断片.稚児の記憶

 ──貴方の瞳、サファイアみたいで綺麗ね。


 他愛ない会話をしていた最中に告げられた唐突な一言が、一つの転換期だったのでしょう。


「……そ、そんな事、ないです。私の目は、さ、サファイアのように、あ、青くありません」

「それ、本気で言ってるの?」

「へ、ぁう……はい」


 私に向けられた視線が怖かったのを覚えています。驚いたようで、疑うようなあの目をした誰かに酷いことをされた気がしたので。


「ふぅん……ちょっとご主人様にお話ししてくるから、少し待っていなさい」


 それから私の体を調べた結果、どうも私の目は色を正しく認識出来ていないようでした。

 それがわかってから、ご主人様は私に雑用を押し付けるようになりました。寝室は物置へと移され、草臥れた毛布を一枚手渡されるだけ。ご飯も朝と夕のたったの二回だけになりました。


 そんな生活が一月程続いたある日、私は施設へと送り返されてしまいました。

 ……残念ではありましたが仕方ありません、私は欠陥品だったのですから。 けれど、私は少し嬉しくもありました。だってそこに戻れば白衣のお姉さんに愛してもらえますし、温かくて美味しいご飯も食べられます。

 戻ったらお姉さんに何を話そうか、何をして遊んでもらおうかと考えると、不思議と寒さは無くなっていました。




 ──引き渡された当日、私は言葉を失いました。



 施設へ足を踏み入れた時の恐怖は今でも覚えています。私が離れた三年のうちに、施設は様変わりしていました。お友達と遊んだ中庭は荒れ果て、雑草だらけになっています。遊具は錆び付き、折れた支柱はまるで突き立てられた杭のよう。出迎えて下さったおじ様はニコニコと人好きのする笑顔でしたが、薬師のご主人様が帰られた途端、私の髪を引っ付かんで引き摺るように連れていかれました。とても痛くて、怖かったのです。


 そうして連れていかれたのはお仕置き部屋と呼ばれる地下室でした。三年前にもあった小さなお部屋で、お友達やお姉さんのような職員さんに凄い迷惑をかけたりした時に連れていかれるお部屋です。

 ですが目の前のこれはもう、お仕置き部屋ではなく牢屋です。中は鉄柵で六つに仕切られ、そのうちの二つには先客が居ました。二人とも頬は痩け、その瞳には生気がありません。まるでぽっかりと穴が空いているようです。

 また、地下室は糞尿と膿んだ傷の臭いが混ざりあって酷いものでした。おじ様は私を引き摺って空いている牢へ入ると、私の首に黒い鉄輪を嵌めてきます。鉄輪には鎖がついていて、その先には大きな鉄球らしきものが着いていました。とても邪魔で、首が苦しいと訴えましたが外して貰えずに何度も殴られました。


 それからも私はずっと、埃っぽくてじめじめした地下牢に繋がれていました。お食事は日に一回だけ。お食事を持ってきて下さるのは片角のお姉さんで、私が食べ終わってから少しだけお話してくれます。


 ──それが私のささやかな楽しみとなりました。


「ねぇ、貴女は名前って……ある?」

「い、いいえ……そんな、た、大層なものは……ない、です。

 あ、あるのは……D-008と、いう……番号だけ、ですよ」

「そっかぁ、貴女もないのね」

「お、お姉さんも……な、ない……の、ですか?」

「無いよ。私はD-03Fって呼ばれてる。

 貴女と同じで管理番号しか与えられてないの」


 お姉さんは悲しそうな声でそう呟きます。此方に背を向ける形で鉄格子へ寄りかかっているので、表情は見えませんが泣いているようでした。


「私達ってなんなんだろうね。親の顔を知らなきゃ名前もない、わかるのは自分が欠陥品ってことだけ。

 ──D-008はさ、名前が欲しい?」

「あ……えと、その……わかり、ま……せ、ん」

「そっか……私は欲しいよ、名前。

 D-03Fなんていう管理番号じゃなくて、私は私だって言える符号なまえが欲しいからさ」

「な、なぜ……わた、私は、私だ……って、言える……よ、ように……なり、たいのです、か?」


 ──私にはわからないのです。管理番号だって、私達を指し示す符号なまえですから。その番号は私だけのもの、私を私だと証明するものです。だからもう、名前は持っているはずなのに。

