神の御前で跪く

 病院の診察室で、光命は記憶を懸命にたどっていた。気絶をして記憶が途切れる。全てを記憶する頭脳を持つ彼には致命的だった。可能性の導き出し方が数段難しくなってしまっている。

 それでも、寸前の記憶をデジタルに取り出す。それはボールに当たったわけでもなく、何でもなく、そのあと急に暗くなって途切れていた。原因が見当たらない気絶。

 病気も怪我もない世界での病院は患者がほとんどおらず、医師の声が建物に響き渡っていた。

「人間には限界があります。小さな子供などはその限界を知らず、高熱で倒れることがあります。ですが、あなたの場合は症状が少し違っている」

 紺の長い髪がサラッと肩から落ちた、目の前にいる将来有望な高校生を、先生はしっかりと見つめた。

「そうなると、他の原因が考えられます。しかし、倒れる人が滅多にいませんから、研究所でも事例がなく研究はあまり進んでいません。ですが、あきらめずに気絶しない方法を一丸となって考えてゆきましょう」

 人と違う――。そんなことがここでも出てしまった。それでも、光命はデジタルに感情を切り捨てて、椅子から立ち上がり丁寧に頭を下げた。

「先生、ありがとうございました」

「とにかく無理をしないことですな」

 マフラーとコート抱え、診察室のドアまで行くと、振り返って、

「失礼いたします」

 人のほとんどない病院の廊下を、光命は歩いてゆく。いつも通りに、あごに軽く曲げた指を当て思案しながら。

「どうしたら、倒れる回数を減らせるんだろうか? もう一度法則性がないかを今までの出来事から探してみよう。最初に倒れたのは――」

「ぼっちゃま、どちらへ行かれるんですか?」

 運転手の呼び止める声が響き、光命が我に返ると、正面玄関を通り過ぎそうになっていた。

「あっ! すまない。考えごとをしていた」

 ぼっちゃまは瞬発力を発して、きびすを返し、リムジンへと乗り込んだ。


    *


 十七歳になると同時に高校を卒業し、やり直しは残すところ、あと一年もない。しかし、記憶を失くされた人々は終わりがくることなど知らずに、懸命に生きていた。

 いつの間にか閉じていたまぶたを開けると、病院の天井が広がっていた。

「……ん?」

 これはいつも通り。そうして、深緑の短髪と無感情、無動のはしばみ色をした瞳を持つ従兄弟が顔をのぞかせた。

「気がついたか?」

 これもいつも通り。

「……夕霧」

 光命は戻ったばかりの意識で、ベッドから起き上がろうとしたが、夕霧命の節々のはっきりした大きな手で押さえられた。

「まだ起きてはいかん」

 今日はひとつ違っていることが起きた。光命の頭脳にデジタルに記録されてゆく。

「なぜ、話し方を変えたんだい?」

「師匠に少しでも追いつきたくて、言葉遣いを一緒にした」

「そうか」

 横になったままのベッドで、光命は優雅に微笑んだ。従兄弟のやりたいことは見つかり、その一歩を確実に進んでいる。その姿がそばで見られる日がきて、よかったと心の底から思った。

「僕たちはまだ若いから、長い間生きている人たちに追いつくのは大変だ。だからこそ、少しでもって考えたんだな」

「そうだ」

 死がないからこそ、老いがないからこそ、向上心を誰でも持っているからこそ、若い彼らは、年配者にはすぐに追いつけないのだ。同じ歳になった時に、追い越しているかどうかを比べるのが賢い方法だ。

 それと比べて、光命は自分の情けなさに少し気を落とした。

「また気絶して、君が運んでくれたんだな」

「そうだ」

「すまない。幼い頃からずっと、君に迷惑をかけてばかりで……」

 いつだって、どんな時だってそばにいて、自分が気づかないようなことを教えてくれて、夕霧命のために何かをしたいと願っているのに、現実は残酷なほど裏目に出てばかり。

「構わん、俺はお前のために生きている――」

 数々の恋愛物語やSNSで聞いてきた愛の言葉だった。自分と違って真っ直ぐな性格の夕霧命が嘘で言うはずがない。そうなると、光命は言葉に詰まるのだった。

「あり……がとう……」

 布団の中で、シーツをきつく握りしめる。

(その言葉を言わないでくれ。ルールはルール。順番は順番だ。だから、守らなくてはいけない。それなのに、僕はできない。男女が出会って、恋をして結婚することがルールだ。これを破ってはいけない)

 ぐるぐると目が回って、横になったままでも意識が遠のきそうになる。

(だけど、僕は気づいた時には君に恋をしていた。ルールと違う。僕は神の御心みこころに背いている。だから、君を忘れる努力をおこたってはいけない。嘘が相手にバレない可能性が高い方法……)

 うまく言えなかった言葉を、光命はもう一度夕霧命に伝えた。

「ありがとうございます――」

(丁寧語で話すことが、成功する可能性が高い)

