京ちゃん

 まるで酔っ払っているような感覚で、京一はフラフラと小学校への通学路をひとりで歩いている。身体が石の詰まったバッグを背負っているかのように重く、火をつけられたかのように熱かった。


 日はもう殆ど沈んでしまって、外灯だけが鈍い光を放ち京一を照らしていた。 


 歩きながら彼は、この街の住宅街をよく知っている、何故だかそう信じていた。


 何処かの家から、楽しそうな話し声が聞えてきた。そして、とてもいい香りが漂ってきた。


 京一は立ち止まると、香りのする家の方に近づき、顔を向けた。家の窓の中に、家族団欒の絵が見えた。食卓を囲む温かい家族団欒の絵。家族の皆がテーブルを囲んで座っている。お母さん、お父さん、そこには京一自身も座っている。彼は嬉しそうに笑っている。


「あれ? 何でオレがあそこにいるんだ?」


 京一は、その台詞を自分が心に思ったことなのか、実際に声を出して言ったことなのか判断が出来ないでいた。 


「お母さん……」


 京一が唱えたその魔法の言葉は、彼の奥深くに眠っていた遠い記憶を次々と蘇らせた。


 京一は母親のことをずっとママと呼んでいたこと。


 ママは京一のことを、京ちゃんと呼んでいたこと。


「ママ……」


 彼は小さくそう呟くと、アスファルトの上に倒れるように座り込んだ。


「ママ……元気ですか?」


 そこに本当に母親がいるかのように、京一は声に出して聞いてみる。


 返事は返って来ない。


「オレはまだ約束を守っていますよ……」


 乾電池で動く恐竜型のプラモデルを思い浮かべる……まるで自分ではない誰かが勝手に話しているようだなと、京一は思った。


「何でオレはママと敬語で話してるんだ? 一度もママの前では使ったことはなかったのに……可笑しいな」


 別の記憶が蘇る。


 母親は家でいつも標準語と敬語を使っていたため、京一も物心ついた頃から、標準語と敬語を自然と話すようになっていた。


 だから、京一の言葉には、もともと訛りなんてものはなかったのだ。逆にそのことを近所の子供たちにからかわれ、よく仲間はずれにされていた。その頃から彼は、意図的に汚い言葉を使い始めたが、結局、敬語を使う癖は抜けなかった。


 それらの記憶を、京一はこの瞬間まで完全に忘れていて、自分はずっと訛りを隠すために、意図的に標準語を使っていると、信じ込んでいた。


「ママ……いつ、帰って……来る……の?」


 何処かで泣き声が聞えた。鼻水をずるずると啜る音、しゃっくりのような嗚咽。


 月明かりの下、京一は膝を抱えて、泣きながらママを待っていた。


「京ちゃん?」


 背後で京一を呼ぶ声がした。


 京一は声のする方へ顔を向ける。


 眩い光。


 それが、涙で滲んだ車のハイビームだと気づいて、彼は立ち上がろうと腰を上げた。しかし、身体が言うことを聞かない。


 京一の世界は、一瞬で、白い光に包まれた。


 夢をみた。

 

 京一は家の庭でひとり遊んでいる。何かの拍子に石ころにつまずき、京一は転んだ。すぐに起き上がり、自分の膝がなんともなっていないことに安堵する。


「京ちゃん、大丈夫?」


 縁側に座ってそれを見ていた母親は、心配そうに息子に声をかける。京一は母親のいる方へ駆けていき、抱きついて泣いた。


 本当はそれほど痛くはなかった。京一は、ただ母親に甘えたかった。抱きしめてもらいたかったのだ。


「京兄ちゃん?」


 まっすぐな瞳が、京一を不安げに見下ろしている。


「ママ? いや違う。石川咲子?」


 周の妹、咲子が京一の目の前にいた。


「京一、大丈夫か?」


 京一を見つめる咲子の大きな瞳は、徐々に周のものへと変わっていった。


 そこには、周と咲子がいた。彼らは笑っていた。


「なんで、おまえら……」


 心の何処かで京一は気付いていた、自分は幻覚を見ているのだろうと。


「京ちゃん?」


 そして、朦朧とする意識の中、京一は再び母親を認識した。


「京ちゃん?」


 今度は本当のママだと、確信した京一の表情が緩む。


「ママ、迎えに来てくれたんだ……良かった。パパも、もうすぐ帰ってくるよね? そしたらまた……」


 夢は、そこでプツリと消え落ちた。

 

 空には欠けた月が雲から顔を出して青白く輝いていた。しかし、それが彼に認識されることはなかった。

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