♡From Fun Aart,酔宵醉
──私の名前は紫蘭。
ちょっと珍しい角が生えている
ここへ来る前の事は、自分の名前を含めて何一つ憶えていない。紫蘭という名前も、村医者のミァンという青年がつけてくれたものだ。
そして、私が発見された時の様子だけれど──全身血塗れの酷い有様だったらしい。青黒く濡れた六叉鉾を支えにして、やっと歩いている状態だったとか。
後日その鉾を見せてもらったのだが、手にした経緯を含め記憶になかった。村の鍛冶屋達は見事な業物だと言っていたけれど、私にはよくわからない。磨き上げられ、薄ら青い輝きを孕む
本当は今すぐにでも手放したい。けれどこれは、私が村外から持ち込んだ唯一の所持品だ。なので私の過去に繋がる手掛かりとなる可能性も高い。故に手放せず、所持しているのが現状だ。
身寄りのない私は、現在ティムという男性の家に居候させて頂いている。彼曰く私達は似たような境遇らしく、気にかけてくれていたとの事。それに村内に家屋の空きもない、ということで彼の好意に甘えている状態だ。
そんな彼は
「……相変わらず朝早いなぁ」
私が目を覚ました頃にはもう、彼は家を出ていた。
そしてダイニングテーブルには、ご丁寧な書き置きと共にサンドイッチが置かれている。塩漬け肉と葉物野菜をライ麦パンで挟んだソレは少し大きく、私は半分程でも満腹になってしまう。
なので真ん中で切り分け、食べない方をガラス容器へと移す。後は氷室へ入れておけば半日は持つだろう。ただ一点、冷やしてしまうと固くなるのが気になるけれど、腐らせてしまうよりはいい。
「いただきます」
これは彼に教わった食事前の挨拶だ。食べ終えたら『ご馳走さま』という決まりらしい。それに倣った後、食後のお茶を一口含み時計を一瞥すると午前7時を指していた。食器類を洗ってから身支度を整え、仕事先へ向かったとしても余裕を持って到着するだろう。
「おはよう、シラン」
「おはようございます、ネルさん」
家を出て数分後、声をかけられた。
──彼の名前はネル。ティムと同じ
そんな彼も、今から役場へ戻るところだったらしく、私達は共に向かうことにした。
「ところで体の調子はどうだ? 少しは血色も良くなってるみたいだが」
「お陰様で。けれどミァンさんには油断するなと言われました」
ミァンはこの村唯一の医者である。歳は概ね三十五歳前後といったところで、身体的特徴は乏しい。それ故に、初見で彼が何型の亜人種なのか見抜けた人は居ないとの事だった。
そしてこれは彼から聞いた話なのだが、
「まぁお前さんも
「私もってことは、他にも?」
「今はもう居なくなったけどな。ナー……なんだっけか? なんとかシィ、じゃなくて……まぁいいや。ナーシィ? っていう妙齢の女性が居たんだよ」
彼が人の名前を思い出せないのは珍しい。本人もその自覚があるのだろう。その顔は少しばかり不機嫌そうである。
「それで、そのナーシィさん? はどんな人だったんですか」
「腰まで伸びた深緑色の髪が印象的でな、サファイアっていう宝石みたいに綺麗な目をしてたんだよ。
物腰も柔らかないい女だったんだけど、滅茶苦茶酒に強くてなぁ……飲み比べじゃあ常勝無敗、遂には
「ウワバミ?」
「大酒飲みの事さ。普通は五、六杯で酔うもんだけど、彼女はケロッとしてやがったんだ。ありゃ誰も勝てねぇわ」
彼はボヤくように言い切ると、短い溜め息と共に空を見上げた。もしかすると、飲み比べで負けた記憶でもあるのだろうか?
