第100話 間話 北条家の野望

 ――相模国さがみのくに小田原おだわら城。


 小田原城は相模国――現在の神奈川県小田原市――にある巨大な城である。

 小田原城の広間では、北条幻庵ほうじょう げんあん風魔ふうまから得た情報を、北条家の当主北条氏綱ほうじょう うじつなに報告していた。


 北条幻庵が報告をしているのは、甲斐かいの武田家と越後えちご長尾ながお家の戦いである。

 北条幻庵は碁盤を用いて、武田家、長尾家、諏訪すわ家などの動きを説明する。


 北条氏綱はジッと黙って報告を聞いていたが、聞き終えたところで『ほうっ』と息を吐き、一呼吸置いてから言葉を発した。


「まさかこれほどの手並みとは……」


 北条氏綱の言葉には、感心と警戒が色濃くにじんでいる。


「この最後の戦いだな……。武田晴信たけだ はるのぶ長尾為景ながお ためかげ率いる本隊を引きつけ、その間に北上した飯富虎昌おぶ とらまさらが別働隊を打ち破る……」


「はい。見事なものでございます」


「何より視野が広い。並の武将では、こうも行くまい」


「並の武将なら目の前の戦場いくさばしか見えぬでしょう」


 北条氏綱は、ジッと碁盤を見つめる。

 黒石と白石を見れば、武田軍が信濃しなのを大きな盤面に見立て、軍をよく動かしたことが理解出来る。


「父である武田信虎たけだ のぶとらは戦場で無類の強さを発揮したが、せがれの晴信……これは……」


「また、別の強さですな」


「うーむ……。かえって厄介かもしれぬ……」


 北条氏綱は、会ったことのない武田晴信がどんな人物なのか想像をした。


 幼くして父を亡くし武田家の跡を継ぐ。

 攻め込んで来た今川いまがわ家を返り討ちにし、逆侵攻して駿河するがの一部を切り取り武田領とする。

 そして、今度は信濃の国人衆を支援し、越後の長尾家を追い払った。


 武田家からは、北条家に贈り物が何度か届いた。

 珍しい南蛮なんばん金平糖こんぺいとうなる菓子、水のように澄み切った清酒など高価な物が贈られてきた。

 これらの贈答品を見れば、武田家は金に余裕があることを示す。

 戦だけでなく内政も上手いということであろう。


「武田晴信か……」


 北条氏綱は、太い腕を組みジッと考え込んだ。

 見た目に寄らず物事をよく考える性質だ。

 北条幻庵はあるじの思考を邪魔しないよう、ジッと無言で座って待つ。


佐久さくで飯富虎昌ら別働隊の様子を見た者は、どう言っておった?」


「震えるほどの強さであったと。一方的な蹂躙じゅうりんであったそうです。飯富虎昌が柿崎景家かきざき かげいえと一騎打ちで引き分けたと。柿崎景家が止められては……、越後勢は苦しかったでしょう」


「さすがは飯富虎昌、甲山の虎よ。武田信虎が死んでも、甲斐の武は衰えぬか……」


「いささかも」


 北条幻庵は、淡々と答えた。

 信頼する部下の言葉を聞いて、北条氏綱は『ふう』と再び息を吐く。


「今川との婚姻は、早まったであろうか?」


 北条氏綱の嫡男北条氏康ほうじょう うじやすは、今川家の娘を娶った。

 当初、北条家と今川家は、駿河と相模で国境を接していた。

 しかし、現在では武田家が駿河の一部に割って入り、北条家と今川家は領地を接しなくなったのだ。

 当然、婚姻の意味は薄れる。


「いやいや、この先どうなるか、わかりませんぞ。今川家は名門でありますし、先代様がお世話になった昵懇じっこんの間柄です」


「そうよな。今川家が領地を取り返すかもしれぬし、東と西から武田家を挟み撃ちすることも出来る」


「武田家が挟撃の危険性に思い至れば、当家に対して滅多なことはいたしますまい。当家が治める相模と甲斐駿河の国境くにざかいは安全性が増したと考えてよろしいでしょう」


「ふむ……」


 北条幻庵は、主の返事が少々不満気なことに気が付いた。


(武田家を叩き、武田家の力を削ぎたいとお考えだろうか? 信濃を味方につけ、勢いに乗る武田家と干戈かんかを交えるのは得策ではない。少なくとも今は……)


