第59話 生きている事、盗む事、忍びの如し

 ――同日。太源雪斎。


 太源雪斎は、本栖湖の湖面からぬっと姿を現した。

 既に鎧は脱ぎ捨て、白い僧衣一枚を身に纏うだけである。


(うむ。対岸に泳ぎ着く事が出来た。早く駿河に戻らねば……)


 太源雪斎が、振り向き見た本栖湖の対岸には武田軍の兵士たちが見えた。

 そこへ突然の女の声。


「ちょいと。早いとこ、こっちへおいでよ。そんな所にいちゃ、見つかっちまうよ」


 湖岸の森の中から女が手招きをしている。

 女は青い朝顔柄の浴衣を着崩し、長い黒髪を赤い紐で束ねていた。


(遊び女?)


 太源雪斎は、女に警戒しながらも湖岸の森の中に身を進めた。

 女の言う通り、対岸の武田軍に見つかってしまえば、追手をかけられてしまう。


(今は、静かに、速やかに、身を隠す事こそ最上なり)


 森に足を踏み入れた太源雪斎は、驚き身を固くした。

 女が浴衣を脱ぎ棄てていたのだ。


「女! 何をしておる!」


「何って着替えだよ。ほら、お坊様も早く着替えなよ」


 女は太源雪斎に、木こりが着る粗末な服をほおって寄越した。


「……」


「あたしらは木こりの夫婦って事で脱出するよ」


 女はテキパキと着替え、髪をまとめ、手拭いを頭からかぶる。

 浴衣をたたみ背負い篭の中に放り込んだ。


 太源雪斎は、女の手慣れた様子に違和感を覚えた。

 この女は、単なる遊び女ではないと。


「お主は……」


「あたいかい? あたいはタツ」


「忍び?」


「そうだよ。あんたは役に立ちそうだから助けるよ」


 太源雪斎は迷った。

 甲斐国から脱し、駿河国へ戻りたい。

 しかし、武田軍が溢れるこの状況では、自分一人では直ぐに捕まるやも知れぬ。


(このタツなる女忍びと一緒なら、ここから逃げおおせるか?)


 太源雪斎が考えていると、タツは雪斎の心を覗き込んだように答えを示した。


「ここから山の尾根伝いに、身延へ向かう。そこからは、富士川沿いの山の中を抜けるよ。修験者や地元の猟師しかしらない杣道だから、武田軍には気付かれない。ただし、遠回りになるから時間はかかるけどね」


「そなたの雇い主は?」


「……言えないね。あんたを助けるのは、あたいの独断だよ」


「何故、拙僧を助ける?」


「あんたは生かしておいた方が役に立つと、ここが言うのさ」


 タツは、強烈な色香を振りまきながら、自分の下腹部を撫でた。

 太源雪斎は、しばし沈思黙考し、決断した。


「タツ殿の世話になろう。拙僧は――」


「太原雪斎様だろう? 知っているよ。さ! 早いとこ着替えちまいな! さっさとずらかるよ!」


「うむ!」


 木こりの夫婦に扮した太源雪斎と女忍びタツの姿は、甲斐の山に消えた。



 *



 ――同日。相模へ向かう男。


 鎌倉往還を甲斐国から相模国へ急ぐ一人の男がいた。

 旅商人姿で脇には布に包まれた鉄砲を抱えている。

 本栖城の戦いのどさくさに紛れて、武田軍から盗み出した物だ。


 男は年の頃は、二十歳であろうか。

 涼やかな瞳に、やさし気な笑みをたたえた口元、なかなかの色男だ。


 良く見れば、足場城壁で武田晴信にあれやこれやと聞いていた若い侍とわかる。


 この男、風魔小太郎。

 相州乱破の頭目である。


 風魔小太郎は、小田原城を目指していた。

 小田原城に待つのは、北条家二代目当主の北条氏綱。


(早く、この戦の顛末を伝えねば……)


 風魔小太郎は、北条氏綱の命により、武田家を探っていたのだ。

 本栖城の戦に忍び込み、武田家の戦いぶりを観察し、新兵器の鉄砲を盗みおおせた。

 まさに、凄腕の忍びである。


 鎌倉往還は、現代の国道とはまったく違う。

 道の幅は広い所もあるが、人一人、馬一頭が通るのがやっとの狭い箇所もある。

 道が敷設された場所は、山の尾根伝いもあり、現代人の感覚では『なぜ、こんな所に道が?』と思えるような場所もある。


 風魔小太郎が今歩くのは、そんな場所、山中湖を見下ろす山の中腹である。


 先を急ぐ風魔小太郎の行く手を五人の盗賊が遮り、無言で槍、刀を風魔小太郎に向けた。


「私は旅商人でございます。先を急いでおります故、これでお通しいただけないでしょうか?」


 風魔小太郎は、懐より銭を取り出し盗賊たちに笑顔で見せた。

 しかし、盗賊は何も答えずに槍を突き出す。


 風魔小太郎は、じっと動かなかった。

 盗賊の槍が風魔小太郎の胴を貫いたかに見えたが、風魔小太郎は笑顔を崩さずに立っていた。


「あれ?」


 盗賊は思った。

 確かに自分の槍は、目の前の旅商人を貫いたはずだと。

 だが、手応えが無く、旅商人は先ほどと変わらぬ笑みをたたえている。


 盗賊は視界が斜めにずれて行くのを感じた。

 槍を振るった盗賊は、いつの間にか斬られていたのだ。


 残る四人の盗賊は慌てて、刀を構えたが、どこからともなく現れた男たちに斬り捨てられた。

 男たちは風魔小太郎にひざまずく。


「お迎えに上がりました」


「ご苦労。遺体は始末しておいてね。じゃあ、行こうか」


 風魔小太郎は、何事もなかったかのように再び歩き始めた。


■作者補足

◆鎌倉往還について

鎌倉往還は、時代によってルートが違うようです。

ネット上の情報では、山中湖畔を通る国道138号線が、鎌倉往還であると紹介されています。


私が現地で見た事のある鎌倉往還は、国道138号線とは逆側、平野という所、大平山の中腹です。

鎌倉往還跡と木製の立て看板が、ちょこんとあるだけです。

(たぶん、昔の鎌倉往還だと思います。国道138号線は、江戸時代とか、後の時代になってルートが変わったのかなと想像しています)


なんで昔の人は、こんな所に道を通したのか? と非常に困惑しました。

風魔小太郎が通る鎌倉往還は、私がみた大平山中腹の鎌倉往還のイメージで書いてみました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る