第56話 包囲する事、垓下の如し

 ――今川本陣。


 その頃、今川本陣は大混乱の最中にあった。

 本陣に駆け込む伝令は、次々と訃報、凶報を伝えた。


穴山信友あなやま のぶとも殿お討ち死に! 甘利虎泰あまり とらやす身延みのぶ方面から現れ、本陣に向かっております!」


小山田信有おやまだ のぶあり殿お討ち死に! 飯富虎昌おぶ とらまさが、富士吉田ふじよしだの方角から現れた模様!」


 今川義元は、つい先刻まで有利な状況に勝利を確信していた。

 それが一瞬でひっくり返されてしまった。

 堪らず悲鳴を上げる。


「一体何が起きておるのだ!?」


 その時、本栖もとす城の方角から爆発音が響いた。

 戦国時代にはあり得ない音に、今川義元だけでなく太源雪斎も思わず床机から腰を浮かせた。


「何事ぞ!」


「雷!? いや、山崩れ!?」


 爆発音を聞いた太源雪斎たいげん せっさいは、とっさに自然災害の発生を想像した。

 しかし、空を見上げれば雲一つない、から日照りである。

 雷が落ちるはずもなければ、山が崩れる訳もない。


 しばらくして、血相を変えた伝令が駆け込んで来た。


「本栖城にて攻城部隊が壊滅!」


「なっ!?」


「壊滅ではわからぬ! 詳しく申せ!」


 今川義元は絶句し、太源雪斎は額に汗を浮かべた。

 伝令は目の前で起こった事を伝えようとしたが、火薬や爆発の存在を知らないこの時代の兵士では、どうにも上手く伝える事は出来なかった。


 それでも何らかの異常事態が起き、今川軍の半数が戦闘不能になった事。

 武田軍が門を開いてうって出て来た事は、二人に伝わった。


 今川義元は、しばし呆然とし、師である太源雪斎に問うた。


「和尚!? いかがすれば!?」


「ここは引き申そう……」


「なっ!?」


「この戦……我らの負けにござる。口惜しい事、はなはだし……」


「そんな……」


 太源雪斎も、今川義元も、わかっていた。

 この戦で負けるという事は、今川家の後継者争いにおいて大失点であるという事を。


 義元は拳を強く握り、歯ぎしりした。

 しかし、そんな事では情勢は覆らない。


 太源雪斎は、愛弟子の姿を見て心を痛めた。

 そして、何よりも自分の策が、こうもあっさりとひっくり返された事に、疑念を持ち、また、驚愕を禁じ得なかった。


(なぜ……。策が武田方に漏れていた? いや、穴山、小山田の裏切りを武田方が察した? それにしても、こうも鮮やかにひっくり返されるとは……)


 太源雪斎は、深くため息を一つついて、自分の思いに区切りを付けた。

 そして、今出来る最善手を義元に告げる。


「事ここに至っては、素早く駿河に軍を引くのが上策! 急がれよ!」


「……わかった」


 今川義元は、撤退を決断した。

 しかし、義元の下知が今川軍内に伝わるよりも早く、武田軍は今川軍本陣を襲撃したのである。



 *



 本栖城前にいた今川軍はもろく、俺たちは難なく今川本陣まで軍を進めた。


小山田虎満おやまだとらみつ鉄砲隊! 構え~! 放て~!」


 ダダン!

 ダダン!

 ダダン!


「助けてくれ!」

「雷だ!」

「痛い! 痛い!」


 小山田虎満は、今川軍本陣に向かって容赦なく鉄砲を撃ちかけた。

 バタバタと紙で出来た人形が倒れるように、今川軍の兵士が倒れて行く。


「板垣さん。小山田虎満も容赦しませんね」


「初手で鉄砲……。これで、今川軍本陣は統制を失いますな」


「どんどん攻めましょう!」


「かしこまりました。押し出せー!」


 板垣さんの下知に、本栖城の守備兵たちは今川軍本陣に襲い掛かった。


 この時代の人は鉄砲も火薬も知らない。

 鉄砲十丁が同時に火を噴けば、火薬の破裂音だけでも凄まじい。

 俺が乗っている馬も鉄砲の音に怯えている。


「これ、馬は使いづらいですね」


「左様でございますな。飯富虎昌隊は、マウテンバイクの比率が高こうございますから、問題はないでしょう」


「香たちは?」


「あちらに。上手くやっているようです」


 俺と板垣さんは、馬上で双眼鏡を覗く。

 クロスボウを構えた千鶴ちづる隊が見えた。


 南の合図で一斉にクロスボウを放ち、敵の隊列が乱れた所に、香と恵姉上が馬上で薙刀なぎなたを持って突っ込む。

 女関羽と女張飛だ。


「なかなかお見事な戦いぶりでございますな!」


「はは……どうも……」


 あれが僕の奥さんと姉です。

 僕より強いです。

 ありがとうございました。


「あちらに、甘利虎泰が見えます」


 板垣さんの指さす方を見ると、500メートル位先に甘利虎泰隊が見えた。

 俺の前では馬場信春が前線指揮を行い、今川軍本陣を圧迫している。


「包囲が狭まって来ましたね」


「はい……このまま今川義元を討ち取れれば……。あっ! 動きました!」


「今川の本陣が下がりだしましたね!」


足利あしかが二引両の馬印が下がっています。間違いありません!」


 黒丸に太線二本が入った馬印が、駿河するがの方へ逃げて行くのが見えた。

 双眼鏡を覗くと、今川義元は馬に乗り顔を引きつらせている。


「御屋形様! 今です!」


 板垣さんの合図を受け、俺はトランシーバーにがなる。


横田高松よこた たかとし! やれ! 今川義元が、そっちへ逃げた!』


『承知しました』


 横田高松の落ち着いた声がトランシーバーから帰って来た。

 そして富士の樹海から、横田高松、渡辺縄が率いる兵五十が姿を現し、義元の退路を塞いだ。


「御屋形様! やりましたぞ!」


「よしっ! 南の策が当たった! 義元を包囲したぞ!」


 妹南の策は、少数部隊による迂回だ。

 指揮官は乱戦に強い横田高松、案内役に地元の渡辺縄を付けた。

 地元の渡辺縄なら富士の樹海を突っ切る事も出来る。

 横田高松には、守備兵から従軍経験がある精鋭五十人を付けた。


 横田高松が率いた兵は五十人と少数だったが、今川軍の退路を阻むには十分だった。

 突如現れた横田高松隊に今川軍は動揺し、行き場を失くした義元の馬印は右往左往している。


 俺から見て正面が、馬場信春率いる本栖城守備兵。

 右から甘利虎泰隊。

 左は富士の樹海に阻まれ、右後方は本栖湖の湖面。

 そして左後方の退路は、横田高松隊が塞いだ。


 俺は続けてトランシーバーにがなり立てる。


『今川軍を包囲したぞ! 義元の首をとれ! 狙うは今川義元だ!』


■作者補足

今川義元の馬印は、足利二引両と赤鳥(女性の櫛の形)です。

赤鳥の方が有名ですが、今川家の馬印は足利二引両です。

赤鳥は義元が使いだした馬印です。

今話の今川義元は、まだ家督を継いでいないので、赤鳥はまだ使っておらず、今川家の馬印『足利二引両』を使っている設定です。

(わかりやすくする為に、赤鳥でも良いかな? と思ったのですが、ちょっとこだわってみました)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る