♡From Fun Aart,酔宵醉


 ──私の名前は紫蘭。


 ちょっと珍しい角が生えている亜人種アドヴァンスであり、八ヶ月ほど前からこのベ・ルバ村で世話になっている。

 ここへ来る前の事は、自分の名前を含めて何一つ憶えていない。紫蘭という名前も、村医者のミァンという青年がつけてくれたものだ。

 そして、私が発見された時の様子だけれど──全身血塗れの酷い有様だったらしい。青黒く濡れた六叉鉾を支えにして、やっと歩いている状態だったとか。

 後日その鉾を見せてもらったのだが、手にした経緯を含め記憶になかった。村の鍛冶屋達は見事な業物だと言っていたけれど、私にはよくわからない。磨き上げられ、薄ら青い輝きを孕むきっさきも、緻密な彫刻が施された柄も──美しいとは思う。けれど、何故か同じぐらい悍ましいとも感じていたのだ。

 本当は今すぐにでも手放したい。けれどこれは、私が村外から持ち込んだ唯一の所持品だ。なので私の過去に繋がる手掛かりとなる可能性も高い。故に手放せず、所持しているのが現状だ。


 身寄りのない私は、現在ティムという男性の家に居候させて頂いている。彼曰く私達は似たような境遇らしく、気にかけてくれていたとの事。それに村内に家屋の空きもない、ということで彼の好意に甘えている状態だ。

 そんな彼は熊型亜人種ウルスの男性で、私よりも頭一つ半くらい大きい。私も身長は高い方だが、それよりも大きいとなれば二メートル近いのではなかろうか? また熊型ウルスということもあり、骨太肉厚と非常に男らしい体格をしている。艶のある黒髪は少し伸ばしており、普段はオールバックに纏めていた。また髭も整えている為、実年齢よりも老けて見えたのは内緒の話だ。


「……相変わらず朝早いなぁ」

 私が目を覚ました頃にはもう、彼は家を出ていた。

 そしてダイニングテーブルには、ご丁寧な書き置きと共にサンドイッチが置かれている。塩漬け肉と葉物野菜をライ麦パンで挟んだソレは少し大きく、私は半分程でも満腹になってしまう。

 なので真ん中で切り分け、食べない方をガラス容器へと移す。後は氷室へ入れておけば半日は持つだろう。ただ一点、冷やしてしまうと固くなるのが気になるけれど、腐らせてしまうよりはいい。


「いただきます」

 これは彼に教わった食事前の挨拶だ。食べ終えたら『ご馳走さま』という決まりらしい。それに倣った後、食後のお茶を一口含み時計を一瞥すると午前7時を指していた。食器類を洗ってから身支度を整え、仕事先へ向かったとしても余裕を持って到着するだろう。


「おはよう、シラン」

「おはようございます、ネルさん」

 家を出て数分後、声をかけられた。

 ──彼の名前はネル。ティムと同じ熊型ウルスであり、ガッシリとした巌のような体格をしている。だというのに、非常に親しみやすい雰囲気をもつ不思議な人だ。警備課に所属しており、主な仕事は巡回と暴徒鎮圧。魔物の討伐等も行うが、基本は侵入してきたモノだけ討伐するらしい。

 そんな彼も、今から役場へ戻るところだったらしく、私達は共に向かうことにした。

「ところで体の調子はどうだ? 少しは血色も良くなってるみたいだが」

「お陰様で。けれどミァンさんには油断するなと言われました」

 ミァンはこの村唯一の医者である。歳は概ね三十五歳前後といったところで、身体的特徴は乏しい。それ故に、初見で彼が何型の亜人種なのか見抜けた人は居ないとの事だった。

 そしてこれは彼から聞いた話なのだが、亜亜人種アドヴァンスというのはヒトに他生物遺伝子を混ぜた新しい人類なのだそうだ。例えば熊型ウルスは骨密度と筋密度が高くなり、自重の九十倍ものモノを持ち上げることが出来るらしい。それ故、性別関係なく大柄で筋肉質になるのだとか。

