村上 明仁
明仁は病室の窓から覗く青い空を眺めていた。
ベッドに備え付けられたテーブルの上にある、母親が剝いてくれたリンゴに手を伸ばす。
シャリッ。
歯切れのいい音とともに、甘い果汁が口の中に拡散していく。
リンゴだと思っていたものは実はナシだった。そのことを頭の何処かで認識ながら、明仁は屋上でのことを思い出していた。
淳を突き飛ばした後、明仁は学生服と手紙を残して屋上から飛び降りた。
死にたかったというよりは、何処か遠くへ行きたかった、というのが明仁の正直な気持ちだった。明仁にとって、いじめられることはつらかったが、今まで死にたいと思ったことはなかった。ただ、疲労は彼自身が気付かないうちに限界を迎えていた。しかし、今の明仁は、不思議と落ち着いていた。
現実に帰ると、明仁はそっと右頬に張られた大きめのガーゼに触れる。落下の際に蜜柑の木の枝で深く切ったこの頬の傷は、跡が残るだろうと医師に言われていた。
突然のノックの音に明仁は現実に戻った。
ドアが開き、母親が入って来る。
「明ちゃん、お友だちが来てくれたわよ」
その言葉の意味を明仁の脳が理解するよりも早く、母親の後ろに立っている淳が視界に入ってきた。
「明仁……ごめん」
淳は泣いていた、自分のしてきたことが格好悪くて、そして今の自分も格好悪くて、でもこうしなければ、もっと格好悪くなるから。そう思いながら、震えながら、泣きながら、淳は明仁に謝った。
「……もういいよ」
一言だけそう言うと、明仁は淳に背を向けた。
「……本当に悪かった。ごめんよ……」
何も答えない背中に向かって淳はもう一度頭を下げた。顔を上げたとき、後ろからでも見える明仁の顔に張られた大きめのガーゼが目に入った。
「それ……痛いか? 痛いよな。ごめん……」
淳は何を言っていいのか分からず、謝罪の言葉だけが口からこぼれ続けた。
ふと来週の夏祭りのことを思い出したが、すぐに馬鹿な考えだと切り捨てた。
淳にとってこの病室の酸素は、異常に薄くて息苦しかった。心臓はいつまでも大きな音を立て続け、今すぐにもここで爆発してしまいそうだった。
「しゅ、周は来たか? このこと知ってるのか? きょ、京一は……」
そこまで言った時、京一の名前に明仁の背中が反応して少し動いたように見えた。そして、言うべきではなかったと後悔した。
「……ごめん。また来るよ。本当にごめん」
淳が踵を返し、病室を出ようとした時、明仁の声が聞こえた。
「淳、もう来なくていいよ。僕は大丈夫だから」
淳は振り向くと、そこには以前の明仁はもういなかった。頬のガーゼから覗く大きな瞳。それは今までの明仁のものとは全く違う、誰か淳の知らない人間の冷たい瞳だった。
病院からの帰り道、淳は病室で明仁が自分の名前を、「淳」と初めて呼び捨てにして呼んでいたことに気がついた。
そして、自分の明仁に対する話し言葉は、思い出せないくらい随分前から変わってしまっていたことに、今頃になって気がついた。
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