第9話 Out Of player Artificial .

 時は遡り、紫蘭がリブラと対話する前に戻る。




 ────見馴れた天井。


 何時も寝ていたベッドで私は目を覚ました。枕元には一冊の絵本、これは昨晩お母さんに読んでもらった物だ。ページの端が折れていたり、手垢がついて変色している所もある絵本。表題タイトル向日葵丘ソレイユの魔王、私の一番のお気に入り。

「……お母さん?」

 何時もなら傍らで眠っている筈のお母さんが居なかった、それになんの音もしない。シンと静まり返った家が急に恐ろしくなって、無意識の内に大好きな絵本を胸に抱いていた。

「お母さん……どこ?」

 本を抱いたままベッドから降りて台所に向かってみたけれど、やっぱりお母さんは居ない。当然リビングにも居ない、外からは鳥の鳴き声も聞こえない。あるのは私の息遣いで、その他にはなにもない静寂な空間。

 どうしてなんの音もしないのか、お母さんはどこへ行ってしまったのか。何時も声を必ずかけてくれるお母さんが、書き置きも無しに何処かへ行ってしまうなんて事は一度だってなかったのに。


 もしかしてお母さんに何かあったのかも知れない、そう思うと不安で胸が苦しくなる。次第に息が乱れて、何時もの嫌な咳が出てきてしまった。

「けほっ、けほ……おかあ、さん……けほっ」

 苦しい、けど背中は擦って貰えない。数回、たった数回咳き込むだけで私の身体は動くことすら出来なくなってしまう。

 発作が起きる度、どうしてこんな身体なんだろうと思う。こんな身体じゃなければお母さんのお手伝いも出来るのに、お母さんもお休み出来るのに私のせいでお母さんは中々休めない。


 ──お願い。早く、早く静まって。


「おかあ、さん……けほっ、けほっ」

 うずくまって咳き込んでいると突然、優しく背中を擦られる感覚がした。それはお母さんのものよりも軽くて優しい擦り方なのに、不思議と咳はすんなり静まってくれた。

「治まりましたね、立てますか?」

 優しい声と共に差し出された手をゆっくりと握り返し、立ち上がる。目の前にいたのはとても大きなお姉さん、しゃがんでいても私より頭二つ分は大きいかもしれない。もしかすると、お母さんよりも少し大きい?

「ありがとう、お姉さん」

「どういたしまして、小さな御嬢様フロイライン

 微笑むお姉さんはとても綺麗なのに、何処か造り物みたいで少し怖かった。絹のような細くてしなやかな銀髪も、長い睫毛も切れ長の瞳も、シミ一つない真っ白なお肌も全部綺麗なのに、怖いと思うのはどうしてだろう。そもそもこのお姉さんは誰なのかな、村にこんな綺麗な人は居たっけ?

「あの、お姉さんは誰ですか?」

「私はリブラ、と言います。

 小さなお嬢さん、貴女のお名前をお伺いしても?」

「私の名前はゆかりって言います、リブラお姉さん」

「良いお名前ですね」

「ありがとう、お姉さん」

 自然な感じはするのにやっぱりどこかおかしい。そもそもなんでこの人は家にいるんだろうか、お母さんもセレネお姉さんもメネお姉さんも見知った人は誰も居ないのに。

「お姉さんは、どこから来たの?」

「私が来たのではありません、貴女が来たのですよ」

 お姉さんは何を言っているんだろう、ここは紫とお母さんのお家なのに。もしかして、昔ここに住んでいた人だったりするのかな。

「お姉さんは昔、ここに住んでいた人なの?」

「いいえ、違いますよ。

 紫様、一緒に外へ出ましょう。説明するよりも見ていただいた方が分かりやすいでしょうから」

 そう言ってお姉さんは手を差し出してきたけれど、手を取るべきでは無いような気がする。何だか見ちゃいけないものを見せられてしまうような予感があって、本を強く握り締めたまま動けなくなっていた。

「紫様?」

 屈んで手を差し出した姿勢のまま、お姉さんは不思議そうに私を見ていた。

「ねぇお姉さん、ここは何処なの?」

「ここは彼岸と此岸の狭間。何処でもあって何処でもない場所ですよ」

 ヒガンとシガン、たしかセレネお姉さんが昔読んでくれたお話にあった気がする。あれはたしか、死んじゃったお嫁さんに会いたくてヨミノクニに行った人のお話だった。じゃあもしかしてここは、ここは──……

「もしかして、私は死んじゃったの?」

 直感的に浮かんだ考えが口をついたけど、お姉さんはなにも答えてくれない。屈んで手を差しのべた姿勢のまま私を見詰めているだけだった。

「お姉さん、私は……死んだの?