「まぁお前さんも不明種Unknownだし、慎重になる気持ちもわかるわ」

「私もってことは、他にも?」

「今はもう居なくなったけどな。ナー……なんだっけか? なんとかシィ、じゃなくて……まぁいいや。ナーシィ? っていう妙齢の女性が居たんだよ」

 彼が人の名前を思い出せないのは珍しい。本人もその自覚があるのだろう。その顔は少しばかり不機嫌そうである。

「それで、そのナーシィさん? はどんな人だったんですか」

「腰まで伸びた深緑色の髪が印象的でな、サファイアっていう宝石みたいに綺麗な目をしてたんだよ。

 物腰も柔らかないい女だったんだけど、滅茶苦茶酒に強くてなぁ……飲み比べじゃあ常勝無敗、遂には蟒蛇ウワバミだなんて呼ばれてたっけか」

「ウワバミ?」

「大酒飲みの事さ。普通は五、六杯で酔うもんだけど、彼女はケロッとしてやがったんだ。ありゃ誰も勝てねぇわ」

 彼はボヤくように言い切ると、短い溜め息と共に空を見上げた。もしかすると、飲み比べで負けた記憶でもあるのだろうか?

「──そういやシランは飲めるのか?」

「いえ、飲める飲めない以前に飲んだ記憶がないので……」

 酒がなにか、というのは知っているが味わった記憶はない。喪失しているのか、無意識に忘れているのか。本当に飲んだことがないのか。全くわからないのだ。それ故に興味はあるが、嗜好品でありそれなりに値が張ると聞く。

「勿体無いなぁ。シランだってもう大人なんだろ?」

「た、多分……?」

 うっすらと成人の儀式らしいものをした記憶はあるけれど、酷く朧気で確証がない。そもそもあの洞穴で行われたアレは、成人の儀式だったのだろうか……?

「……いやそこは大人だと言ってくれ」

 軽く逡巡していると、ややあってから軽い溜息と共にそんな事を言われてしまった。

「えっ、あっ? ごめんなさい」

「謝ること無いっての。それにしてもアレだなぁ……流石に酒の味を知らないのは不憫だわ」

「お酒、そんなに良いものなんですか?」

 不憫とまで言われては、どれ程のモノかと気になるものだ。とはいえ、酒類は生産数も限られている。故に希少価値は高く、今の私が手を出せるものではない。

「おう、特に美人と飲む酒が一番旨いんだわ。だからいつか付き合ってくれ」

「は、はぁ……えっ? 私と、ですか……?」

「おうよ。正直シランとは一度、飲んでみたかったんだ──っと、もう着いちまったか。そんじゃ、今日も一日頑張れよ」


 気づけばもう、役場の目の前まで来ていた。

 彼は私の肩を軽く叩くと、警備課の方へと歩いていく。

 その後ろ姿をしばし見送った後、自身の所属する課へと向かう。そこは地域住民課であり、主な業務は村民からの要望への対処だ。例えば荷物の運搬、農作物の収穫作業その他諸々──最早便利屋と呼ばれる日も近いのではなかろうか?


「おはようございます、レヴナさん」

「ん? シランか、おはよう」

 ──レヴナさんは猫型亜人種カート•アドヴァンスであり、常に給仕服で過ごすちょっと変わった人だ。なので彼女が地域住民課のトップだと紹介された時は、何かの冗談かと思った。また警備課のネルさんとは長い付き合いらしく、カガの焼き串屋によくいるらしい。

「そうだシラン、お前午後は空いてるか?」

「空いてますよ」

「なら午後一でエルシィの所へ向かってくれ。肉体労働になるが、いけるか?」

「大丈夫です」

「そうか。あぁ、それと──」

 こうして割り振られた雑務をこなしていると、同課の職員達が次々出勤してきた。

「おはようございます」

「おはよう。今朝も早いのね、シランさん」

「そうでもないですよ。私もついさっき来たばかりですから」

「嘘言わないの。朝掃除してくれてるのだって、貴女なんでしょう?」

「いえ! あれは殆どレヴナさんが──」

「──半分はお前がやったんだから、素直に認めたらいいじゃないか」

 レヴナによって私の言葉は遮られ、それを聞いた同僚は『やっぱりそうじゃない』とでも言いたげな表情で私を見ている。

「過度な謙遜はしなくて良いぞシラン。それと、掃除が終わったのならこれを頼む」

 手渡されたのは子熊のぬいぐるみだった。片目が取れかけている上、腕の継ぎ目が殆ど解れている。直せない事はないだろうが、このまま継ぎ直すのはちょっと難しそうだ。

「裁縫用具は地下倉庫の59番庫にある。頼んだぞ」

「あっ、はい。わかりました」

 ぬいぐるみを自分のデスクへ置き、地下倉庫へと向かう。そうして裁縫用具を手に、ぬいぐるみの修繕へと取り掛かった。この子の持ち主は結構ヤンチャなのか、他にも補強したほうが良さそうな箇所はいくつもあった。