 北条幻庵は、主の目先を変えることにした。


「しかし、長尾家は勇み足でした。信濃をとると大風呂敷を広げたまでは良かったですが、風呂敷をたためなかったようです」


 北条幻庵は、ニンマリと笑う。

 他家が失敗して力が落ちるのは歓迎なのだ。


「うむ。嫡男の長尾晴景ながお はるかげは捕らわれるし散々であったな。だが、最終的には武田家とも信濃の国人衆とも丸く収めた」


「長尾為景の娘を、武田晴信に輿入れさせるそうです」


「さすがの手腕よ!」


 北条氏綱も片頬を上げて笑ったが、最終的に落とし所を見つけ丸く収めた長尾家武田家両者の手腕に感心した。


 北条氏綱がズイッ前のめりになる。


「幻庵! 当家も武田家と婚姻を結んではどうか?」


 北条幻庵は思い至る。

 先ほど考え込んでいたのはこれかと。

 しかし、北条幻庵は当主北条氏綱の考えを受け入れることは出来ない。


 なぜなら、武田晴信の正室は香である。

 側室しか空いていないのだ。


 北条幻庵は強い口調で当主をたしなめた。


「えっ!? お待ちを! 長尾家の娘は側室としての輿入れですぞ! 当家の娘が側室では、風聞が悪うございます!」


「武田晴信の正室は……確か……」


「京、三条家の姫君でございます。長尾家は守護代の家なれば……」


「そうか。家格を考えれば正室の座は三条家……。長尾家の娘が側室でもそれほどおかしくはないか……。しかし、北条家の娘が側室では、北条家が武田家の下についたように見られる……か……?」


「その懸念はございます。逆に氏康様にご側室として、武田家の娘を求められては? 先代武田信虎の娘が何人かおりましょう」


「側室では武田家が納得するまい。あそこは守護家で武門の名門だ。何より……氏康がな……」


 北条氏綱は、息子北条氏康と今川家から嫁いできた娘の仲睦まじい姿を思い出していた。

 政略結婚ではあるが、息子の幸せそうな笑顔を見られるのは、父として嬉しい。


 しかし、さらに政略結婚を重ね側室を入れるとどうなるか?

 素直で賢い息子だが、まだ、若い。

 側室を受け入れてもらえないのではないかと北条氏綱は心配をした。


「今川家から輿入れをされたご正室様と仲がよろしゅうございますからなぁ……。側室を押しつけられたと反発されるやもしれません」


「そうなっては武田家から嫁いだ娘が辛い思いをする。それでは婚姻政策としては不出来であろう」


 政略結婚とはいえ、嫁ぎ先での扱いが悪ければ、実家である武田家が不満に思うことは間違いない。

 そうなっては、北条家と武田家の間が険悪になってしまう。


 しかし、北条氏綱は武田家との婚姻政策をあきらめられなかった。

 勢いのある武田家の力を利用したいのだ。


 北条家は関東に影響力を増し、領地を増やそうと虎視眈々こしたんたんと狙っている。

 だが、関東管領かんとう かんれいの家系である山内上杉家やまのうち うえすぎけ扇谷上杉家おうぎがやつ うえすぎけとの摩擦が絶えない。

 関東の有力国人らも北条家に反発している者が多い。


 武田家と婚姻関係を結べば、背後を固められる。

 関東に注ぐ力を増やすことも可能だと北条氏綱は考えた。


「幻庵、何か手はないか?」


 北条幻庵は、当主の考えを察し知恵を絞る。

 そして、一手思いついた。


「では、家臣の娘を養女として嫁がせては? 有力家臣の娘であれば、武田家も利を感じ受け入れるのではありますまいか?」


「なるほど……」


 北条氏綱は北条幻庵の提案を悪くないと思った。


 有力家臣の娘を、北条家の養女にして嫁がせる。

 北条家の実の娘と比べると格落ちではるが、側室として嫁入りするのだ。

 政治的なバランスは悪くないと北条氏綱は考えた。


 北条家武田家の縁をつなぐためとなれば、娘を養女に出す家臣にとっても悪い話ではない。


「年回りの良い娘がおろうか?」


「探せばおりましょう」


「よし! 家臣の娘を養女にし、武田家に嫁がせる。進めてくれ!」


「ははっ!」


 武田家との婚姻がなれば、今よりも関東に力を注げる。

 北条氏綱は野望を燃やし、獰猛な笑みを浮かべた。

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