第41話.優しい天使様


 ──海の国・深層通・???──



 腐乱した卵、打ち上げられて腐敗の進んだ魚介類の臭気、形容可能なモノとそうでないモノ。じつに様々な悪臭が混ざって生まれた悪臭は、私の意識を覚醒させるには充分すぎるものであった。

「──っ、痛……!」

 覚醒直後に感じたのは左の肩口に走る疼くような痛み、次いで覚えたのは腹部の鈍痛。痛みに身をよじると、また別の場所から痛みが走った。

「っつ、ぁ……私……」

 ──そう。私はあの男に暴行された挙げ句、首筋の肉を食いちぎられて気絶した。あれはよくある破落戸ごろつきの暴力じゃない、人体を壊す類いの暴力だ。それでいて骨が一本も折られていないのが恐ろしかった。アイツの打撃は全てが内臓に届くモノ、つまり人体を効率的に壊すことも出来たのだ。普通、あれだけ深く腹を抉れる奴なんて居ない。多少痛め付けられていたとは言え、内臓を押しやる程の打撃を何度も味わうなんてそう無い筈だ。


 ──早く逃げなければ。


 しかし、何処へ逃げれば良いのだろうか。横たわったまま辺りを見回すが、灯りも無い為に全てが薄ぼんやりとしている。見えたとしても辛うじてシルエットがわかる程度でしかなく、現在私は四方を鉄格子で囲まれているという事しかわからなかった。そして向かい側にも牢らしきモノはあるが、その内情などをうかがい知る事は叶わない。牢の中心部になにかが横たわっている、というのがわかる程度でしかなかった。

 ……幸いな事に、現在私の両手足は何も繋がれていない。しかし全身の痛み故に力が入りにくく、普段の半分も力が入らない感覚だ。加えて傷の塞がりきっていない手足に力を入れようとすると、鈍く重い痛みが走る。それに加えて手酷く痛め付けられた腹が痛む。自力のみで立ち上がることすら怪しいので、鉄格子にまで這って近づき掴まりながら立ち上がる事にした。

「──うっ……ぐ」

 立ち上がった瞬間、視界が歪むほどの眩暈を感じそのまま崩れ落ちてしまう。もう一度立ち上がろうと鉄格子に手をかけた瞬間、誰かが階段を降りてくるような気配がした。


 この音はヒールだろうか、それとも軍靴か。なんにせよそれなりの身分をした者達なのだろう。それがこの国の治安維持部隊であればありがたいが、そうでなかった場合は腹を括るしかない。取れる手段など無いに等しいが、無抵抗でやられるのは許せなかった。

 ──眩しい。

 牢へ近付いてくるのは二つの人影。二人の掲げる照明は如何いかなるモノか、松明などとは比べ物にならないほどの光量である。

 目を閉じるか閉じないかギリギリの所まで目を細め、向かってくる人影を注視してみるが如何せん眩しすぎる。これではなにもわからないし、もしもこのまま襲われたら今度こそ殺されるだろう。

 ──それだけは絶対に嫌だ、拐われた娘を取り返すまで死ぬわけにはいかない。


「──驚いた、生存者か?」

 痛む体へ鞭を打ち、どうにかして立ち上がったのと声が上がったのは同時であった。突如として軽減した光量により、近付いてきた者の正体を知ることが出来たのだが……その予想外過ぎる者達の姿に言葉を失ってしまう。

「そこの女性、そこから動かないよう願います」

「……え、あ……はい」

 言うや否や、大柄な女性は鉄格子に手をかけいとも容易く引きちぎって見せたのだ。そうして人が通れる程度の大穴を開け、躊躇い無く近づいてきたのは二人の天使様だった。

「失礼、骨折や外傷性出血等はありませんか?」

「恐ら、く……は」

「──その人は見たところ、内臓系を手酷くやられている。ヘリヤ、貴女が彼女を背負っていきなさい」

 私の体に触れてきた天使様はヘリヤと言うらしい。牢から少し離れたところに立つのは彼女の上官だろうか……身長を除いて外見上の違いはないが、漂う雰囲気が少し違う。

「あっ、そんな……歩けます、から」

「貴女は負傷しているのですからお気になさらず」

 上官らしき天使様に気を取られていると、非常に慣れた手つきで私はヘリヤに抱えあげられていた。俗に言うお姫様抱っこの姿勢で抱えられており、妙な気恥ずかしさを覚える。

「あの、本当に大丈夫ですので……下ろして、いただけると……」

「掴まり立ちすらも満足に出来ない様でしたが?」

「あ、あれは……その……」

 返答に詰まる私を無視してヘリヤは涼しい顔のまま、私を抱え牢の外へと出る。彼女はそこで一度私を下ろすと、自身が着ていた上着を脱ぎ私の肩に羽織らせてくれた。

「今はこれで我慢してください、後で衣類は見繕わせて頂きますから」

「そ、そこまでしてくださらなくても大丈夫ですから……それにこの外套、折角ですが汚してしまっては申し訳ないのでお返し致したいのですが……」

「そんな事は気になさらず。貴女のような人をこんな姿にしておく方が問題になりますから」

 上着を返そうとしても天使様は受け取ってくださらずに優しい笑みを返すばかりで、どうしたものかと思っていると再び抱えあげられてしまった。

「ひゃっ!? 」

「すみません、今はこうする他ないので我慢してください。

 ──それと、道中は目をつむることをお薦め致します」

 見上げたヘリヤはニッコリと笑顔を浮かべたままで、此方が目を瞑ると彼女が歩きだした感覚があった。そうして階段を登りきった後、多量の水気を含んだモノを踏み潰したような、生理的嫌悪感を覚える音を何度も聞くようになった。それが一体なんなのか、どうしても気になり目を開けたことを私は後悔することになる。