「──シラン、昼飯を抜くつもりか?」

「うえっ!? レヴナさん……驚かさないでくださいよ」

 突然かかった声に肝が冷えた。

「もう昼鐘も鳴っていたが。まさか気づいていなかったのか?」

 壁掛け時計へ目を向けると、既に正午を回っている。加えて、課内にいるのは私達だけのようだ。

「小休止くらい入れろ。そのうち体を壊すぞ」

「あ、あははは……気をつけます」

「そうしてくれ。午後の件、頼んだぞ」

「はい。ここだけ縫ったらすぐに──」

「いいや、今すぐに食堂へ行け。ソレは急ぎの依頼ではないし、時間がかかることも伝えてある。わかったな?」

「……はい。わかりました」

 本当はもう少しやって一区切りつけたかったのだが、今の彼女はそれを許してくれそうにない。現に部屋を出るまで、彼女はずっと私の方を見ていたのだ。

「お、お先にお昼失礼しまーす……」

「ああ。しっかりと食べてこい」

 この様子では、修繕作業を明日に回す他ないだろう。やや心残りではあるが、仕方ない。


「えっと……何処か空いてないかな」

 この時間帯の食堂で座れる方が珍しい。そうわかっていても、空いている席を探してしまう自分が居た。しかし時間帯が時間帯なのだ。普段は空いている屋外席すら埋まっていた。

「あのー、何時ものあります?」

「ハリコセットだね。二十バルだ」

 ハリコセットとは、モチモチとした餡パンとミルクのセットメニューだ。個別で買うよりも五バル程安く、朝食を忘れた人や夜勤帰りに買う人が多い。元々はハリコミのお供として定着していたらしいが、ハリコミが何なのかは不明だ。

「ありがとうございます」

「たまにゃ他のも買ってきなよ。お給金だってあるだろうに」

「あはは……居候の身なんで、あまり贅沢はしたくないんですよ」

「そうかい」

 購買横の立ち食いスペースでそれらを味わい、空の瓶を返す。すると店員から三バルを返されるのだ。ガラス容器は貴重なので、こうして回収するようになっているのだとか。



「こんにちは、エルシィさん」

「──アンタが今回の担当かい?」

 ──エルシィは森の近くに住む高齢の亜人種で、気難しい人だとは聞いていた。けれど、まさか挨拶しただけで顔を顰められるとは。それにジロジロと、品定めするような視線を向けらるのは気持ちのいいものではない。

「えっ……と、他の人が良かったですか……?」

「そういう訳じゃないよ。ほら入った入った」

「あっ、はい。お邪魔します」

 招かれるまま入った屋内は、思ったよりも広い。しかし様々な物が散乱しており、居住空間としては使えなさそうだ。

「あの……ここ、ですか?」

「ここを含め、あと一部屋あるね」

「了解、です」

 こんな事ならもう一人くらい付けて欲しかった。一部屋だけならまだしも、計二部屋となれば話は変わる。

「一先ず、奥から頼もうか。古い機械やらなんやらが多くて手に負えんでな」

「ここからですね。わかりました」

「頼んだよ」

 足の踏み場もない、とはまさにこの事なのだろう。幸い螺子や釘の類は落ちてなさそうだが、何かへ触れる度に埃が舞った。ハッキリ言って相当酷い現場である。

 誰もがどうしてこんなになるまで、と言うだろう。

 ……しかし考えても見て欲しい。年齢の問題もあるし、彼女は非力な鹿型ツェルボでもある。それに誰かへ助けを求めるタイプでもないのだから、こうなってしまうのも仕方なのだろう。