 どうして片角のお姉さんは管理番号以外の名前ふごうがほしいのでしょうか。


「……だって、あの符号は誰かが私達を識別するためにつけたタグだもの。親から贈られる名前すらない私達なんだから、せめて好きな名前を名乗って生きたいんだよ。

 そうすることで私は初めて私の物語を歩める気がするからさ」

「お、お姉さんの、言う……こ、事は、むず……かしい、のです」

「ならさ、D-008。私が名前をつけてあげようか?」

「……え、と……どう、して?」

「そうすれば私の想いもわかるんじゃないかなぁって。

 ということで、君はどんな名前が欲しい?」

「お、お姉……さん、が……くれるのなら、な、なんだって……良いの、です」

「そう? D-008は欲がないなぁ」

「お、お姉さんに、は……あ、るの?」

「沢山あるよー。まず名前でしょ?

 それからお洋服にお化粧品、あと素敵な彼氏は必須だよね。

 あとは──」


 そうして自分の欲しい物、叶えたい夢を話すお姉さんはとってもキラキラしていたのです。そんな姿が眩しくて、とっても素敵だなぁとも思いました。だから私も、ちょっとでもいいからお姉さんに近づきたいと思ったのです。

 私は、本当はお母さんが欲しい。だけどそれは叶わない。それにもしお母さんと思える人が出来たときに、私はD-008だなんて呼ばれたくなかった。


「あ、あの……!」

「なにかな?」

「わた、私……名前が、ほ、欲しい……です」


 私が口にした願いを聞いたお姉さんは、何度か瞬きした後に嬉しそうな笑みを浮かべました。


「ふふふ……実はもう考えてあるのよ、D-008」

「うぇっ?!」

「そんなに驚かないでよ」

「ご、ごめんなさい」

「あはは、謝らなくていいって。

 ……それじゃ君に贈る名前を教えようか」

「は、はい!」

「──サフィア、これが君の名前だよ。

 半造竜わたしから、蒼い瞳の造竜あなたへの初めての贈り物だ」


 お姉さんの優しい笑みとこの名前を、私は一生涯忘れないでしょう。白衣のお姉さんに抱きしめられたときよりも、心がポカポカとしたのです。私はもうD-008じゃない、私としての名前を貰ってしまいました。


「……サ、フィ……ア……サフィア…………!」


 思っていたよりも嬉しいもので、無意識のうちに何度もくりかえしておりました。そんな私をお姉さんは嬉しそうに見ていたけれど、そんなのも気にならない程嬉しかったのです。


「ねぇ、サフィア」

「は、はい!」

「今度はサフィアが私に名前を頂戴。

 私達だけの、秘密の名前を」

「私達、だ……け、の……?」

「そう。御主人様には言えないからね……

 御主人様を始めとした彼等は所有物が管理番号以外の符号を持つなんて許さないからさ、絶対に言っちゃだめ。例えサフィアや私がここを離れて、新しい御主人様に買われることになったとしてもこの名前は言っちゃ駄目なんだよ」


