第85話 諏訪湖の戦い(後編)

 俺たちは甲斐へ続く街道を走って逃げたが、長尾軍の奇襲部隊はしつこく追いかけてきた。

 何度か戦闘になり、十人いた武田軍の兵士はいつの間にかいなくなってしまった。


 敵に討ち取られたのか、それとも逃げてしまったのか……。

 今は、近習が一人いるだけだ。


 もう、日が暮れてしまい、辺りは暗くなった。

 月明かりを頼りに街道を走る。


 二手に分ける作戦は、上手く行くと思った。

 だが、長尾為景ながお ためかげは俺の考えなどお見通しで対応をして見せた。

 そして、長尾虎千代ながお とらちよ……後の上杉謙信うえすぎ けんしんが本陣に突っ込んできた。


 ――してやられた。


 今川を退け領地を切り取り、連戦連勝だと俺は調子に乗っていたのだ。

 手痛いしっぺ返しを喰らった。


 このザマだ!


 近習と二人で甲斐へ向かって逃げている。

 あれをすれば良かった、これをすれば良かったと後悔が頭をよぎる。


 近習が小さな声を鋭く発した。


「御屋形様!」


 後ろから気配がする。

 かすかにだが、足音が聞こえる。

 長尾軍が……、長尾虎千代が追いすがってきたのだ。


 二人で何とか出来るのだろうか……。

 俺の胸に不安が広がり、後ろから迫る足音は俺に死を想像させた。


 突然、近習が足を止めた。


「御屋形様。お逃げ下さい。それがしが身代わりになります」


「えっ!?」


 月明かりに照らされた近習の顔は、微かに笑っていた。

 誇り高く澄んだ目をしていた。


「兜をお借りしますぞ」


「ちょっと待って!」


 近習は俺の頭からから兜を取り上げると、自分の頭に兜をのせた。


「それがしには弟がおります。家督は弟に継がせて下さい。どうか弟をお引き立て下さい。では! ご免!」


 近習は刀を抜くと、街道を逆方向へ走っていった。

 近習の姿が遠ざかり見えなくなると、遠くから名乗りが聞こえた。


「やあ、やあ、我こそは! 武田源太郎晴信たけだ みなもとのたろう はるのぶ! その方ら腕に覚えはあるや! ござんなれ! ござんなれ!」


「いたぞ! 大将首だ! 討ち取れ!」


 俺は甲斐に向かって走り出した。

 後ろから近習の勇ましい声が聞こえてくる。


「いざ尋常に勝負! 参れ! 参れ!」


 やがて近習の声は聞こえなくなった。



 あいつは、なんの特徴もない近習だった。


 一芸はない。

 武芸に秀でているわけじゃない。

 特に頭が良いわけでもない。

 見た目も普通。


 武田家に代々使えてきた家系で忠誠心があるからと、板垣さんが手配した近習だった。

 身の回りの世話をしてもらうのに良いかなくらいの存在だった。

 ただ、それだけの、ぶっちゃけどうでもよい存在だった。


 だが、どうでもよいと考えていた近習が俺を生かすために身代わりになった。

 俺を逃がすために、命を投げ出してくれたのだ。

 俺のために命を捧げてくれたのだ。


 あいつはモブキャラじゃなかった。

 忠臣の一人だった。

 俺はもっとあいつを大事にしなくちゃならなかった。


 俺は分かっていなかった。

 戦国時代の武将になったつもりでいたが、大切なことが分かっていなかった。


 分かっちゃいない。

 何にも分かっちゃいない!


 足が痛い。

 息が苦しい。

 もう、走りたくない。


 だが、俺の命は俺だけの物じゃない。

 忠臣の命と引き換えに、俺の命は今ここにあるのだ。

 ギリギリまで生き足掻く義務がある。


(大将って、こんなに辛いんだ……)


 俺は暗闇の中、手と足を動かし続けていた。



 どれくらい走っただろうか。

 一時間か、二時間か、それとも五分程度なのか。

 もう、時間の感覚もない。


「見つけたぞ!」


 背後で怒鳴り声が聞こえた。

 越後の兵、長尾軍だ。


 俺は上り坂を必死で走っていた。

 後ろから敵兵の気配が……。

 足音と甲冑の音が近づいてくる。


 俺はヘロヘロだが、ひたすら足を動かし続ける。


 すると、目の錯覚だろうか?

 坂の上に松明の灯りが見えた。


「ハル君! 伏せて!」


 かおるの声が聞こえた。

 幻聴かとも思ったが、弓を構える香の姿が松明に照らされてハッキリと見えた。

 俺は香の声に反応して、倒れ込みながら地面に伏せた。


「放て!」


 今度はめぐみ姉上の声だ。

 俺の体の上を矢かがうなりを上げて通過した。

 そして、悲鳴が聞こえた。


「引け!」


 思ったよりも近くで、幼い声が聞こえた。

 体ごとひっくり返り声の方を見ると、松明の灯りに微かに照らされた長尾虎千代の顔が見えた。

 子供とは思えない凜々しい表情をしている。

 長尾虎千代は兵士たちを連れて引き上げていった。


「兄上! ご無事ですか!」


 妹のみなみの声だ。

 そうか、南たち後詰めの部隊と合流できたんだ。


「み……、南か……、どうして……」


 まだ呼吸が整わないが、何とか言葉を発した。


「夜に紛れて上原城に参陣しようとしていたのです。そうしたら香姉様が、兄上がこちらに向かってきていると言うので、みんなで急いだのです」


 香、恵姉上、妹の南たちは、女だからという理由で、信濃や甲斐の国人衆から参陣を嫌がられていたのだ。

 仕方なく後詰め、つまり後発の増援部隊としたのだ。


 だが、南がイタズラ心を起こして、夜のドサクサに紛れて参陣しようとした。

 道中で香の一芸【真実の目】が、俺の異様な動きを捉えた。


 幸運だった。

 南たちと合流できなかったら、俺は討ち取られていた。


「はあ、助かった……」


 俺は寝っ転がったまま、深く息を吐いた。



 しばらくして起き上がると俺は馬に乗り後詰めの部隊を上原城へ向けた。

 俺の隣に恵姉上が馬を進めてきた。


「太郎! 厳しい顔をして、いかがした! 様子がいつもと違うぞ?」


 俺は命が助かり、香、恵姉上、南たちと合流できた。

 だが、俺の胸の内は喜びや安堵よりも、近習や兵士たちを失ったつらさでしめられていた。


 俺の身代わりになって死んだ近習の最後の顔が思い出された。


「恵姉上。近習が俺の身代わりになって死にました」


 自分でも驚くような低くうなるような声が出た。

 恵姉上は俺の顔を見た。

 しばらく無言で馬を進めた。


 やがて、凪いだ海のように、恵姉上は静かに返事をした。


「太郎。戦場において近習は主の盾じゃ。命を賭して主を救うのは誉れぞ。主従の絆じゃ」


 恵姉上の語る主従の絆が、俺の胸に突き刺さった。

 絆は近習から俺への一方通行だった。

 俺は近習の思いに応えていなかった。


 俺は馬上で拳を握り、言葉を絞り出した。


「恵姉上……。自分が不甲斐なくて、気が狂いそうです」


「ならば励め! 武田の棟梁として励むのじゃ!」


 恵姉上の叱咤に俺は無言でうなずき、夜道を上原城へ向かった。

 馬上で俺は精一杯胸を張る。


 俺は生きているぞと、身代わりになって死んだ近習や亡くなった兵士の魂に、俺の姿を見せながら馬を進めた。


 ――三日月が腹立たしいほど俺の顔を照らした。

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