「──そういやシランは飲めるのか?」
「いえ、飲める飲めない以前に飲んだ記憶がないので……」
酒がなにか、というのは知っているが味わった記憶はない。喪失しているのか、無意識に忘れているのか。本当に飲んだことがないのか。全くわからないのだ。それ故に興味はあるが、嗜好品でありそれなりに値が張ると聞く。
「勿体無いなぁ。シランだってもう大人なんだろ?」
「た、多分……?」
うっすらと成人の儀式らしいものをした記憶はあるけれど、酷く朧気で確証がない。そもそもあの洞穴で行われたアレは、成人の儀式だったのだろうか……?
「……いやそこは大人だと言ってくれ」
軽く逡巡していると、ややあってから軽い溜息と共にそんな事を言われてしまった。
「えっ、あっ? ごめんなさい」
「謝ること無いっての。それにしてもアレだなぁ……流石に酒の味を知らないのは不憫だわ」
「お酒、そんなに良いものなんですか?」
不憫とまで言われては、どれ程のモノかと気になるものだ。とはいえ、酒類は生産数も限られている。故に希少価値は高く、今の私が手を出せるものではない。
「おう、特に美人と飲む酒が一番旨いんだわ。だからいつか付き合ってくれ」
「は、はぁ……えっ? 私と、ですか……?」
「おうよ。正直シランとは一度、飲んでみたかったんだ──っと、もう着いちまったか。そんじゃ、今日も一日頑張れよ」
気づけばもう、役場の目の前まで来ていた。
彼は私の肩を軽く叩くと、警備課の方へと歩いていく。
その後ろ姿をしばし見送った後、自身の所属する課へと向かう。そこは地域住民課であり、主な業務は村民からの要望への対処だ。例えば荷物の運搬、農作物の収穫作業その他諸々──最早便利屋と呼ばれる日も近いのではなかろうか?
「おはようございます、レヴナさん」
「ん? シランか、おはよう」
──レヴナさんは
「そうだシラン、お前午後は空いてるか?」
「空いてますよ」
「なら午後一でエルシィの所へ向かってくれ。肉体労働になるが、いけるか?」
「大丈夫です」
「そうか。あぁ、それと──」
こうして割り振られた雑務をこなしていると、同課の職員達が次々出勤してきた。
「おはようございます」
「おはよう。今朝も早いのね、シランさん」
「そうでもないですよ。私もついさっき来たばかりですから」
「嘘言わないの。朝掃除してくれてるのだって、貴女なんでしょう?」
「いえ! あれは殆どレヴナさんが──」
「──半分はお前がやったんだから、素直に認めたらいいじゃないか」
レヴナによって私の言葉は遮られ、それを聞いた同僚は『やっぱりそうじゃない』とでも言いたげな表情で私を見ている。
「過度な謙遜はしなくて良いぞシラン。それと、掃除が終わったのならこれを頼む」
手渡されたのは子熊のぬいぐるみだった。片目が取れかけている上、腕の継ぎ目が殆ど解れている。直せない事はないだろうが、このまま継ぎ直すのはちょっと難しそうだ。
「裁縫用具は地下倉庫の59番庫にある。頼んだぞ」
「あっ、はい。わかりました」
ぬいぐるみを自分のデスクへ置き、地下倉庫へと向かう。そうして裁縫用具を手に、ぬいぐるみの修繕へと取り掛かった。この子の持ち主は結構ヤンチャなのか、他にも補強したほうが良さそうな箇所はいくつもあった。
「──シラン、昼飯を抜くつもりか?」
「うえっ!? レヴナさん……驚かさないでくださいよ」
突然かかった声に肝が冷えた。
「もう昼鐘も鳴っていたが。まさか気づいていなかったのか?」
壁掛け時計へ目を向けると、既に正午を回っている。加えて、課内にいるのは私達だけのようだ。
「小休止くらい入れろ。そのうち体を壊すぞ」
「あ、あははは……気をつけます」
「そうしてくれ。午後の件、頼んだぞ」
「はい。ここだけ縫ったらすぐに──」
「いいや、今すぐに食堂へ行け。ソレは急ぎの依頼ではないし、時間がかかることも伝えてある。わかったな?」
「……はい。わかりました」
本当はもう少しやって一区切りつけたかったのだが、今の彼女はそれを許してくれそうにない。現に部屋を出るまで、彼女はずっと私の方を見ていたのだ。
