回り出す運命の歯車

 蓮は光命をじっと見つめたままだったが、子供の声が響いてふと我に返った。

「そうだ」

 倫礼と百叡の約束を果たさないまま、すれ違ってしまった。あとを追いかけようとすると、 なぜかすぐそばに光命が立っていた。いつの間に。滅多なことでは驚かない蓮は息を詰まらせる。

「失礼」

 お詫びを優雅にすると、光命の中性的な唇が微かに動いた。

「あなたの地球にいる奥様に会わせていただけませんか?」

「……知っていたのか?」

 知らないはずだ。はそう思っていた。会ったことなど一度もなく、話には聞いていても姿は見たことはないと。その逆も同じだったはずだった。それなのに――

 光命が首を横へ振ると、紺の長い髪が揺れた。

「いいえ、存じていませんでした」

「では、なぜ知っている?」

 矛盾。空前絶後の矛盾。蓮の追求の視線から、光命は決して逃げることはなかった。

「そちらの話はこちらではできませんから、私が利用しているティーラウンジの個室へ行って、詳しい話をいたしませんか?」

「構わない」

 契約も済ませたことだし、今は何よりも、のことについて聞きたい。そして、光命から神らしい発想が出てくる。

「それでは、瞬間移動をあなたにもかけます。失礼」

 光命がこう言うと、二人は事務所から姿を忽然と消した。まわりにスタッフが歩いていたが、それはよくある光景で、誰も気には止めなかった。


 部屋へつくなり、店員も瞬間移動でやってきて、テキパキと注文を取り、自動配膳システムで、蓮にはコーヒー、光命には紅茶が出てきた。

 高層ビルの屋上にあるラウンジで、摩天楼の海とどこまでも綺麗に晴れ渡る空がよく見渡せた。個室だけあって、通路を歩く人の気配もしない。

 蓮は砂糖の入ったポットから、何個も何個も白いキューブを取り出し、コーヒー中へ入れ終わると、次はできるだけミルクを注ぎ、もうコーヒーとは呼べない甘い飲み物に口をつけた。

 光命はアールグレーの香りを味わって、話を切り出したがどうにも鈍った。

「何から話せばよいのでしょうね?」

「なぜ、急に俺のところへきた?」

 違う場所へ歩いていったはずだ。それなのに、瞬間移動を使ったみたいにすぐそばに立っている――どうにもおかしかった。

「順を追ってお話ししましょう」

 光命はテーブルにひじをついて身を乗り出した。

「あなたを見かけたあと、ある方によって時が止められたのです」

「誰にだ?」

「皇帝陛下の側近そっきんの方にです」

 この世界は皇帝陛下と女王陛下によって治めれている。首都の中心にはもちろん城が構えられており、そこで働く人も大勢いるのだ。

「なぜそんなことをした?」

「本来、このような呼び出しはしないそうですが、内密に話をされたいという皇帝陛下の意思をついで、みなさんが時を止められている間、私は陛下の執務室へ行ったのです」

 だから、光命が急にそばにきたように見えたのだ。潔癖症らしく、ナプキンで口元を綺麗に拭き取ると、蓮は疑問点を上げた。

「謁見の間ではなくてか?」

 陛下への面会は通常そこで行われる。

「えぇ。ですから、やはり内密ということなのでしょうね」

「俺の時と一緒だ」

 蓮は自分が生まれて、意識がはっきりとしてくるまで、そこがどこだか、自分が何をしているのかさえわからなかったが、最初にいた部屋が執務室だったのである。人払いのされた部屋。極秘の出来事だったのだ。

「あなたの出生についても聞いてきました。そして、地球にいるもう一人の奥様のことも……」

「それで知ったのか?」

 陛下から直々にたまわったのだ、のことは。

「えぇ。彼女の存在さえも存じませんでした」

 光命は最初、誰のことか見当もつかなかった。明智という名字の知り合いは誰一人いないかったのだ。

 蓮の鋭利のスミレ色の瞳は、光命の冷静な水色の瞳とぶつかった。

「陛下は何とおっしゃっていた?」

「彼女のそばへ日に一度いき、彼女から見えない場所で一時間だけ見ているように、と」

「それだけか」

「えぇ」

 光命が優雅にうなずくと、話は一旦途切れた。

 守護をしにいけではない。見てこい。しかも隠れてということは、は知らないままだということになる。

 焼けボックリに火つく――でも望んでいらっしゃるのだろうか、陛下は。いやしかし、光命の薬指にはシルバーのリングが光っている。陛下が不倫を勧めるとは、到底思えない。真相は闇の中だ――蓮は甘ったるいコーヒーを飲みながら、結局のところ結論が出せなかった。

 何も言わない、今日あったばかりの男と、愛用のティーラウンジでお茶をしている。急転直下と言っていいほどの展開で、光命は珍しくため息をついた。

「残念ながら、私も陛下のおっしゃっている真意を知ることを今はできません」

「それは、おうかがいか? それとも命令か?」

「命令に近いと言ったほうが正しいかもしれませんね」

 陛下の言葉の結びは『見てくるように』だった。正式な命令ならば、謁見の間でみんなの見ている前でということにもなるが、内密となると、判断の難しいところだが、蓮が一言加えた。

「命令ならばさけられない。ここは帝国だ」

 選択権は国民にはないのだ。内密に頼まれることなのだから、ことが重大であることもわかる。だからこそ、光命はできるだけ穏便に物事が進むように話し出した。

「ですから、まずは夫であるあなたに、ご挨拶をと思い話かけたのです」

「そうか」

「私は人間界を知りません。ですから、あなたにうかがうこともたくさんあるかと思いますが、よろしくお願いいたします」

 光命は椅子に座ったままだったが、丁寧に頭を下げた。

「いや、こっちこそ。あれを見るだけでもイライラするのに……」

「イライラするのですか? おかしいみたいです」

 光命は手の甲を中性的な唇に当て、くすりと上品に笑った。どんな女性なのか。この男の妻は、今のことを面と向かって言われたらどんな態度を示すのか。気になることばかりだった。

 蓮は気まずそうに咳払いをして、

「いや、こっちの話だ。よろしくお願いする」

「それでは、今日からうかがいます」

 蓮は無言どころかノーリアクションだったが、この男は肯定しているのだと、光命にはわかった。意見があるのなら、何か言ってくるようなタイプである可能性が高いのだ。

 蓮からずっと見られていた光命は、もうひとつの話を切り出した。

「あなたの用件はどのようなことでしょうか?」

 社長から話すと言っていたが、本人が目の前にいるのなら今が好機――蓮は勝手にコーヒーのお代わりをキッチンから魔法で呼び寄せて、また砂糖を入れ始めた。

「息子の百叡は五歳なんだが、ピアノを習いたくて講師を探していた」

「そうですか」

 光命は優雅に微笑んだが、少しだけ瞳が陰っていたが、初めて会ったばかりの蓮が気づくことはなかった。

「頼めるか?」

「えぇ、構いませんよ、私でよければ。ピアノのレッスンをする生徒を募集していますからね」

 ピアニストの指先らしく、細く神経質でしなやかなそれが、ティーカップを取り上げ、アールグレーのベルガモットの香りを、唇から体の内へと落とした。

「そうか。これもよろしく頼む」

「えぇ、こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 こうして、不思議な運命に乗せられて、出会うはずのない男二人は出会い、この世界にいない人間の、の倫礼を観察する日々が始まった。

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