第10話 アルプトラゥム.1



「……ふぁ……あ」

 幼さの残る眠た気な声が静かな館内に響き、それと共に一つの光が灯った。淡く輝きを放つ綺麗な環状の発光帯が、娘の頭上に浮かんでいる。さっきまではなかった筈のもの、本来ならあってはならないものがそこにあった。

「あ、あの……リブラさん、これって?」

 寝惚けているのか、緩慢な動作で瞼をこすり欠伸を繰り返す娘を起こさぬよう慎重に彼女へと視線を向ける。

「お伝えしたでしょう、私達手製の器を与えたと」

 彼女は目立った反応も見せず、淡々と言葉を返すだけ。あまりにも事務的な反応に私の方がおかしいのかと一瞬迷ってしまったが、そんな事はない。頭上に輝く環状発光帯リングを見れば誰だって同じように慌てふためく筈だ。

「これは、天使様の身体……?」

「その通りですよ、幾つかの権能は欠けていますがその内取り戻せるでしょう」

 本当にあっさりと肯定してくれるものだと内心呆れつつ視線を娘へと戻すと、眠た気な目で此方を見上げる娘と目があった。

「おかあ、さん……?」

「……紫?」

「お母さん、お母さんだ!」

 涙を浮かべ娘は思いっきり抱きついてきた。軽い衝撃を感じつつ娘を抱き締め返すと、娘の頭上にある環状発光帯リングは一際強い輝きを放った。

「あのお姉さんの言うことは本当だったんだ、よかった……よかった!」

 泣きながら私の胸に顔を埋め、強く抱きつく娘を優しく抱き返し頭を撫でる。リブラへと一瞥くれてみたが特にこれといった動きはなく、彼女は椅子にかけたまま一冊の本を手に取っていた。どうやら話すことはないと言う事らしい、私は娘を優しく引き離し一つの疑問を投げかける。

「ねぇ紫、あのお姉さんって誰の事?」

「リブラっていう人だよ、背が大きくて、長い銀髪の綺麗なお姉さんで……あの人だ!」

 話半ばで受付の彼女に気づいた娘は私から離れると、真っ直ぐに受付へと走っていった。そして彼女の目の前に立つと、頭を下げて「さっきはありがとう、リブラお姉さん」と言っている。彼女も彼女で軽く微笑みながら「どういたしまして」なんて返していた。まるでご近所さんとのやり取りを見ているような気分だが、そんな事はない。私は此処で目覚めて初めて出会ったわけだし、あの狭い村で見知らぬ顔がいるという事は基本的にあり得ない。かと言って娘が一人で此処へ来ていたなんて事はあり得ないだろう。

 逡巡する私を他所に二人は会話を続ける。

「ゆかり様、身体の具合は如何ですか。

 走られていたようですが、咳が出る兆候などは出ていませんね?」

「うん、大丈夫だよ!

 本当にありがとうリブラお姉さん」

 リブラは椅子を離れ、わざわざ屈んで娘に目線を合わせていた。娘も娘で彼女に触られることを嫌がる様子もないし、彼女の言う通り走っていたのに息が上がっていない。今までの娘なら絶対にあり得ない事だった。知らないこと、わからない事が立て続けに起こるこの現状に、私は軽い眩暈を起こしかけていた。正直な話、考えるのをやめて起きている現状を受け入れた方が楽なのではないかとさえ思う。

「あれ、このわっかって……」

 近くにあった姿見鏡に写った自分を見て、娘は不思議そうに見詰めていた。

「天使さま?」

 後ろを振り返り、数度瞬きをした後に再び振り返る娘。それはまるで、自分の後ろにぴったりと天使様が張り付いて隠れているとでも思っているような動きだ。

 しかしそれが間違いだと気付くのにそう時間はかからなかったらしい、姿見鏡に写った自らの背中を見てからは大人しくなっている。

「お姉さん。丈夫な身体って、このことなの?」

 姿見鏡に写った自分と見詰め合いながら彼女へ問う娘。

「はい、その身体なら貴女の夢を叶えることも容易でしょう?」

 彼女の言葉を聞いた途端、娘は満面の笑みを浮かべ此方へと駆け寄り飛び付いてきた。

「凄い、凄いや……!