 なんて事を考えつつ、彼女の指示通り作業を進めていく。



「────これで全部、ですか……?」

「あぁ、これで全部さ。まさか半日で終わらせるなんて思わなかったよ」

「私も、終わるなんて思ってもいませんでした」

 全てが終わった頃にはもう、酷い倦怠感と筋肉痛しか感じなかった。ここで腰を降ろそうものなら半日は動けない気がする。というかもう既に足元が覚束ないし、軽いし目眩もしてきた。それに加えて、日も落ち始めている。

「えっと……それじゃあ、私はこれで」

「ありがとう、シラン。それとこれ、持っていきな」

 差し出された手提げには、幾つかの草餅と一つの簡易水筒が入っていた。彼女の方を見やると、無言で頷かれた。

「その、本当に良いんですか?」

「いいから、持っていきな」

「お気遣いありがとうございます、エルシィさん」

「帰り道、気をつけるんだよ」

「はい。それではまた、何かありましたら地域住民課までお願いいたしますね!」


 その帰り道、前方から近づく人影が見えた。あちらも気づいたのか、手にしたランタンを軽く掲げ立ち止まる。

「よぅシラン、仕事は終わったかい?」

「ネルさん? どうしてこんなところに」

 そこに居たのは私服姿のネルだった。

「迎えに行ってくれってレヴナに頼まれたんだわ」

「そうだったんですね、ありがとうございます」

「いーっていーって。それよかお前さん、その手提げ袋はなんだ?」

「これですか? エルシィさんから頂いたんですよ」

「そりゃ良かったな」

「はい。気難しい方と聞いていたので、少し心配していたのですが、とても優しい方でした」

 作業中ずっと見られていたけれど、途中で飲み物をくださったりと比較的良くしてくれた印象がある。

「ほぅ、差し入れまでくれたのか。お前さん、気に入られたみたいだな」

「え、そうなんですか?」

「おう。そんでお前さん、そのまま帰るのか? レヴナの奴は直帰しても良いと言っていたが」

「このまま役場に戻ります。業務日誌、職場に置きっぱなしなので」

「あらま。そんじゃ役場まで送ろうか」

「あっ、大丈夫ですよ。もう道もわかりますし」

「そうか?」

「はい。それにもう防護柵は超えてますから。ここまでありがとうございました」

「……まぁいいか。そんじゃまた明日な、シラン」

 そうして別れ、戻った役場は殆ど灯りが落ちていた。地域住民課と警備課の2つのみ、まだ点いている。となれば、ティムもまだ帰っていないのだろう。


「お疲れ様です、レヴナさん」

「シラン? 何故直帰しなかった。ネルに会わなかったのか?」

 課内に居たのは彼女だけだった。そして直帰しなかったのが意外だったのだろう。ほんの少し、驚いたような顔をしている。

「いえ、会いましたよ」

「ならなぜ?」

「業務日誌、机に置いたままだったんです」

「む、そうだったのか」

「ええ。なので急いで書きます」

「……そうか。私はあと半刻程で帰るが、それまでに終わるか?」

「大丈夫です」

 とは言ったものの、半刻で書き上げられるかはちょっと怪しい。

 業務日誌程度で何をそんなに、なんて思うだろう。しかし私にとって簡単なものではないのだ。ここで使われる共用語──旧時代に英語と呼ばれていたそれを、私は知らない。知らないというか、忘れているという方が正しい気がする。

 毎日勉強しているのだが、未だスペルミスと誤用が多いのだ。故に辞書が手放せず、文章作成には常人の倍かかってしまう。

「──すみません、ギリギリになってしまって」

「構わない。軽く確認するから少し待っていろ」

 提出した業務日誌を手にする事数分、幾つかのスペルミスを指摘されただけで済んだ。そこから二人で課内の戸締りを行っていると、突然帰りに焼串屋へ行こうと誘われた。


「いらっしゃーい」

「二人、入れるか?」

「大丈夫だよぉ。って、今日はネル君じゃないんだぁ」

 彼女の後に続くと、齢二十前後と思わしき鳥型亜人種ビールドの女性が出迎えてくれた。童顔で背も低く、一見すると子供にも見える。

「ああ。最近越してきたシランだ」

「初めましてぇ、店主のカガと言いますぅ」

「初めて、カガさん」

 差し出された手を取り、握り返すと満面の笑みを返された。間延びした語尾も相まって、可愛らしい印象が強い。


 挨拶もそこそこに席へ着くと、手書きのメニュー表を渡された。墨絵で描かれた料理の下には、極東の文字が使われている。漢字と呼ばれているそれの上に、ルビとして共用語が綴られていた。

