第74話 手を差し伸べること、慈母の如し

 小笠原家の本拠地――林城は混乱していた。


 小笠原家の当主小笠原長棟は、村上家の敗北を知り領内から兵を集めていた。

 しかし、冬期、さらに雪の影響もあり、兵の集まりが悪い。


 そんな時に、越後の長尾軍が現れた。

 さらに、内応した者が、長尾軍を城内に引き入れてしまったのだ。


 小笠原長棟は、唇を噛む。


「クソッ! 全ての兵が集まっていれば……」


 小笠原家の本拠地林城は、深志、現在の長野県松本市にある。

 松本市は長野県北部にあり寒いが、あまり雪は降らない。


 だが、小笠原家はついていなかった。

 年に数回しか降らない雪が、よりにもよって長尾軍が攻めてくるタイミングで降ったのだ。


 長尾軍は、雪の多い越後の兵で構成されている。

 信州松本の十センチ程度の雪など、何の障害にもならなかった。


 一方、守る小笠原家は、雪で兵士たちの出足が鈍ったのだ。


 駆け込んできた兵士が、さらなる凶報を告げる。


「申し上げます! 小笠原長利様ご謀反!」


「なっ!? 弟が裏切ったと申すか!」


 小笠原長棟は、分裂していた北信濃の小笠原家を統一した優秀な武将である。

 しかし、後継者の指名は、上手くなかった。


 小笠原長棟はなかなか子供が出来ず、弟の小笠原長利を後継者として養子にした。

 小笠原長利を養子にした後に、長男の小笠原長時が生まれた。


 小笠原長棟は、いたく喜び長男の小笠原長時を後継者に指名した。

 後継者から外された弟の長利は面白くなかった。


 弟の長利は、兄長棟から次第に距離を置くようになり、ついには長尾家に寝返ったのだ。


 長男の小笠原長時と次男の小笠原信定が、顔を青くした。


「叔父上が!?」


「父上! いかがいたしましょう!」


「……」


 小笠原長棟は、言葉に詰まる。


 徹底的に抗戦するべきだろうか?

 しかし、敵の勢いは強く、既に城内に敵兵が侵入している。

 果たして押し返せるかどうか……。


 では、逃げるべきか?

 逃げるなら、どこへ?

 北か? 南か? 西か? 東か?


 いずれの道を選ぶにしても、早く決断しなくてはならない。


 また、兵士が飛び込んできた。


「申し上げます! 甲斐武田家より、ご使者が至急面会を求めております!」


「武田家から……? 通せ!」


 こんな時に一体何の用であろうか?

 小笠原長棟は、いぶかしむが、現状解決策がない以上、使者の話を聞いてみようと考えた。


 すぐに兵士に案内されて、武田家の忍び風魔小太郎が現れた。

 小笠原長棟、長時、信定の三人の前にひざまずく。


 小笠原長棟は、風魔小太郎を一目見た瞬間、ゾクリと鳥肌が立った。

 一見すると柔和な若い男に見えるが、隙が全くない。


(この男……! 尋常な力量ではない!)


 小笠原長棟が『武』にも秀でた武将であり、戦の経験も豊富な四十半ばの武士だからこそ、風魔小太郎の力量を感じ取ることが出来た。


 しかし、息子の長時、信定は、まだ若い。

 二十二才の若武者と元服して間もない十五才である。風魔小太郎の力を見抜くには経験が不足していた。


「なんじゃ! 武田家の使者というが下賎の者ではないか!」


「兄者の言う通りだ! こんな時に、小者を使いに寄越しおって! ええい! さっさと追い払え!」


 風魔小太郎は、忍び装束を身につけていた。

 この時代の忍者は、素破や乱波と呼ばれ武士よりも身分が低く、領主一族の小笠原兄弟から見れば塵芥のような存在に過ぎない。


 邪険に対応する息子二人を見て、小笠原長棟が血相を変えた。


「止さぬか! 使者に対して無礼ぞ!」


「しかし、父上――!」


「まずは、使者の話を聞く!」


 小笠原長棟は、まだ、何か言おうとする次男の信定を制して、風魔小太郎に向き合った。


「話を聞こう」


 風魔小太郎は笑顔を絶やさず淡々と、自分が武田晴信から受けた命令を小笠原長棟に告げた。


「我が主、武田晴信より、万一の際は小笠原家の皆様を甲斐へお連れしろとの命を受け参上いたしました」


「何と!?」


「小笠原家は信濃守護、武田家は甲斐守護。『同じ守護家として、小笠原家が滅ぶのは見過ごせない』と我が主は申しておりました。甲斐までご案内いたしますので、すぐにご出立を! この城が落ちるのも間近……。時間に猶予はございません!」