「お、お先にお昼失礼しまーす……」
「ああ。しっかりと食べてこい」
この様子では、修繕作業を明日に回す他ないだろう。やや心残りではあるが、仕方ない。
「えっと……何処か空いてないかな」
この時間帯の食堂で座れる方が珍しい。そうわかっていても、空いている席を探してしまう自分が居た。しかし時間帯が時間帯なのだ。普段は空いている屋外席すら埋まっていた。
「あのー、何時ものあります?」
「ハリコセットだね。二十バルだ」
ハリコセットとは、モチモチとした餡パンとミルクのセットメニューだ。個別で買うよりも五バル程安く、朝食を忘れた人や夜勤帰りに買う人が多い。元々はハリコミのお供として定着していたらしいが、ハリコミが何なのかは不明だ。
「ありがとうございます」
「たまにゃ他のも買ってきなよ。お給金だってあるだろうに」
「あはは……居候の身なんで、あまり贅沢はしたくないんですよ」
「そうかい」
購買横の立ち食いスペースでそれらを味わい、空の瓶を返す。すると店員から三バルを返されるのだ。ガラス容器は貴重なので、こうして回収するようになっているのだとか。
「こんにちは、エルシィさん」
「──アンタが今回の担当かい?」
──エルシィは森の近くに住む高齢の亜人種で、気難しい人だとは聞いていた。けれど、まさか挨拶しただけで顔を顰められるとは。それにジロジロと、品定めするような視線を向けらるのは気持ちのいいものではない。
「えっ……と、他の人が良かったですか……?」
「そういう訳じゃないよ。ほら入った入った」
「あっ、はい。お邪魔します」
招かれるまま入った屋内は、思ったよりも広い。しかし様々な物が散乱しており、居住空間としては使えなさそうだ。
「あの……ここ、ですか?」
「ここを含め、あと一部屋あるね」
「了解、です」
こんな事ならもう一人くらい付けて欲しかった。一部屋だけならまだしも、計二部屋となれば話は変わる。
「一先ず、奥から頼もうか。古い機械やらなんやらが多くて手に負えんでな」
「ここからですね。わかりました」
「頼んだよ」
足の踏み場もない、とはまさにこの事なのだろう。幸い螺子や釘の類は落ちてなさそうだが、何かへ触れる度に埃が舞った。ハッキリ言って相当酷い現場である。
誰もがどうしてこんなになるまで、と言うだろう。
……しかし考えても見て欲しい。年齢の問題もあるし、彼女は非力な
なんて事を考えつつ、彼女の指示通り作業を進めていく。
「────これで全部、ですか……?」
「あぁ、これで全部さ。まさか半日で終わらせるなんて思わなかったよ」
「私も、終わるなんて思ってもいませんでした」
全てが終わった頃にはもう、酷い倦怠感と筋肉痛しか感じなかった。ここで腰を降ろそうものなら半日は動けない気がする。というかもう既に足元が覚束ないし、軽いし目眩もしてきた。それに加えて、日も落ち始めている。
「えっと……それじゃあ、私はこれで」
「ありがとう、シラン。それとこれ、持っていきな」
差し出された手提げには、幾つかの草餅と一つの簡易水筒が入っていた。彼女の方を見やると、無言で頷かれた。
「その、本当に良いんですか?」
「いいから、持っていきな」
「お気遣いありがとうございます、エルシィさん」
「帰り道、気をつけるんだよ」
「はい。それではまた、何かありましたら地域住民課までお願いいたしますね!」
その帰り道、前方から近づく人影が見えた。あちらも気づいたのか、手にしたランタンを軽く掲げ立ち止まる。
「よぅシラン、仕事は終わったかい?」
「ネルさん? どうしてこんなところに」
そこに居たのは私服姿のネルだった。
「迎えに行ってくれってレヴナに頼まれたんだわ」
「そうだったんですね、ありがとうございます」
「いーっていーって。それよかお前さん、その手提げ袋はなんだ?」
「これですか? エルシィさんから頂いたんですよ」
「そりゃ良かったな」
「はい。気難しい方と聞いていたので、少し心配していたのですが、とても優しい方でした」
作業中ずっと見られていたけれど、途中で飲み物をくださったりと比較的良くしてくれた印象がある。