「カガさんは極東出身なんでしょうか?」

「いや? たしか海の国から流れ着いたと言っていたが」

「海の国……?」

「文字通りだよ。沿岸部に建てられた国で、貿易と海産業が盛んなんだ。そのせいで多くの言語が行き交う混沌カオスな国さ。

 それでシラン、キミは何を飲むんだ?」

「えーっと……」

 何を飲むのか、と言われても困ってしまう。そもそも読めないメニューもあるし、読めた所でどんなものかもわからない。

「もしかしてこういう所は初めてなのか?」

「実はそうなんです。お酒も飲んだことがなくて」

 飲んだことがない。そう伝えた瞬間、かなり驚いた顔をされてしまった。ネルもそうだったけれど、なぜだろう。

「あの、どうしてそんな顔を……?」

「気にするな。それよりもシラン、お前はどんな味が好きなんだ?」

「ほんのり甘いのが好きです。柚子蜜とか」

「なら生姜ジンジャー蜂蜜酒ミードにしておくか」

 そう言うや否や、彼女は店員に声をかけ幾つかの注文を伝える。それからややあって、小鉢と共に箸とオテフキなるものを渡された。

「これ、なんですか?」

「小鉢はお通しと言って、勝手に出てくる。そしてこっちのオテフキは、こうして手を拭く為のものだ」

 彼女がしたように、ロール状のそれを解いて両手を軽く拭いてみる。ほんのりと温かく、少し気持ちよかった。

「──まて、それはそういうものじゃないぞシラン」

「え?」

 手を拭いた後、隣席の男性がやっていたように顔を拭こうとして止められた。気持ちよさそうなのになぜ止めたのだろう?

「オテフキで顔を拭くのはオッサンだけだ」

「……なぜ?」

「知らん。だが、それをするとオッサンになると言われている」

 そう言う彼女は、今までにないくらい真剣な面持ちだった。

「オッサン化すると婚期が遠のくらしい」

「そうなんですか?」

「あぁ。まずオッサンというのはな────」

 ここから暫し、オッサンとそれに付随するイメージについての講釈が続いた。要するに、恥じらいを失ったのがオッサンであるらしい。

「故に婚期が遠のくんだ。野郎がオッサンになっても、哀愁漂う小型怪物マスコットにしかならんが……オッサン化した女は目も当てられん」

 なにか良くない思い出でもあったのだろうか。気にはなるものの、そこに興味を示したら話が長くなりそうだ。


「ふたりとも、おまたせぇ。生姜ジンジャー蜂蜜酒ミードだよぉ」

「ありがとう」

「あっ、すみません。ありがとうございます」

 差し出されたグラスを受け取ると、彼女がグラスを突き出してきた。この行為に一体なんの意図があるのだろうか?

「乾杯だよぉ。軽く当てるだけでいいからねぇ、シランちゃん」

「こ、こうですか……?」

 カガのジェスチャー通りにグラスを当てると、キンッという澄んだ音と共に中身が揺れる。

「そうだよぉ。勢いよくやると、割れちゃうから気をつけてねぇ」

「うむ。割ると追加料金だから気をつけろよ?」

「故意じゃなければ大丈夫だからねぇ。それじゃ、楽しんでいってねぇ」

 朗らかな笑みと共に去っていく彼女。私達はもう一度、乾杯を交わし中身を煽る。


「初めての酒の味はどうだ、シラン」

「美味しいです!」

 これなら彼女らがあんな顔をするのも納得だ。上手く言い表せない味だが、何故かとても気分が良くなる。そんな未経験の高揚感に導かれ、一口、また一口とつい手が伸びてしまう。また料理も旨く、こちらも箸が止まらない。