「ううむ……」


 小笠原長棟は、迷った。


 目の前にいる男の力量は、信頼できそうだ。

 城から脱出し、甲斐まで逃げ延びることが出来るかもしれない。


 しかし、これまで武田家と付き合いはなかった。

 果たして、武田家を信じて良いのだろうか……?


(いかん……。年のせいか、最近、判断に迷うことが多い……。若い時は、こんなことはなかったのに……)


 小笠原長棟は、自身の不調を嘆く。


 一方、息子二人、長時と信定は、風魔小太郎の話に飛びついた。


「おお! 何と義に溢れたことか!」


「父上! すぐに脱出しましょう!」


「待て! 待て! しばし、待て!」


 小笠原長棟は、若い息子二人を抑え、考えを巡らす。


 武田家は――。


 前当主武田信虎は粗暴で、家臣や領民に乱暴を振るうことが度々あったと伝え聞く。

 評判の悪い男だった。


 しかし、武田信虎は戦死し、嫡男の武田晴信に代替わりした。


「うーむ、武田家現当主の武田晴信殿は、若年であると聞くが……」


 小笠原長棟は、腕を組み、迷いを口にした。


 武田家を本当に信じて良いのか?

 武田晴信は、頼りになるのか?


 息子二人、長時と信定が、小笠原長棟に決断を迫るが、長棟は決断できないでいた。


 その様子をジッと笑顔で見ていた風魔小太郎が口を開く。


「ご懸念には及びません。我が主、武田晴信は若年なれど家臣領民に慕われ、戦も強うございます」


 風魔小太郎の言葉に、小笠原長棟は何かを思いだした。


「そう言えば……。武田晴信殿は、今川家の侵攻を退け領地を切り取ったと……」


「はい、その通りです。さらに申し上げると、我が主は神仏への信仰が篤く、諏訪大社や富士山本宮浅間大社に毎年寄進を行っております。武田家と両社との関係は良好です」


「うーむ……」


 どうやら武田晴信は、前当主武田信虎とは違うようだ。

 小笠原長棟は、武田晴信に対する評価を高くつけた。


 一方で風魔小太郎は、笑顔の下で冷静に小笠原長棟を観察していた。


(あと一押しか……)


 小笠原長棟の気持ちが『甲斐武田家への脱出』に傾いたのを感じ取り、言葉を続けた。


「手はず通りであれば、我が武田家一番の武将である飯富虎昌が、手勢を率いて近くまで迎えに来ているはずです」


「何と!? 甲山の虎が!? まことか!?」


「はい。城を脱し諏訪家との境へ向かえば、まず、安心かと……」


「なるほど……」


 手回しが良い!

 小笠原長棟は、武田晴信の手際の良さに感服し、また、武田家一番の武将を派遣してくれたことに感謝した。


「よし! 武田家を頼ろう!」


「おお!」


「父上! では、すぐに参りましょう!」


「では、ご案内いたします」


 風魔小太郎たち風魔忍者が血路を開き、小笠原長棟は、二人の息子と家族、重臣たちを連れて、城からの脱出に成功した。


 一方、飯富虎昌率いる騎馬隊は、小笠原家と諏訪家との境を大幅に越えた所まで、独断専行で進出しており、小笠原長棟一行は城から出て間を置かずに飯富虎昌率いる騎馬隊と合流を果たした。


 小笠原長棟一行は、無事に甲斐へと向かった。



◆―― 作者より ――◆


昨晩、近況ノートに地図をアップしました。

地図画像:武田信玄Reローデット長尾家信濃侵攻

https://kakuyomu.jp/users/musashino-jyunpei/news/16817139557061434950

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