「ほぅ、差し入れまでくれたのか。お前さん、気に入られたみたいだな」
「え、そうなんですか?」
「おう。そんでお前さん、そのまま帰るのか? レヴナの奴は直帰しても良いと言っていたが」
「このまま役場に戻ります。業務日誌、職場に置きっぱなしなので」
「あらま。そんじゃ役場まで送ろうか」
「あっ、大丈夫ですよ。もう道もわかりますし」
「そうか?」
「はい。それにもう防護柵は超えてますから。ここまでありがとうございました」
「……まぁいいか。そんじゃまた明日な、シラン」
そうして別れ、戻った役場は殆ど灯りが落ちていた。地域住民課と警備課の2つのみ、まだ点いている。となれば、ティムもまだ帰っていないのだろう。
「お疲れ様です、レヴナさん」
「シラン? 何故直帰しなかった。ネルに会わなかったのか?」
課内に居たのは彼女だけだった。そして直帰しなかったのが意外だったのだろう。ほんの少し、驚いたような顔をしている。
「いえ、会いましたよ」
「ならなぜ?」
「業務日誌、机に置いたままだったんです」
「む、そうだったのか」
「ええ。なので急いで書きます」
「……そうか。私はあと半刻程で帰るが、それまでに終わるか?」
「大丈夫です」
とは言ったものの、半刻で書き上げられるかはちょっと怪しい。
業務日誌程度で何をそんなに、なんて思うだろう。しかし私にとって簡単なものではないのだ。ここで使われる共用語──旧時代に英語と呼ばれていたそれを、私は知らない。知らないというか、忘れているという方が正しい気がする。
毎日勉強しているのだが、未だスペルミスと誤用が多いのだ。故に辞書が手放せず、文章作成には常人の倍かかってしまう。
「──すみません、ギリギリになってしまって」
「構わない。軽く確認するから少し待っていろ」
提出した業務日誌を手にする事数分、幾つかのスペルミスを指摘されただけで済んだ。そこから二人で課内の戸締りを行っていると、突然帰りに焼串屋へ行こうと誘われた。
「いらっしゃーい」
「二人、入れるか?」
「大丈夫だよぉ。って、今日はネル君じゃないんだぁ」
彼女の後に続くと、齢二十前後と思わしき
「ああ。最近越してきたシランだ」
「初めましてぇ、店主のカガと言いますぅ」
「初めて、カガさん」
差し出された手を取り、握り返すと満面の笑みを返された。間延びした語尾も相まって、可愛らしい印象が強い。
挨拶もそこそこに席へ着くと、手書きのメニュー表を渡された。墨絵で描かれた料理の下には、極東の文字が使われている。漢字と呼ばれているそれの上に、ルビとして共用語が綴られていた。
「カガさんは極東出身なんでしょうか?」
「いや? たしか海の国から流れ着いたと言っていたが」
「海の国……?」
「文字通りだよ。沿岸部に建てられた国で、貿易と海産業が盛んなんだ。そのせいで多くの言語が行き交う
それでシラン、キミは何を飲むんだ?」
「えーっと……」
何を飲むのか、と言われても困ってしまう。そもそも読めないメニューもあるし、読めた所でどんなものかもわからない。
「もしかしてこういう所は初めてなのか?」
「実はそうなんです。お酒も飲んだことがなくて」
飲んだことがない。そう伝えた瞬間、かなり驚いた顔をされてしまった。
「あの、どうしてそんな顔を……?」
「気にするな。それよりもシラン、お前はどんな味が好きなんだ?」
「ほんのり甘いのが好きです。柚子蜜とか」
「なら
そう言うや否や、彼女は店員に声をかけ幾つかの注文を伝える。それからややあって、小鉢と共に箸とオテフキなるものを渡された。
「これ、なんですか?」
「小鉢はお通しと言って、勝手に出てくる。そしてこっちのオテフキは、こうして手を拭く為のものだ」
彼女がしたように、ロール状のそれを解いて両手を軽く拭いてみる。ほんのりと温かく、少し気持ちよかった。
「──まて、それはそういうものじゃないぞシラン」
「え?」
手を拭いた後、隣席の男性がやっていたように顔を拭こうとして止められた。気持ちよさそうなのになぜ止めたのだろう?
