第58話 組み討つ事、鎌倉武士の如し

 ――太源雪斎たいげん せっさい、武田香、千鶴隊。


 太源雪斎は、本栖もとす湖畔に追い詰められていた。

 既に落馬し徒歩で戦い、今にも力尽きそうに見えた。

 刀傷、矢傷は、数えられぬほどである。


 武田晴信の正室武田香と姉武田恵は、馬上で薙刀を構え太源雪斎に言い放つ。


「ここまでよ! 観念なさい!」


「太源雪斎! 覚悟いたせ!」


 荒い息遣いの太源雪斎。

 大薙刀を武田香に向けて投擲した。


女子おなごの手にかかってたまるものか!」


「くっ!」


 太源雪斎が投擲した大薙刀を、武田香は薙刀を払い弾き飛ばした。

 その一瞬の隙に、太源雪斎は本栖湖に身をひるがえす。


「おさらば!」


「あっ!」


 慌てて武田南が千鶴隊にクロスボウを放つように下知を飛ばす。


「千鶴隊! 放て!」


 しかし、千鶴隊の放ったクロスボウの矢を背中に受けながら、太源雪斎は本栖湖に身を投げた。

 甲冑をまとった身では、水に浮く事も出来ず。

 太源雪斎は、水中に没した。


 後には、大薙刀だけが残された。



 *



「はあ、はあ、はあ……」


 俺は馬を走らせている。

 目の前には今川義元がいる。


 俺の馬も、義元の馬も、大分へばって来たのか、スピードが落ちだした。


(どうする? 後ろから斬りつけるか? けれど、俺の剣術は上手くないし……)


 正直、迷う。

 俺は、武田晴信。

 後の武田信玄だ。


 だが、中身は現代日本から転生した平凡な男に過ぎない。

 殴り合いのケンカをした事もないし、殺し合いの経験などもちろんない。

 転生してから剣術や槍術の稽古はして来たが、付け焼刃感は否めない。


(だが……、ここで義元を倒さないと!)


 俺がここまで来られたのは、みんなが道を作ってくれたおかげだ。

 守り、攻め、囲い、追い……。

 みんなの努力を無にする事は出来ない。


 それに……。


「今の俺は甲斐の虎……。武田信玄! 家康を震え上がらせ、信長を恐れさせた男だ! 御旗盾無みはたたてなしもご照覧あれ!」


 俺は刀を抜き右手一本で、義元の背中に斬りつけた。

 鎧を着ていない義元の肩口にザックリと刀が入る。

 だが、骨まで達し刀は抜けなくなってしまった。


「うぐっ……」


 義元が苦悶するが、そんな事に構ってはいられない。

 俺は馬を寄せ、義元の腰の帯をつかんで思い切り引いた。

 俺と義元は、絡まり合うようにして落馬した。


「ぐっ……」


 落馬の衝撃が体に伝わり、どちらともなく苦痛に耐える声が漏れる。

 だが、俺は甲冑を着込んでいた分だけダメージが軽い。

 痛みを堪え、体を起こし、四つん這いになり、義元を探す。


(いた……)


 血を流しながら這うようにして逃げる義元が見えた。

 俺も土の上を這い、義元の上に覆いかぶさる。


「ぐっ……離せ……」


 義元が土を俺の顔に投げつけた。

 土が目に入り、痛みが広がる。


(だが……)


 目が見えなくても、義元の体は俺が掴んでいる。


 ここが腰で……。

 ここが腹だ……。


 俺は脇差を抜き、義元の腹に一気に突き刺した。


「がっ!」


 義元の声が聞こえた。

 掌に肉を刃物で突き刺した感触が広がる。


 そのまま、刺す!

 刺す!

 刺す!


 二度、三度と脇差を突き立てると、義元の体から力が抜けて行くのがわかった。

 土の目つぶしで回復しきらない視界に、幼い義元の顔が見える。

 口から血を流し、見開かれた目からは、今にも光が失われそうだ。


「今川……義元……。武田源太郎みなもとのたろう晴信が、その首もらい受ける!」


 俺は義元の首に脇差を突き立て、一気に横に引く。

 義元は微かに口を動かし、すぐに絶命した。


 それから俺は座り込んでいた。

 ただ、ただ、座り込んでいた。

 追跡と格闘の疲れで、動けないのだ。


 どのくらい時間がたったのだろうか。

 一時間かもしれないし、五分程度かもしれない。


 カラカラと乾いた金属音が聞こえた。

 マウンテンバイクが近づく音だろうか。


「御屋形様」


 飯富虎昌の声だ。

 返事をしたいが声が出ない。

 自分が息をしているのか、息をしていないのかさえわからない。


 背中に大きな手が触れた。

 飯富虎昌の手か。


「こちらをお飲みください。スポドリです」


 口元にペットボトルが当てられ、飲み慣れた液体が喉に流れ込んで来る。


「はあ……」


 俺はやっと息を吐きだした。

 呼吸が荒い。

 とてもすぐには動けそうにない。


 飯富虎昌は、そのまま俺の隣に座った。


「飯富……虎昌……。そのペットボトル……」


「甲府を出る時に、御屋形様が下さったスポドリですよ」


「そう……か……」


 そのまま、俺は激しく呼吸をし、飯富虎昌は黙って俺の横に座っていた。

 俺の呼吸がおさまって来た頃、飯富虎昌が静かに話し出した。


「今川義元をお討ちになりましたね」


「ああ」


「お見事です」


「ああ。義元の最期の言葉な……」


「最期の言葉ですか?」


「ああ。『和尚おしょう』だった」


「和尚?」


「太源雪斎の事だろう」


「なるほど」


 それからまたしばらく、俺と飯富虎昌は無言で座り込んでいた。


 すると一匹の赤とんぼが、どこからか飛んで来て俺の膝の上に止まった。

 手を伸ばすと、赤とんぼは、すいと飛んで逃げた。

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