 少年ではなく、青年に変わった光命を、夕霧命は不思議そうに見下ろした。

「なぜ、言葉遣いを変えた?」

「丁寧語を使うと罠が成功する可能性が八十二パーセントを越したからです」

「そうか。俺はどっちでもいい。お前はお前だ。変わらん」


 恋心はすれ違ったまま時は過ぎ、十八歳の誕生日を迎えて、先に生まれた光命から、元の世界へ戻ってきた――



 扉を出たと同時に、全ての記憶が戻った。生まれてすぐに大きくなり、大人の夕霧命と話し、彼の結婚式の帰りに、出会った女と生涯を共にすると心に決めたことも、何もかもが順番を逆にして、戻ってしまった。

「私は、何を!」

 表情をあらわにしない光命も、珍しく冷静な水色の瞳が焦りを見せた。勝手に頬を流れてゆく涙を、誰にも知られないように指先で拭いとる。

(……夕霧はもうすでに結婚しているではありませんか――)

 光命の神へご意志に反する罪の意識はさらに増した。可能性を導き出すよりも早く、数百倍で流れている時の中から、三日遅れで生まれた夕霧命が後ろから出てきた。

 国家機関――躾隊しつけたいに入隊したあの日、女王陛下の侍女と目が合って、あっという間に恋に落ちて結婚をし、子供を作ろうと約束していたことが今頃戻ってきた。

「っ!」

 夕霧命は思わず息を詰まらせ、前に立つ紺の長い髪を持つ従兄弟の背中をじっと見つめた。

(思い出した。俺は結婚しとった。光には彼女がいる)

 冷静な水色の瞳が振り返り、無感情、無動のはしばみ色の瞳を出会うと、ふたりの心の中で同じ言葉が重なった。


 やり直しをして、記憶を失ったばかりに、全てが狂ってしまった――。


 他の人たちも続々と擬似体験を終えて、施設はにぎわい始め、入る前は知人でもなんでもなかった人たちが、無二の親友になって肩を組み合い、生まれた子供を抱いて配偶者と出てくる人たちもいた。

 その中で、光命は夕霧命を見つめたまま取り残され、ただ立ち尽くした。

(私には共に人生を歩もうと心に決めた女性がいる。彼女を愛している気持ちは変わりません。ですが、なぜ私は夕霧を愛したのでしょう? やはり間違いだった)

 夕霧命は自分を見つめたまま、中性的な唇を動かさない光命の気持ちが痛いほどわかっていた。

(人は人だ。俺は俺だ。愛しているのは変わらん。しかし、光は気にする。だから、俺からは言わん。お前が困った時に手を貸せる場所にいつでもいる。ただ見守るだけでいい。それが俺のお前への愛だ――)

 ふたりきりの世界は、係員の声で打ち破られた。

「それでは、こちらがご家族や友人の記憶でございます」

 五百倍の早さはあっという間で、陛下からのご命令であるやり直しを終わらせ、擬似体験の部屋は扉が全て閉まり、もうあの十八年間は人々の心だけの産物となっていた。

 綺麗な箱にリボンがかけられたものを、係員から間違いなく渡され、光命と夕霧命は我に返って頭を下げた。

「ありがとうございます」

「すまん」

 お祭りムードみたいに盛り上がっている会場。みんなは入る前よりも幸せをいくつも増やして戻ってきた、十八年間のやり直し。

 ふたりの恋心は見落とされ、それでもデジタルに感情を切り捨て、光命は夕霧命に向かって優雅に微笑んだ。

「今度もよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いする」

 お互いが共有する記憶を持って、従兄弟ふたりは元の生活へと戻っていった。


    *


 そうして、一ヶ月も経たないある日。

 光命がやり直しの中で訪れていた夕霧命の家とは違う、独立した彼の自宅に招待されていた。

 たくさんの花束と電報。赤ちゃんのおもちゃがそこら辺に幸せと一緒にあふれる部屋。ベビーベッドですやすやと眠る黒い髪の子供を見下ろして、光命はあきれた顔をした。

「自身の子供に同じ名前をつけるとは、それほど望んでいたのですか?」

「そうだ。子供が欲しかった」

 夕霧命の子供の名前は、夕霧童子だった。男の子には全員、童子がつき、女の子には全員姫がつくのが正式な名前。それが神界の常識。それほど珍しいことでもなかった。

 光命は少しだけため息まじりにうなずいた。

「そうですか……」

 夕霧命とその妻のどっちも受け継いだような子供。やり直し前の自分と比べてしまい、物思いにふける。

(今までは素直に喜べたのに喜べない。どのようにすれば、私はあなたを忘れることができるのでしょう?)

 ずっと一緒に大きくなってきた光命の心境など、夕霧命には手に取るようにわかった。

(お前に言わないこともできたが、それではお前の心に気づいていると言っていることと同じだ。お前は俺に知られたくない。そうなると、お前に家庭を持つ俺として、接するしかできない)

 ぐるぐると同じところで思案しているのではないかと思い、夕霧命はさりげなく助け舟を出した。

「中庭を見ながら、酒でも飲むか?」

「えぇ、構いませんよ」

 叶えてやれない想いなら、家庭が広がる部屋より、ベランダへ出たほうがいいという夕霧命から、光命へのささやかななる愛だった。

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