「オテフキで顔を拭くのはオッサンだけだ」
「……なぜ?」
「知らん。だが、それをするとオッサンになると言われている」
そう言う彼女は、今までにないくらい真剣な面持ちだった。
「オッサン化すると婚期が遠のくらしい」
「そうなんですか?」
「あぁ。まずオッサンというのはな────」
ここから暫し、オッサンとそれに付随するイメージについての講釈が続いた。要するに、恥じらいを失ったのがオッサンであるらしい。
「故に婚期が遠のくんだ。野郎がオッサンになっても、哀愁漂う
なにか良くない思い出でもあったのだろうか。気にはなるものの、そこに興味を示したら話が長くなりそうだ。
「ふたりとも、おまたせぇ。
「ありがとう」
「あっ、すみません。ありがとうございます」
差し出されたグラスを受け取ると、彼女がグラスを突き出してきた。この行為に一体なんの意図があるのだろうか?
「乾杯だよぉ。軽く当てるだけでいいからねぇ、シランちゃん」
「こ、こうですか……?」
カガのジェスチャー通りにグラスを当てると、キンッという澄んだ音と共に中身が揺れる。
「そうだよぉ。勢いよくやると、割れちゃうから気をつけてねぇ」
「うむ。割ると追加料金だから気をつけろよ?」
「故意じゃなければ大丈夫だからねぇ。それじゃ、楽しんでいってねぇ」
朗らかな笑みと共に去っていく彼女。私達はもう一度、乾杯を交わし中身を煽る。
「初めての酒の味はどうだ、シラン」
「美味しいです!」
これなら彼女らがあんな顔をするのも納得だ。上手く言い表せない味だが、何故かとても気分が良くなる。そんな未経験の高揚感に導かれ、一口、また一口とつい手が伸びてしまう。また料理も旨く、こちらも箸が止まらない。
となれば自然と話も盛り上がるもので、気づけば上司と部下という立場も忘れ盛り上がっていた。
「盛り上がってるねぇ二人共」
四杯目の
「カガちゃん? 厨房はいいのか」
「大丈夫だよぅ。ディーアちゃんが手伝ってくれてるからねぇ」
「ディーアが? 自炊も出来ない奴に任せて大丈夫なのか」
「大丈夫だよぉ。仕込みは終わってるからぁ、後は盛り付けるだけだもん」
料理を並べ、彼女は私の隣に座る。乾杯を交わすと、彼女はそのまま一気に麦酒を煽ってみせた。
「お酒は美味しいねぇ、レヴナちゃん」
「相変わらず豪快な飲み方だな」
「冷たい麦酒をキュッとキメるのが旨いって、ネル君が教えてくれたからねぇ」
またアイツは余計なことを、等と愚痴っているが彼女は何処か楽しそうでもある。そしてそのまま雑談を続けた後、私の話題へと移っていた。
「ねぇシランちゃん。ティム君のことはどう思ってるのぉ?」
「どうって、優しくていい人だとは思ってますけど」
「……それだけぇ?」
聞かれたことに対し、正しく答えたつもりだったのだが……二人の表示が違うと言っている。どんな答えを期待していたのだろうか?