 となれば自然と話も盛り上がるもので、気づけば上司と部下という立場も忘れ盛り上がっていた。

「盛り上がってるねぇ二人共」

 四杯目の生姜蜂蜜酒ジンジャーミードを飲み終えた頃、麦酒と料理を手にした彼女がやってきた。

「カガちゃん? 厨房はいいのか」

「大丈夫だよぅ。ディーアちゃんが手伝ってくれてるからねぇ」

「ディーアが? 自炊も出来ない奴に任せて大丈夫なのか」

「大丈夫だよぉ。仕込みは終わってるからぁ、後は盛り付けるだけだもん」

 料理を並べ、彼女は私の隣に座る。乾杯を交わすと、彼女はそのまま一気に麦酒を煽ってみせた。

「お酒は美味しいねぇ、レヴナちゃん」

「相変わらず豪快な飲み方だな」

「冷たい麦酒をキュッとキメるのが旨いって、ネル君が教えてくれたからねぇ」

 またアイツは余計なことを、等と愚痴っているが彼女は何処か楽しそうでもある。そしてそのまま雑談を続けた後、私の話題へと移っていた。


「ねぇシランちゃん。ティム君のことはどう思ってるのぉ?」

「どうって、優しくていい人だとは思ってますけど」

「……それだけぇ?」

 聞かれたことに対し、正しく答えたつもりだったのだが……二人の表示が違うと言っている。どんな答えを期待していたのだろうか?

「──あのなぁシラン。八ヶ月も同棲しているんだからもっとこう、あるだろう?」

 暫く考えてみたけれど、彼女らが求める回答は思い浮かばない。同棲しているとはいえ、互いのプライベートは確保されている状態だ。

「……本当になにもないのか?」

「ええと……はい、なにもないです」

「セックスの一発や二発もないのか?」

「セッ……!?」

 突然の爆弾発言に言葉が詰まった。隣の彼女は深いため息をついているが、レヴナは涼しい顔で酒を楽しんでいる。

「えーと……レヴナちゃん? 他のお客さんもいるんだからぁ、大きな声でそういう事は言わないでねぇ」

「個室だし大丈夫じゃないのか?」

「だとしても控えて欲しいなぁ。耳の良い子達も居るんだからさぁ」

 このままお小言が続くかと思ったが、ここで止まってしまう。

「で、実際の所はどうなのぉ?」

「いっ!? カガさんまで……?」 

 彼女も興味があったらしい。レヴナとは違い、耳元で囁くような聞き方なのでこそばゆさもあった。

「どうって、ええと……」

「してないのぉ?」

「キスは?」

「そ、それは何回か……しました、けど」

「その先は?」

「…………恥ずかしくて、逃げて……ます」

 口吻を交わして、そのまま優しく押し倒されたこともある。軽く唇を重ねるキスから、貪るような荒々しいものへ変わり──胸に手を当てられたこともあった。

 けど、その先が恥ずかしくて駄目なのだ。彼に触られるのは嫌じゃない。求められているのもわかっているけれど、触られるのが怖い。自分の体が変じゃないかとか、色々考えてしまって見られるのすら耐えられなくなるのだ。


「お前なぁ……逃げるのは駄目だろ」

 レヴナにはゲンナリとした様子で、ため息混じりに言われてしまった。カガも呆れているのか、小さくため息を漏らしている。

「シランちゃん、それは流石にティム君が可愛そうだよぅ」

「一発くらいヤッてみればいいだろう。キスもセックスも同じ粘膜接触なんだから」

「レヴナちゃん、それは流石に違うと思うなぁ……けどねぇシランちゃん。好きな人と交わりたいっていう気持ちはあるんだよねぇ?」

「そ、それは……まぁ……」

 当たり前だ。好きな人と触れ合いたい気持ちはある。しかし、いざそういう行為に直面すると足が竦むのだ。

「なら最後までやれ」

「逃げてると嫌われちゃうかもよぉ……?」

 それはわかっている。私だって年頃の女だし、そういう行為に興味が無いわけではない。ただ自身の体に自信がないのだ。二人のように華奢な身体つきでもないし、背だって高い。

「──じゃあ勝負下着でも着たらどうだ。それだけで唆られるという奴は多いんだし、お前も少しはその気になれるだろう」

 その事を伝えると、ため息混じりの提案をされた。カガも全力で肯定しているが、なぜだろう?