 私の言葉に対し、お姉さんは寂しそうに微笑んだのです。そしてなにか思い詰めるような顔を見せた後、一呼吸置いてからゆっくりと話してくれました。


「……そ、そんなの……悲しい、です」


 お姉さんの想いが込められた言葉は悲しくて、胸が締め付けられるような気分さえしました。


「そうね、サフィア。

 だけどね……どんなに悲しくても、悔しくてもそれは変わらない事実なんだよ。だからこれは私達だけの秘密の名前。

 いつか本当の自由を手にして……誰かと愛し合えるようになった時に名乗る為のものだって、覚えていてほしいかな」

「わ、わかりました……お姉さんが、そ、そういうなら……サフィアは、し、従うの……で、す」

「……君は良い子だね、サフィア」

「そ、そんなこと……あ、る……の、かな……?」

「大丈夫、サフィアはいい子だよ。私が保証する」

「……そ──」


 ──そんなことはないのかも知れないけど、私自身はそう在りたいと願っていました。いつか、お母さんと呼べるような人に会えた時にいい子だと褒められたいから。


 そんなことはない、なんて言わないのです──


「……あ、あり……が、とう、なの……です」

「──なんだ、素直に言えるじゃん」

「へ?」

「なんでもないよ、サフィア。

 それとさ……その、私の名前……なんだけど──」

「ちゃ、ちゃんと……考え、てる、の……です、よ……お姉さん」

「──ほんとに!?」

「ぴゃっ!」  

「ご、ごめん……びっくりしちゃって大声だしちゃった」

「大丈夫、なの、で……その、名前、なの……です、が…………その。

 シオ……で、どう……で、しょう、か……?」


 ──その名はいつかの日、白衣のお姉さんから教わった話の主人公の真名マナ

 彼女は愛を識った被造物、その正体は竜のなり損ない。竜と人の境に立ち続けた旧き亜人種は、心優しい女性だったと聞いています。そんな彼女が立ち上げた竜灯教会りゅうとうきょうかいは、いかなる苦難にあっても他人を思いやる心を、優しさを失わない事を教えとしていました。


「シオ……?」

「え、えと、スペル……が、chiot……です」

「えーと、たしか仔犬って意味の単語だよね」

「は、はい……その、Humpty Dumpty……だ、った、かな……その、主人公と、おな、同じ……名前……なの」

「Humpty Dumpty……それってたしか、被造物と造物主のお話だったよね。いつ読んだの?」

「こ、ここに……白衣の、お、お姉さん、が……いた、頃に」

「すっご……サフィアは頭良いんだね。

 私はあんまりよく分かんなかったからさ、覚えてないんだ」

「そ、それ……は、白衣の、お、お姉さんの……おかげ、なのです。片角の、お姉さん……は、白衣の……お姉さん、を、知っているの、ですか?」

「……すっごい優しい天使様だったのを覚えてる。

 私さ、あんまり要領よくないからしょっちゅう叱られてたんだけど……いっつも庇ってくれたんだよ。子供には優しくしなきゃいけないって、施設長を怒ったりしてさ……だから私も、いつかそういう風になりたいなぁって思ってるんだ」


 そう言って笑うお姉さんは、少し照れ臭そうでした。


「お……お姉さんは、わた……私に、とっての……シオさん、なのです」

「……そっか」

「その、い、いや……でし、た……?」

「ううん。嫌じゃないよ……ただちょっと恐れ多いかなって」

「お、お姉さん……は、愛が……なんなのか、知って……ます、から……だ、大丈夫……なの、です」

「そういうものかなぁ……けどいいや!

 サフィアがそういうのなら、私はシオとして生きるよ。

 ……素敵な名前をありがとね、サフィア」

「……はい!」



 ──片角のお姉さんも私と似た境遇にあります。お姉さんは他の造竜のように竜の似姿はおろか、その力の一端さえ発現しなかった。発現したのは右側頭部に生えるうねり捻れた歪な角と、ちょっぴり丈夫な竜の左手。街の亜人と馴染めないお姉さんは亜人種になることすら叶わず、誰にも必要とされなかった売残りだと自嘲していました。

 そんな酷い境遇でもお姉さんは、私に優しくしてくれます。四六時中は一緒に居られないけど、こうしてご飯の時は時間の許す限り居てくれるのです。だから私はこんな場所にいても耐えられるんだと思います。







「……お姉さん、まだ……か、な……」


 ──あの日を境に、お姉さんは来なくなりました。

 お姉さんが来ないので食事はありません。右隣の牢に繋がれた人は、三日程前からピクリとも動かなくなりました。左隣の人は横になったまま、糞尿も垂れ流しで酷い悪臭を放っています。

 ……吐息ももう、私一人分しか聞こえません。

 お隣さんは旅立ってしまったのですから。


 痛いのも、暗いのも、寒いのも、慣れています。


 けど、寂しいのは初めてです。


 シオ姉さん、何処へいってしまったのですか。


 私は今、とても寂しいのです。


 ご飯よりも明りよりも。


 貴方の温もりが欲しいのです────



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