「──あのなぁシラン。八ヶ月も同棲しているんだからもっとこう、あるだろう?」
暫く考えてみたけれど、彼女らが求める回答は思い浮かばない。同棲しているとはいえ、互いのプライベートは確保されている状態だ。
「……本当になにもないのか?」
「ええと……はい、なにもないです」
「セックスの一発や二発もないのか?」
「セッ……!?」
突然の爆弾発言に言葉が詰まった。隣の彼女は深いため息をついているが、レヴナは涼しい顔で酒を楽しんでいる。
「えーと……レヴナちゃん? 他のお客さんもいるんだからぁ、大きな声でそういう事は言わないでねぇ」
「個室だし大丈夫じゃないのか?」
「だとしても控えて欲しいなぁ。耳の良い子達も居るんだからさぁ」
このままお小言が続くかと思ったが、ここで止まってしまう。
「で、実際の所はどうなのぉ?」
「いっ!? カガさんまで……?」
彼女も興味があったらしい。レヴナとは違い、耳元で囁くような聞き方なのでこそばゆさもあった。
「どうって、ええと……」
「してないのぉ?」
「キスは?」
「そ、それは何回か……しました、けど」
「その先は?」
「…………恥ずかしくて、逃げて……ます」
口吻を交わして、そのまま優しく押し倒されたこともある。軽く唇を重ねるキスから、貪るような荒々しいものへ変わり──胸に手を当てられたこともあった。
けど、その先が恥ずかしくて駄目なのだ。彼に触られるのは嫌じゃない。求められているのもわかっているけれど、触られるのが怖い。自分の体が変じゃないかとか、色々考えてしまって見られるのすら耐えられなくなるのだ。
「お前なぁ……逃げるのは駄目だろ」
レヴナにはゲンナリとした様子で、ため息混じりに言われてしまった。カガも呆れているのか、小さくため息を漏らしている。
「シランちゃん、それは流石にティム君が可愛そうだよぅ」
「一発くらいヤッてみればいいだろう。キスもセックスも同じ粘膜接触なんだから」
「レヴナちゃん、それは流石に違うと思うなぁ……けどねぇシランちゃん。好きな人と交わりたいっていう気持ちはあるんだよねぇ?」
「そ、それは……まぁ……」
当たり前だ。好きな人と触れ合いたい気持ちはある。しかし、いざそういう行為に直面すると足が竦むのだ。
「なら最後までやれ」
「逃げてると嫌われちゃうかもよぉ……?」
それはわかっている。私だって年頃の女だし、そういう行為に興味が無いわけではない。ただ自身の体に自信がないのだ。二人のように華奢な身体つきでもないし、背だって高い。
「──じゃあ勝負下着でも着たらどうだ。それだけで唆られるという奴は多いんだし、お前も少しはその気になれるだろう」
その事を伝えると、ため息混じりの提案をされた。カガも全力で肯定しているが、なぜだろう?
「その、勝負下着……とは一体……?」
「煽情的な下着だ。透けていたり布地がなかったりで────」
「──ソレ以上はやめようねぇ、レヴナちゃん……?」
底冷えするような圧を孕んだ言葉に、一瞬体が硬直する。やらかしかけた彼女は、猫耳をピンっと立たせて軽く目を見開いていた。
「…………うん。まぁそういうアレだ。シランも一組くらいはあるだろう」
カガから視線を外し、やや気まずそうに言葉を続ける彼女。その声は微かに震えている。
「あ、あるわけ無いですよ。下着なんて、生活組合で売ってる600バルのアレしかないですし」
「嘘、だろ……?」
「えぇー……」
何故かドン引きされた。というか、ここまで露骨な反応を示す程の事なのだろうか?