「その、勝負下着……とは一体……?」

「煽情的な下着だ。透けていたり布地がなかったりで────」

「──ソレ以上はやめようねぇ、レヴナちゃん……?」

 底冷えするような圧を孕んだ言葉に、一瞬体が硬直する。やらかしかけた彼女は、猫耳をピンっと立たせて軽く目を見開いていた。

「…………うん。まぁそういうアレだ。シランも一組くらいはあるだろう」

 カガから視線を外し、やや気まずそうに言葉を続ける彼女。その声は微かに震えている。

「あ、あるわけ無いですよ。下着なんて、生活組合で売ってる600バルのアレしかないですし」

「嘘、だろ……?」

「えぇー……」

 何故かドン引きされた。というか、ここまで露骨な反応を示す程の事なのだろうか?

「あの、二人共何故そんな反応を?」

「いや……だってなぁ?」

「安物は止めたほうがいいよぉ。胸の形、崩れちゃうもん」

「け、けど毎日使いますし肉体労働も多いので」

「なら尚の事駄目だよぉ」

「だな。シラン、ちょっとそこに立て」

「えっと、ここですか?」

 指示された所へ立つと、彼女は巻き尺とチャコペンを手に近づいてくる。カガは幕をおろし、通路から中が見えないようにしていた。

「脱げ」

「えっ」

「────採寸のお時間だ」

「こ、ここで!?」

「一分もかからず終わるから、さっさと脱げ」

「い、嫌ですよ!?」

「ええい面倒だな、カガちゃん。手伝ってくれ」

『はぁい』という声とともに後ろへ回り込まれ、あっという間に動きを封じられシャツを脱がされた。

「……本当に色気のない下着だな。生活組合め、もう少し乙女心を学べというのに」

 ブツブツと文句を言いながらも、手早く採寸を行う彼女。そして言葉通り、採寸は一分もかからずに終わっていた。

「終わりだ」

「うぅ……酷いです二人共」

「さっさと脱がないのが悪い」

 ボタンを掛け直していると、二人は寸法値をみて感心しているようだった。

「スタイルいいねぇ、シランちゃん」

「うむ。これで自信がないなら、世の中の女性はどうなるんだ全く」

「羨ましいなぁ」

「まったくだ。今度下着モデルの仕事でも斡旋してやろうか」

「いいんじゃないかなぁ。基本顔は写らないしぃ、お給金もいいんだよねぇ」

 何やらとんでもない話が聞こえてきたが、冗談であることを願う他無い。人前で脱ぐなんて死んでもごめんだ。

「……カガちゃん、少し席を外していいか?」

「いいけどぉ、二時間以内には帰ってきてねぇ」

「わかった。その間シランを頼むぞ」

「はぁい。気をつけてねぇ」

 あれよあれよという間に話は進み、彼女は店を出て行ってしまう。

「それじゃあシランちゃん。今度は私とお話しようねぇ」

「お、お手柔らかにお願いいたします……?」


 そうして健全な話題で盛り上がりつつ、酒を飲みながら待つこと一時間。レヴナが紙袋を手に戻ってきた。

「おかえりぃ」

「遅くなってすまない。どの色がいいかと迷ってな」

「どれどれぇ?」

 彼女らは紙袋の中身を確認すると、満足したように頷きソレを手渡してきた。

「えっ、なんですかこれ」

「いいから開けてみろ」

「……?」

 紙袋は軽く、殆ど内容物の重さを感じなかった。中にあったのは黒い布地らしきもので、そこまで量があるわけでもない。

「──これって、まさか……」

 中から出てきたのは、シルク製と思わしき真っ黒い下着。しかし所々布地が薄くなっており、大事なところを隠せる気がしない。二人の方を見やると、意地の悪い笑みを浮かべて親指を立てている。