「──なんなんですか、ここ」

「おや、見てしまわれましたか」

 少しだけ残念そうな表情をしたがその歩みに迷いはない。先導するようにして歩く上官らしき小柄な天使様も同様で、その道行きを塞ぐようにして現れたソレらを一刀の元に両断していく。


 ──天使様達に踏みつけられ、切り捨てられるソレらは形容し難い肉塊だった。


 その皮膚は溶け落ちたのか、それとも初めから存在していないのか。蠢く肉塊はまるまると肥え太った芋虫めいており、ぶよぶよと肉を震わせながら這いずっていた。かと思えば、崩れかけた手足を伸ばし呻きながら這い寄る人らしきものも居る。だがそれは人ではない。首から先が百足のようになっており、一つの首から五、六本の頭が生えている。感覚器官に不具合があるのか、それとも多頭によってなんらかの弊害が起きているのかは解らない。しかし彼方から襲ってくる様子はなかった。

「ここがなんなのかは不明ですよ。地上二階、地下二階建ての建築物と言うことはわかりましたが……何故か地下一階にのみこのような異形が蔓延っています。外に出る様子もなく地下にも降りず、これ等が一体なんなのかはわかりません。

 ……そんな場所に居たのが貴女です。貴女を此処へ連れて来た者に覚えはありませんか?」

「大柄で、黒髪の牛型亜人種ヴォヴィーノだった筈です」

牛型亜人種ヴォヴィーノですか、ありがとうございます」


 ──それきり会話をすることはなく、私達は地上へと通じる階段に着いた。ここにはいくらかの日光が射し込んでおり、その近くには虫達が近付く様子はない。この虫達はどうも日光が苦手なようだ。

 階段を上がり外へ出ると、太陽はだいぶ傾き地平線の向こうへと消えかけていた。ヘリヤは私を下ろすと、先行していた小柄な天使と共に重厚な鉄扉を閉じる作業へと移る。あまり手入れがされていないのか、閉じている間中ずっと鉄扉からは擦れて軋む音が響いていた。そうして閉じきった鉄扉の取っ手に鎖と鍵を取り付けた二人が此方へと向き直る。


「──さて、自己紹介がまだでしたね。

 小官はヘリヤ。“人形兵ゾルダート”の一員であり、ヴラグ天使長の部下となります。以後お見知りおきを」

「本官はヴラグ、人形兵ゾルダートおさを勤めています。

 現在はここ海の国を担当していますので、有事の際には迷わずにご相談を」

「……私は紫蘭と申します、先日この国に来たばかりの者でして……この度は助けて頂いき、誠に有難うございます」

「気にすることはありませんよ、紫蘭さん。亜人種を守ることも私達の使命ですからね」

「ええ、貴殿方あなたがた亜人種アドヴァンスは共に戦う仲間ですから」


 ──二人は笑顔の筈なのに、笑っているとは思えなかった。

 外見上はちゃんと笑っている、その筈なのにどうしてもそうは思えない。あの軟らかな人好きのしそうな笑顔も、口調も全てが偽物臭いと言うか……作り物のような感じがしてしまう。

 違和感があると言えばもう一つ、なぜ彼女らはこんなにも感情表現が豊かなのだろうか。私達の知る天使様は基本的に笑わないし、泣きもしない冷酷無悲な人形のような存在なのだ。それこそ感情がないと言ってもいいくらい、天使様というものは表情を崩さないものだった。

 ……だから天使様達の言動に違和感を感じてしまったのだろうか。もしそうなのだとしたら、非常に申し訳ない思い違いをしてしまったことになる。


「──簡素ながら自己紹介も終えたところですし、移動しましょうか。ヘリヤ、運転を頼んでも?」

「はい、お任せ下さい。

 それでは紫蘭さん、此方へどうぞ……紫瀾さん?」

 思うよりも深く考え込んでいたらしい、彼女から二度も呼び掛けられるまで気付くことが出来なかった。

「──っ、すみません。少しぼうっとしてしまって」

「……紫蘭さんは一度ゆっくり休まれた方が良さそうね。本部へ戻ったら部屋を用意いたしましょう」

 促されるまま付いていくと一台の車両へ案内された。ヘリヤが後部座席のドアを開けるとヴラドが乗り込み、それを確認した後に扉が閉められる。

「紫蘭さんはこちら、助手席へ願います」

「有難うございます……し、失礼します」

 車内は思ったよりも狭く、注意しないと頭をぶつけてしまいそうだった。それはヘリヤも同じらしく、身をかがめて首を下げてようやくといった具合である。

「紫蘭さん、シートベルトを締めてください。左側の後ろに金具がありますので、それを引っ張って右側の金具へ引っ掻けてください」

「こう、ですか?」

「はい、大丈夫です。

 それでは出発致しますね」

 ヘリヤが手元の鍵を回すと一瞬だけ強く車体が揺れたが、それはすぐに小気味良いリズムに代わりゆっくりと前へ進み始めた。




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