「あの、二人共何故そんな反応を?」
「いや……だってなぁ?」
「安物は止めたほうがいいよぉ。胸の形、崩れちゃうもん」
「け、けど毎日使いますし肉体労働も多いので」
「なら尚の事駄目だよぉ」
「だな。シラン、ちょっとそこに立て」
「えっと、ここですか?」
指示された所へ立つと、彼女は巻き尺とチャコペンを手に近づいてくる。カガは幕をおろし、通路から中が見えないようにしていた。
「脱げ」
「えっ」
「────採寸のお時間だ」
「こ、ここで!?」
「一分もかからず終わるから、さっさと脱げ」
「い、嫌ですよ!?」
「ええい面倒だな、カガちゃん。手伝ってくれ」
『はぁい』という声とともに後ろへ回り込まれ、あっという間に動きを封じられシャツを脱がされた。
「……本当に色気のない下着だな。生活組合め、もう少し乙女心を学べというのに」
ブツブツと文句を言いながらも、手早く採寸を行う彼女。そして言葉通り、採寸は一分もかからずに終わっていた。
「終わりだ」
「うぅ……酷いです二人共」
「さっさと脱がないのが悪い」
ボタンを掛け直していると、二人は寸法値をみて感心しているようだった。
「スタイルいいねぇ、シランちゃん」
「うむ。これで自信がないなら、世の中の女性はどうなるんだ全く」
「羨ましいなぁ」
「まったくだ。今度下着モデルの仕事でも斡旋してやろうか」
「いいんじゃないかなぁ。基本顔は写らないしぃ、お給金もいいんだよねぇ」
何やらとんでもない話が聞こえてきたが、冗談であることを願う他無い。人前で脱ぐなんて死んでもごめんだ。
「……カガちゃん、少し席を外していいか?」
「いいけどぉ、二時間以内には帰ってきてねぇ」
「わかった。その間シランを頼むぞ」
「はぁい。気をつけてねぇ」
あれよあれよという間に話は進み、彼女は店を出て行ってしまう。
「それじゃあシランちゃん。今度は私とお話しようねぇ」
「お、お手柔らかにお願いいたします……?」
そうして健全な話題で盛り上がりつつ、酒を飲みながら待つこと一時間。レヴナが紙袋を手に戻ってきた。
「おかえりぃ」
「遅くなってすまない。どの色がいいかと迷ってな」
「どれどれぇ?」
彼女らは紙袋の中身を確認すると、満足したように頷きソレを手渡してきた。
「えっ、なんですかこれ」
「いいから開けてみろ」
「……?」
紙袋は軽く、殆ど内容物の重さを感じなかった。中にあったのは黒い布地らしきもので、そこまで量があるわけでもない。
「──これって、まさか……」
中から出てきたのは、シルク製と思わしき真っ黒い下着。しかし所々布地が薄くなっており、大事なところを隠せる気がしない。二人の方を見やると、意地の悪い笑みを浮かべて親指を立てている。
「……いやいやいや、着ないですからね?!」
「何故だ?」
「どぉして着ないのぉ? 似合うと思うのになぁ」
「カガさんも、なんでそんなにノリノリなんですか! ってかこれ相当上質なものですよねぇレヴナさん?!」
「シルク製だからな。26,500バルはした」
「高っ!?」
「わぁお……」
それはこの村の平均月収の1/6に相当する。下着にこれだけの額を注ぎ込める人は、そう多くないだろう。
「とにかく。お前はこれを着て、ティムを押し倒せ」
「いやだからやりませんって!」
「なら来月のボーナスから下着代を天引きするしかないな」
「んなっ……!」
私のボーナスが幾らになるのかは不明だが、あの金額を引かれるのはキツイ。もし本当に引かれてしまえば、前々から狙っていた限定本が買えなくなってしまう。
「ついでに酒も贈っておいたからな。その下着を着ないのなら、その分も上乗せするが?」
「これ、パワハラというやつですよね? そうですよね!?」
