第64話 情けをかけること、仏の如し
俺たち武田軍は、今川軍への逆撃に出た。
駿河の入り口にあたる蒲原の街へ攻め込んだのだ。
領主『蒲原氏』の館に夜襲をかけると簡単におちた。
だが、問題発生。
兵士たちは、無抵抗の者に乱暴をしようとする。
女性に襲いかかる兵士二人を見とがめた香がぶち切れて、味方を相手に大立ち回りを演じ、それを飯富虎昌が必死に止めるという地獄展開。
香が落ち着いたところで、飯富虎昌から報告を受けた。
先代領主の蒲原満氏を捕らえたと。
俺は館の一室で蒲原満氏と対面した。
蒲原満氏は、体格の良い初老の人物だった。
ヒゲには白い物が混じっているが、堂々とした態度で老いを感じさせない。
対面に座った俺をじっくりと観察している。
瞳の中にあるのは、敵意よりも疑問だ。
俺が、誰なのか?
今が、どんな事態なのか?
探るような目をしている。
俺は蒲原満氏に侮られないように、ゆっくりと腹から声を出した。
「先代領主の蒲原満氏殿とお見受けいたします」
蒲原満氏は、息子蒲原氏徳に家督を譲って引退した身だ。
史実通りであれば、来年死亡する。
俺の問いかけに蒲原満氏は応じた。
落ち着いた低い声が返ってきた。
「いかにも、わしが蒲原満氏じゃ。いったいどこの手の者か?」
「私は武田晴信。甲斐守護武田家の棟梁と言えばわかりますか?」
「武田晴信? 何をバカな! 武田家は今川義元様と戦のはずだ!」
蒲原満氏は、激しく動揺した。
無理もない。
まだ、今川軍が敗北したと知らないのだろう。
何の心の準備も出来ていないところに、敵が乗り込んできて味方の敗戦を告げたのだ。
混乱するだろう。
俺はゆっくりと、噛んで含めるように話をする。
「今川家は敗れました。我々武田家の勝利です」
「なんだと!」
「今川義元殿は、私がこの手で討ち取りました」
「なっ!」
蒲原満氏の顔色が、みるみるうちに青くなった。
かすかに手が震えているのが見えた。
「太源雪斎も追い詰められ本栖湖に身を投げ死亡。多くの駿河兵が討ち取られました」
「信じられん……。だが、そうか……。武田家の者が、ここ蒲原にいるという事は――」
「ええ。今頃は大宮城も落ちたでしょう。吉原、興国寺も武田家の手に落ちている頃です。それで……あなたの息子、蒲原氏徳殿ですが――」
「……」
「お討死をなさいました」
「そうか……」
俺が蒲原満氏に息子蒲原氏徳の死を告げると、蒲原満氏は天井を見上げ、続いて床を見た。
所在なく視線をさまよわせている。
俺に勝ち戦の高揚感は既になく、目の前にいる息子を失った父親を、いくばくかでも慰めてやりたいと思った。
「最前線で戦われているところを、弓で撃たれました。私も見ていましたが、勇敢に戦われお見事な最期でした」
「そうか……」
蒲原満氏に息子の勇ましいさまを告げたが……。
これは、偽善だな。
なにせ、俺はこれから蒲原満氏に死を告げるのだ。
蒲原一族は粛正し、蒲原の街を武田直轄領とする。
出陣前に家臣たちと打ち合わせて決めた事だ。
「ハル君……ちょっと……」
「ん?」
香が部屋の外から呼んでいる。
俺は、放心する蒲原満氏を部屋に残して廊下に出た。
「さっきの女の人と子供だけど……」
「うん? 香が助けた人?」
「そう……。蒲原氏徳の奥さんと息子さんだって……」
「あっ……」
蒲原氏徳は、ここ蒲原の街の領主なのだが……。
本栖城の攻防戦で、香と恵姉上がボウガンで狙撃し討ち取った。
そりゃ香としては、気まずい。
戦の中での命のやり取りとはいえ、自分が殺した相手の奥さんと子供とは……。
「ど、どうしようか?」
「……とりあえず。ここへ連れてきたら? そこにいる蒲原満氏に会わせてあげれば? 義理の娘と孫だし」
「そ、そうね!」
香はすぐに助けた女性と子供を連れてきた。
蒲原満氏は、義理の娘と孫の無事を喜ぶ。
香が俺をジッと見つめ、何か言いたそうにしている。
「何?」
「ねえ……あの人たちどうするの?」
「えっと……」
「殺さないよね? もう、降参したし殺す必要はないよね?」
「いや、香も会議にいたでしょ? 蒲原家は根切りにするって話を――」
「だめだよ! 女の人やあんな小さい子まで! 必要ないよ!」
「……」
俺は蒲原満氏たちがいる部屋を振り返った。
蒲原氏徳の妻と赤ん坊が、祖父の蒲原満氏に寄り添っている。
どうするかな……。
予定では、蒲原一族を滅ぼす予定……。
しかし、こんな赤ちゃんを目の前で見ると……。
香の言うこともわかるな……。
「香様! 御屋形様! どうしました?」
飯富虎昌が合流した。
そのまま廊下で立ち話を続ける。
「虎ちゃん! 虎ちゃんからも言ってよ! 女の人と赤ちゃんを斬る必要ないって!」
「えっ!? どういうことですか!?」
「いや、香がさ。蒲原氏徳の奥さんと子供を殺すなって」
「ははあ……。けど、打ち合わせでは……」
「そうだ」
「ん~、俺はどっちでも良いと思いますよ」
「えっ!?」
飯富虎昌は、蒲原氏徳の奥さんと子供を斬らなくても良いと言う。
どういうことだろう?