「……いやいやいや、着ないですからね?!」

「何故だ?」

「どぉして着ないのぉ? 似合うと思うのになぁ」

「カガさんも、なんでそんなにノリノリなんですか! ってかこれ相当上質なものですよねぇレヴナさん?!」

「シルク製だからな。26,500バルはした」

「高っ!?」

「わぁお……」

 それはこの村の平均月収の1/6に相当する。下着にこれだけの額を注ぎ込める人は、そう多くないだろう。

「とにかく。お前はこれを着て、ティムを押し倒せ」

「いやだからやりませんって!」

「なら来月のボーナスから下着代を天引きするしかないな」

「んなっ……!」

 私のボーナスが幾らになるのかは不明だが、あの金額を引かれるのはキツイ。もし本当に引かれてしまえば、前々から狙っていた限定本が買えなくなってしまう。

「ついでに酒も贈っておいたからな。その下着を着ないのなら、その分も上乗せするが?」

「これ、パワハラというやつですよね? そうですよね!?」

「いや? 私なりの応援だ。それに良く考えてみろシラン。お前はそれを着るだけで、高級品を2つ手に入れることができる。どう考えたってお得だと思うのだが」

「理解不能ですってレヴナさん……! カガさんもそう思うでしょう?」

「そうかなぁ? 私はこれ、破格の取引きだと思うよぉ。それにレヴナちゃんが送った奴、一瓶で38,000バルはするやつでしょお? 」

「はぁ!?」

 頼みの綱はあっさりと切れてしまう。それに加え、知りたくもない情報も聞かされてしまった。

「──さぁ、どうするシラン」




 ──結局、私は彼女の提案を受ける事にした。

 確かに毎回逃げるのも心苦しいし、彼女らの言う通り焦らした分の上乗せ的な要素は必要だろう。

「……レヴナさん、今日はご馳走でした」

「気にするな。ただシラン、お前はもう少し本音を隠せ。でないと苦労するぞ?」

「努力しますね」

「そうしてくれ。ではまた週明けに」

「……ええ。また来週もよろしくお願いしますね」


 店先で別れ、帰路に着きながら先程のやり取りを反芻する。そしてこれから成すべき事を考え、頭が痛くなった。

 加えてアルコールが回り始めているのだろう。頭痛は強まり、足元が覚束なくなり始めていた。

 ……そう言えば彼女から、酔いが回ってきたらこれを飲めと言われていた気がする。


「ただいまー」

「遅かったな──って、どうしたんだシラン。胸元も開けてるし、随分と酒臭いな」

 玄関で靴を脱いだ瞬間、蹌踉めいた私を彼が受け止めてくれた。その際、ふわりと香った石鹸の香りが心地よい。

「んーとねぇ……レヴナさんと、飲んできたの」

「そうか。歩けるか?」

「んー……」

 足元はふわふわしており、真っ直ぐに立つことすら難しい。それになんだか凄く眠たくなってきた。

「おおっと、気をつけてくれ」

「大丈夫、大丈夫……うん……」

 壁伝いに歩き、脱衣所へと向かう。彼は心配そうに着いてきたが、流石に部屋の中にまでは入ってこなかった。

「着替え着替え……ええっと、これだったかも……」

 ぼんやりとした思考のまま下着を着換え、大きめのシャツを羽織りベッドへと向かう。


「んー……?」

 かけ布団を捲り、潜り込もうとしてなにかに触れる。筋肉質でゴツゴツとした腕は、彼のものだろうか? 

「ティムぅ? なんれ、私のベッドに……?」

 明かりもなく良く見えない。面倒だけれど、布団を捲りあげ彼らしきものに跨り間接照明を点けた。

「やっぱり、ティムだ……」

「シラン? 寝ぼけているのかわからないが──っ?!」

 起きようとした彼をぐっと押し倒し、その顔を覗き込んでみた。視界は少しぼやけているけれど、そこにいるのは彼で間違いなさそうだ。

「なーんで私のベッドに、いるのかなぁ……」

「……いや、ここは」

「──まぁ……どうでもいっか」

 なんだか何時もの彼よりも大人しい。視線も私の顔に行ったり胸に行ったりと、忙しなく見える。普段の彼からは、想像もつかない姿だ。

 ──だとすれば、これは夢なのだろうか?


「ねぇ……ティム」

「……?」

「──いつも逃げて、ごめんね」

 夢なら、本心を出しても良い。きっと憶えていないし、明日には忘れるだろうから。

「ティムの事は、好き──…………だから……うん……」

 はだけたシャツの隙間に手を這わせて、その熱に触れる。静かに上下する胸と、煩いくらいの心音。

 静かな月夜に聞こえるのは、衣擦れの音と互いの呼吸音だけ。見下ろした彼からの、火傷しそうなくらいに熱い視線が、酒で火照った身体に突き刺さる。

 こういうのも、悪くはない。少しは恥ずかしいけれど、夢なんだから好きにしてみよう。普段なら恥ずかしくて、絶対言えないけれど───


「──……………シよっか?」


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