性質を持つ従兄弟が待っていた姿が浮かんだ。
「君のことを思って曲を作ったんだ」
「感謝する」
地鳴りのような低さで、落ち着きがあって真っ直ぐな夕霧命の声が、光命の心に呼びかける。
「光……」
それが残響のように幾重にも鳴っているうちに、今度は別の場面を思い返した。
「チャーミングなあなたに、こちらの曲をプレゼントしますよ」
「ありがとうございます」
可愛らしく素直で、少しとぼけた感のある女の声が、光命の心に今度は呼びかける。
「光さん……」
――さっきからずっと響いていた男と女の声が、ぐるぐると自分を飲み込むように回りながら少しずつ大きくなってゆく。
ピアノの鍵盤の上でもつれそうになる指先を、光命は必死で押さえながら、冷静な頭脳で正常へと戻ろうとする。
――弾き続けられる可能性を高くする方法……?
不意に目の前が暗くなりそうになり、意識を呼び戻すが、悩めるピアニストはいつもの迷路に迷い込んでゆく。
私は夕霧を愛している。
私は知礼を愛している。
私は夕霧を愛している。
私は知礼を愛している。
私は神の意思に背いている。
私は神の意思に背いている。
私は夕霧への想いを断ち切らなければいけない。
私は知礼だけを愛さなければいけない。
私は夕霧への想いを断ち切らなければいけない。
私は知礼だけを愛さなければいけない。
私は……しなければいけない。
私は……いけない。
私は……私は――
光命の視界はとうとう真っ暗になり、ガジャーンと不協和音を鳴らして、糸が切れた操り人形のように、目を閉じたまま椅子の上で横へ崩れ、床の上にどさっと落ちた。
怪我もない、病気もない世界で、今日の主役が床の上に倒れるという光景に、まわりで演奏を聞いていたスタッフたちは、不思議そうな顔をした。
「どうしました?」
「光命さん?」
あっという間に人垣ができて、
「光命さん?」
「眠ってる?」
一人事情を知っている弁財天は驚いて、慌ててステージ上を走っていった。スタッフをかき分けて、神経質な頬に紺の髪がもつれ絡みついているのを見つけ、弁財天は白いカットソーの肩を揺さぶった。
「光? 光?」
ビューラーで巻いたみたいに綺麗なまつ毛は一ミリも動くことなく、腕がだらりと体の脇から床へ落ちた。
(気を失ってる……。気絶が起きてしまった)
危惧していたことが現実になってしまった。弁財天はそれでも取り乱すことはなく、すぐそばにいたスタッフに指示を出す。
「病院、病院に連絡して!」
場所の名前は聞いたことがあるが、利用する人など皆無に等しい世界で、スタッフたちは何が何だかよくわからず、全員目を丸くして驚き声をとどろかせた。
「えぇっ!?」
「いいから病院よ!」
それから数時間後、会場の入り口周辺では、チケットの払い戻しの案内が何度も繰り返されていた――
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