 見てよお母さん、私天使様になっちゃった!」

 向けられた眩しい程の笑顔に、頬を涙が伝った。

「……お母さん、どうして泣いてるの?」

 覗き込むように此方を見詰める娘、その顔に浮かぶのは不安の色。

「いや、その……ゆかりが元気なのが嬉しくてね」

「嬉しいのに泣くなんて変なの」

 くすりと笑う娘につられ、此方の頬も緩んでしまった。紫の言うとおり、泣き笑いなんて確かに変だ。変わらず涙は止まらないけれど、笑うのも止められなかった。それを見てか、娘も吹き出すようにして笑い始める。

「お母さん、とっても変な顔してる。

 リブラお姉さんも見て、とっても変なんだから!」

「ふふふ、確かに変な顔ですね。

 泣きながら笑うなんて、中々に器用な御方です」

「意図してやってる訳じゃないんです……けど、何ででしょう。どっちも止まらなくて」



 それから暫く笑い合い、お互い落ち着いた所でリブラが質問をしてきた。

「ところで紫蘭様、今後は何処を拠点になさるおつもりで?」

「一先ずは村に戻って、それから考えようと思っています。それに村の皆さんの無事も確認しておきたいので」

 役場から自宅へ駆けたあの日の光景が脳裏を過る。燃え盛る家々と逃げ惑う人、抵抗することすら敵わずに食い殺される人、千切られ肉片となった誰か。魔物の咆哮、人々の悲鳴と怒号が織り成す和音ハーモニーは当分忘れられないだろう。

 死が身近にある世界にあって、他人の死に慣れることはあっても忘れることはないのだ。

「失礼ながらご意見を。

 貴女方はあれだけの重症を負っていた、つまり貴女達の村は相当な規模の魔物に襲われたのではありませんか?」

 確かに彼女の言うとおり、普段見かける群れとは比べ物にならない規模の群れだった気がする。魔物の活動が活発になる新月の夜でないにも関わらず、あれだけの数の魔物に襲われたのは初めてだった。

 そして私の家にあれだけの数の魔物が殺到していたということは、もっと多くの魔物が侵攻していた可能性が高い。

「もし、そうであるならば──……」

「だとしても私は戻りますよ、娘と一緒に」

 例え、全滅していたとしてもそれを受け止めて進むしかない。娘には悲しい思いをさせてしまうかもしれないけれど、これはいつか味わう事になるかもしれない悲しみなのだ。酷かもしれないけれど、娘にはちゃんと向き合って貰いたい。

「わかりました。

 それと道中、丸腰では不安でしょう。よろしければ此方をお使いください」

 軽い溜め息を吐くと、彼女は受付の下から紐で括られた地図と刃渡り40cm程度の短剣を差し出してきた。差し出されたそれを手に取り、短剣を鞘から抜いてみる。

 やや肉厚な両刃の短剣は磨き上げられており、此方の顔が写るほどだった。柄も握りやすいようにやや湾曲しており、鞣された獣の革で滑らないように加工されている。流通している武器の中ではそれなりに上質な部類に入るような代物だ。

「……いいんですか?」

「構いませんよ、数ある複製品の一つですから」

 彼女が指を鳴らすと、全く同じ短剣が机の上に姿を表す。全く出鱈目も良いところだと改めて思いつつ、手にしたそれを腰へと吊り下げお礼を伝える。

「ゆかりにはないの?」

 それを見ていた娘が私の服の裾を引っ張りながら聞いてきた。正直、今の娘に持たせたくはない。幾らか練習した事があるのなら持たせてもよかったが、娘は刃物を扱ったことの無いド素人なのだ。素人が振るう剣ほど危ないものはない。

 やんわりと断ろうとした丁度その時、彼女がとんでもない一言を放つ。

「ゆかり様には既に与えておりますよ、その身体の一部としてね」









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