打ち合わせと違うけど?
「ほら! 俺は信虎様と戦って負けたんですよ。それから武田家に仕えるようになりました」
「そう言えば、そうだな」
「だから蒲原家も……。降参したなら、武田家に取り込んじゃって良いんじゃないですか?」
「まあ、そうだな……。そうすると先代領主の蒲原満氏も生かして使うか?」
「それで良いと思いますよ。香様も斬るのが嫌みたいですし」
また、香様か!
飯富虎昌の『香ファースト』は、どうかと思うぞ!
まあ、しかし、蒲原の街を統治するのに、蒲原満氏や蒲原一族を上手く使えば楽だな。
余所者の武田家が入って統治するよりは、安定しそうだ。
まあ、妖怪ジジイの小山田虎満あたりに、『甘い!』とか小言を言われそうだが、ここは御屋形様権限で予定変更しよう。
俺は香に告げた。
「わかった。それじゃあ、蒲原満氏と話してみるよ。武田家に臣従するなら、助けることにする」
「そうして!」
俺は廊下から、蒲原満氏たちがいる部屋に戻り、蒲原満氏の正面に座る。
蒲原満氏は、しばしジッと床に目を落としていた。
やがて口を開いた。
「それでわれらをどうする? 殺すか?」
「さて……。そこでご相談ですが……武田家に降ってはもらえませんか?」
「息子の敵に降れと?」
「ええ。お孫さんの将来の為に」
蒲原満氏は、ハッとして孫を見た。
母の腕の中でスヤスヤと寝息を立てている。
「あの子は、蒲原氏徳殿の子ですよね? 男の子ですか? 女の子ですか?」
「男子だ……」
「お名前は?」
「徳満丸」
「徳満丸殿は将来の蒲原家の当主ですね。武田家に降ってくだされば、蒲原家の存続は保証しましょう。徳満丸殿が蒲原家を継げるように取り計らいます」
「それは……」
迷っているな。
もう、一押しかな?
「もちろん、蒲原家の一族、家臣も助命いたします。徳満丸殿が大きくなった時に、支える者が必要でしょうから」
「むう……。それで、武田家に降ると……我らの扱いは?」
「蒲原氏は武田家の家臣とします」
「家臣か……我らの領地は召し上げると?」
蒲原満氏は、不満そうだ。
先祖伝来の土地を取り上げられるのだから、不満を感じるのも無理はない。
だが、俺としても譲れない。
「蒲原の街は直轄地にして、武田本家方式で内政をしたいのです」
「武田本家方式?」
「武田家は他家にはない技術が色々とあります。農業や築城、道普請も行います。蒲原の民の暮らしは楽になります」
「領地の召し上げは、譲れぬということか……」
蒲原満氏は、俺たち武田家側の事情を理解したようだ。
腕を組みじっと考えている。
領地に未練があるのだろう。
なかなか返事を出せずにいる。
「義父上様! お願いいたします! 徳満丸を何卒!」
俺よりも先に、亡き蒲原氏徳の奥さんが我慢できなくなった。
腕に赤子を抱いたまま、蒲原満氏に決断を迫った。
蒲原満氏は、じっと孫の顔を見つめ、やがてため息を一つついた。
「ふう……。蒲原家の存続について、誓紙なり、印状なり、いただけるかな?」
「喜んで一筆書きましょう」
「あいわかった。武田家に降ろう」
蒲原満氏が、俺に降った。
こうして蒲原の街は、武田家の手に落ちた。
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