「いや? 私なりの応援だ。それに良く考えてみろシラン。お前はそれを着るだけで、高級品を2つ手に入れることができる。どう考えたってお得だと思うのだが」
「理解不能ですってレヴナさん……! カガさんもそう思うでしょう?」
「そうかなぁ? 私はこれ、破格の取引きだと思うよぉ。それにレヴナちゃんが送った奴、一瓶で38,000バルはするやつでしょお? 」
「はぁ!?」
頼みの綱はあっさりと切れてしまう。それに加え、知りたくもない情報も聞かされてしまった。
「──さぁ、どうするシラン」
──結局、私は彼女の提案を受ける事にした。
確かに毎回逃げるのも心苦しいし、彼女らの言う通り焦らした分の上乗せ的な要素は必要だろう。
「……レヴナさん、今日は
「気にするな。ただシラン、お前はもう少し本音を隠せ。でないと苦労するぞ?」
「努力しますね」
「そうしてくれ。ではまた週明けに」
「……ええ。また来週もよろしくお願いしますね」
店先で別れ、帰路に着きながら先程のやり取りを反芻する。そしてこれから成すべき事を考え、頭が痛くなった。
加えてアルコールが回り始めているのだろう。頭痛は強まり、足元が覚束なくなり始めていた。
……そう言えば彼女から、酔いが回ってきたらこれを飲めと言われていた気がする。
「ただいまー」
「遅かったな──って、どうしたんだシラン。胸元も開けてるし、随分と酒臭いな」
玄関で靴を脱いだ瞬間、蹌踉めいた私を彼が受け止めてくれた。その際、ふわりと香った石鹸の香りが心地よい。
「んーとねぇ……レヴナさんと、飲んできたの」
「そうか。歩けるか?」
「んー……」
足元はふわふわしており、真っ直ぐに立つことすら難しい。それになんだか凄く眠たくなってきた。
「おおっと、気をつけてくれ」
「大丈夫、大丈夫……うん……」
壁伝いに歩き、脱衣所へと向かう。彼は心配そうに着いてきたが、流石に部屋の中にまでは入ってこなかった。
「着替え着替え……ええっと、これだったかも……」
ぼんやりとした思考のまま下着を着換え、大きめのシャツを羽織りベッドへと向かう。
「んー……?」
かけ布団を捲り、潜り込もうとしてなにかに触れる。筋肉質でゴツゴツとした腕は、彼のものだろうか?
「ティムぅ? なんれ、私のベッドに……?」
明かりもなく良く見えない。面倒だけれど、布団を捲りあげ彼らしきものに跨り間接照明を点けた。
「やっぱり、ティムだ……」
「シラン? 寝ぼけているのかわからないが──っ?!」
起きようとした彼をぐっと押し倒し、その顔を覗き込んでみた。視界は少しぼやけているけれど、そこにいるのは彼で間違いなさそうだ。
「なーんで私のベッドに、いるのかなぁ……」
「……いや、ここは」
「──まぁ……どうでもいっか」
なんだか何時もの彼よりも大人しい。視線も私の顔に行ったり胸に行ったりと、忙しなく見える。普段の彼からは、想像もつかない姿だ。
──だとすれば、これは夢なのだろうか?
「ねぇ……ティム」
「……?」
「──いつも逃げて、ごめんね」
夢なら、本心を出しても良い。きっと憶えていないし、明日には忘れるだろうから。
「ティムの事は、好き──…………だから……うん……」
はだけたシャツの隙間に手を這わせて、その熱に触れる。静かに上下する胸と、煩いくらいの心音。
静かな月夜に聞こえるのは、衣擦れの音と互いの呼吸音だけ。見下ろした彼からの、火傷しそうなくらいに熱い視線が、酒で火照った身体に突き刺さる。
こういうのも、悪くはない。少しは恥ずかしいけれど、夢なんだから好きにしてみよう。普段なら恥ずかしくて、絶対言えないけれど───
「──……………シよっか?」
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