ハッピーエンドが始まり
「
死ぬことのない世界で生まれて生きてきた光命には無縁の言葉だった。守護の資格を持っている蓮はうつむいているおまけをじっと見つめたまま、
「子供が生まれる前に殺すことだ」
「そうですか」
冷静という代名詞が似合う青の王子はそっとうなずき、女性としての悲しみは計り知れないだろうと思いながらも、おまけを見守っていた。
「相手が望んでないなら仕方ないよね」
おまけの唇は動いていなかったが、彼女の心の声が神である光命にも聞こえてきた。
「
彼女はそこまで言って、慌てて心をかき消した。声を上げずに一人きりで、悲しみに耐えているおまけの背中を、光命はただただ見ていた。
一粒の涙がこぼれ落ちても、それを拭うこともせず、ただ静かに泣き続ける。蓮は鋭利なスミレ色の瞳で、おまけを射殺すように見ていた。
「まただ。神にも助けを求めないで、何様のつもりだ! 人間一人だけがどうこうできるはずかない。所詮人間など、何の力もないのだからな」
それでも、おまけの倫礼は一人きりでひっそりと、声を上げず泣き続ける。光命は軽く曲げた指をあごに当てて、彼女をただ眺めていたが、
彼女とはとても強い女性みたいです――と思った、何の感情も持たずに。
神世と違って、地上はとても厳しい場所で、その後のおまけの人生は、波乱万丈だった。精神病の悪化により、入院へと向かってゆく未来が、神二人には見えていた。だがしかし、それは意味のあることであって、止めることはしなかった。
そんなある晩、おまけが寝静まった頃やってきた光命に、蓮はファイルをひとつ手渡した。
「
「そうですか」
光命は優雅に足を組み、冷静な水色の瞳で地上の言語をなぞっていった。そしてやがて、全て読み終えると、
「こちらの小説はアダルト作品ですか?」
「違う。この物語は全部で六章あるが、三章のお前の部分だけ、そういう内容だった」
「そうですか」
「なぜ、光をこんな書き方にしたんだ?」
蓮はおまけの倫礼をにらみつけた。隣にいる男はいたった上品で、こんな下世話な話に起用されるようなタイプではない。人間の欲望の成れの果てに、神を使うとはどういうつもりだ――と、今すぐ叩き起こして、おまけに蓮は文句を言ってやりたかった。
光命は怒っているのか、何も言わず、おまけを眺めているだけだった。ふと思い出していた、さっきの夕暮れの時のことを――。
事務所が一緒の二人は、仕事の終わりにディナーをともにすることが多くなった。ずっと眺めてみたいと思っていた展望台へと、光命は蓮につていかれた。そこは恋人同士のメッカであると言われていたが、果たしてこの横にいる男はそれを知っていて連れて行ったのか、それとも知らずに行ったのか。探りたいところである。
「ところで、蓮?」
「ん?」
「アシュアロ展望台へは家族で行ったことがあるのですか?」
「いや、ない」
「そうですか」
光命は一呼吸おいて、次の情報収集の一手を打った。
「それでは、どちらで知ったのですか?」
「綺麗な夜景が見えるとテレビでやっていたから、一緒に行っただけだ」
「そうですか」
光命はただの相づちを打ったが、繊細な彼は心の中で優雅に微笑んだ。
彼は私に気がある可能性が32.27%――
しかしながら、蓮は自身の気持ちに気づいていないみたいです。
困った男である。妻子持ちなのに、他の人に恋をして平然としているのだから。しかも相手は、同性だ。まったくもって、彼の感性はどうなっているのだろうか。
光命は自身の胸に手を当てて考えてみる。
私が彼を愛しているという可能性は――
「――どうかしたか?」
はかりにかけようとしたが、蓮の声で光命は我に返った。
「いいえ、何でもありませんよ」
恋心が芽生えているのは、どうもR&Bアーティストだけのようで、光命はどこまれも冷静だった。
「蓮、あなたに聞きたいことがありますか?」
「何だ?」
「
ミュージシャン同士でしかできない会話だった。蓮は少し考えて、奥行きがあり少し低い声で、
「dim/ディミニッシュだ」
と、コード名を答えてきた。
「光は?」
「私は五分の三の微分音符です」
存在し得ない音階を答えてきた。お互いの感性にルネサンスを起こさせる存在で、音楽どころかファッションも何もかも刺激しある関係となり、おまけの倫礼のことはとりあえず横へ置いといて、お互いの存在が何よりもかけがえがないものへと変化したのだった。
*
学校がある朝はいつでも忙しい。倫礼は朝食の後片付けをしながら、子供たちが忘れ物をしないようにあれこれやっていた。
「ねえ?」
「何だ?」
子供用のピアノの楽譜をパラパラとめくっていた蓮は答えた。
「陛下の家って、ハーレムよね?」
妻にしては珍しく回りくどい言い方だった。蓮の不機嫌な顔はさらにひどくなる。
「何が言いたい?」
「この世界での結婚って規定がなかったわよね? 二人でとか、異性同士じゃないとダメとか」倫礼はこう言って、突き立てた人差し指を顔の横でくるくる回した。
「そうだとしたら、皇帝陛下と女王陛下は違反していることになるだろう」
「そうよね」
学校の用意がちょうど終わり、倫礼はサッと立ち上がった。
「だから、いいんじゃない? 光さんに好きって言っても」
何を寝ぼけたことを、我妻は言っているのだ。蓮の瞳は今や射殺すほど鋭くなっていたが、
「なぜ、俺が光を愛していると――!」
急に言葉を途中で止めた蓮を、倫礼は不思議そうにのぞき込んだ。
「何よ? どうしたの?」
「…………」
終始無言の夫だったが、無邪気な天使みたいな笑みをしていた。倫礼はあきれたため息をつく。
「返事なし、ノーリアクション、すなわち図星。ついでに、今気づいたってところかしら?」
最後のパズルピースがピタリとあったような到達感を蓮は覚えた。ずっとモヤモヤしていた。気がづくと光命のことばかり考えていて。それは、おまけのためであったのだが、どうにもすっきりしなかったが、今答えが出た。
「婚約指輪を買って、光に伝えてくる」
「そう、いってらっしゃい」
倫礼は戸惑うこともなく、驚くこともなく見送った。おまけは自分の分身みたいなものだ。彼女の好みの男なら、もちろん自分も好みなのである。
パタンとしまったドアを見つめたまま、倫礼は首を傾げた。
「どうして、蓮には結婚してるのにとか、同性なのにとかいう悩みはないのかしら? とても心が澄んでるのね、きっと。好きに理屈はいらないものね」
開いた楽譜の上で指を動かしていて――空想のピアノを弾いていた百叡の頭を、倫礼はそっとなでた。
「百叡、いいことがあるかもしれないわよ」
「どんなんこと?」
「光先生のこと」
「パパになるとか?」
「そうかもしれないわね」
百叡は椅子の上に立ち上がって、両手を大きく掲げた。
「ヤッタァ〜! 願い事が叶ったあ」
こうして、おまけが知らないところで結婚は勝手に決まってしまったのだった。
光命が陛下に言われて、倫礼のそばへきた時からちょうど三年の時が流れようとしていた。精神科の病院へ三ヶ月入院し、退院後も家族との折り合いの合わない、孤独な日々を送っていた彼女は霊感を失っていた。
だが、本人が見ることを諦めない限り、神が問い掛ければ、霊感を取り戻すことはできるのだ。蓮は光命を連れて、彼女の地球の自室へとやってきた。
パチパチとパソコンを打っていたおまけは手を止めて、心の中で思う。
「蓮だ。もう何年ぶりだろう、見るなんて。霊感はまだあったんだ」
ほっとしたのも束の間、手を引かれてついてきた男の神をおまけは見つけた。
「誰か連れてきた。誰だろう?」
探してみる、霊感で。魂の形が同じ神に今まであったことはなかったか。しかし、おまけには見つけ出せなかった。そうこうしているうちに、光命がそばへとやってきて、遊線が螺旋を描く優雅な声でいきなり告げた。
「
「え……?」
寝耳に水とはまさしくこのこと。おまけは戸惑うという言葉が戸惑ってしまうほど、戸惑おうとしたが、彼女の直感がそうはさせなかった。
「この雰囲気と、さっきの声……?」
たったそれだけで、一度も会ったこともない神の名をおまけは口にした。
「光命さんですか?」
「えぇ、そうです」
おまけの直感はこの時ばかりはとても優れていて、
「蓮が光命さんを好きになったんですね?」
「えぇ」
「じゃあ、光さんの奥さんと四人で結婚するってことですね?」
おまけの中ではいつだって、自分はカウントされていないのだ。肉体が滅んだら、倫礼に吸収されていなくなる運命だと知っているからだ。
光命はゆっくりと首を横へ振り、紺の長い髪を揺らした。
「いいえ、私は結婚していませんよ。あなたと初めて結婚するのです」
もう結婚してしまって、手の届かない人となってしまったのだと、あきらめながらずっと生きてきた。だが、奇跡は起こったのだ。
おまけの価値観は大きく変わった。人生は自分の思う通りにいかないことばかりだと思っていたが、自分で望むよりもはるかに大きな幸せでやってくる時もあるのだと。
(光命さんは、大人を満喫してたんだね。だから、結婚しなかったんだ)
涙をこぼして喜んでいるおまけを見つめる光命の、十四年間という月日は、決して平坦な道ではなかった。
(結婚を決断できない理由が他にあったのです、ですが、こちらのためだったのかもしれませんね)
光命の記憶は十五年前へと、誰よりも正確に巻き戻っていった――。
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