 お母さんも、死んじゃっ……っ……けほっ、けほっ……!」

 頭痛を伴いフラッシュバックした記憶、それと共に嫌な咳が出てきた。落ち着いて、パニックにならないようにしないともっと咳が出ちゃう。それだけは駄目、駄目なのに胸が苦しくて耐えられない。我慢が出来ない、咳が止まる気がしない。怖いの、苦しいの、お母さん。

「ぅ……けほっ……こほっ、ごほっ……げほっ」

 激しく咳き込んでいると、お姉さんは再び背を擦ってくれた。けどここまで酷い咳が出ているときは駄目、こうなってしまうと中々治まってくれないのを私は知ってる。

「げほっ……う、く……げほっ……ごほっ」

「どうか落ち着いて、心を静めて下さい」

 思った通り咳は止まってくれない、擦ってくれているけど、その程度じゃ治まらない。落ち着けば治まってくれるのはわかっているけど、わかってるけど無理だよお姉さん。私は、思い出しちゃったから。あの日、私が死んじゃった事もお母さんが殺されたのも全部思い出しちゃったんだ。

「私、げほっ……死ん、じゃ……げほっ……!

 お母……さんも……ごほっ、けほっ」

 激しく咳き込んでいると、リブラお姉さんに強く抱き締められた。

「ここに居る間、貴女は守られています。だからどうか落ち着いて、ゆっくり息をしましょう。あの日のように、貴女を脅かす存在はここに現れることはないのですから」

「……で、も……げほっ、けほっ……ごほっ」

「大丈夫、大丈夫ですよ。私がここに居ます」

 そう言ってお姉さんは、お母さんがしてくれたように、優しく背中を擦りながら辛抱強く抱いてくれた。






「──落ち着きましたか?」

「うん……ありがとう、お姉さん」

 まだ少しだけ息が苦しいけど、嫌な咳は止まってくれた。ぶり返すような気配も今のところはないけど、安心は出来ないのが私の身体なんだ。

「紫様、あのような発作はよく起きるのですか?」

「……ここまで酷いのは、あんまりないかな。いつもはちょっと咳が続くくらい」

「治療などはされていたのですか?」

「セレネお姉さんの薬を飲んでたの、ちょっと苦いけど……頑張って毎日飲んだよ」

 セレネお姉さんのお薬は粉末状でとっても飲みにくかった事を思い出していると、お姉さんは私を抱き寄せ優しく頭を撫で始めました。

「よく、頑張りました」

 頭を撫でられるなんて久しぶりで、少しくすぐったいけど心地良い。暫く身体を預け頭を撫でられていると、不意にお姉さんがその手を止めた。

「貴女は、あの世界が好きでしたか?」

 世界が好きか、なんて突然聞かれてもよくわかんないけど、聞かれたことには答えなきゃ。

「……よくわかんないけど、多分好き。魔物は怖かったし色々と嫌なこともあったけどお母さんが居たもの、それにセレネお姉さんやメネお姉さんも居たんだ。お外で遊べないのはつまらなかったけど、色んな本が読めたからいいんだ」

「そう、ですか……ふむ」

 お姉さんは私を抱いたまま固まっている。向けられた優しい眼差しの中に、どこか嫌なものを感じたのは私の勘違いだろうか。

「紫様、貴女にはやり残した事、やりたかったことはなかったのですか?」

「うん……やりたかった事なら、あるよ」

「それを、お聞かせ願えますか」

「私ね、自分で世界を見てみたかったの。

 お母さんと一緒にこの世界を見てみたかった、私の知ってる世界は、本やお話の世界だけだから……自分の目で、足で、身体で世界を感じたかったんだ。夢物語じゃない、本当の世界に生きたかったの」

 そう、私は殆んど家から出たことがない。家の中を歩くだけで息が切れてしまう事が多くて、外を歩こうものなら役場へ行く前に発作を起こしてしまう。だから私の記憶にあるものは、その大多数が家の中での出来事なんだ。

 私の答えを聞いてから暫く、お姉さんは静かに一点を見詰めていた。お姉さんが話を再開したのは、私が答えてから大分経ってからだったかな。

「……紫様、私は貴女に丈夫な身体を与えた上でお母さんの元へ帰す事ができます」

 お姉さんの口から飛び出した信じられない一言に心臓が跳ね上がった気がした。逸る気持ちを抑え、お姉さんを見上げる。

「そ……それは、本当なの?」

「はい、それ相応の対価は必要となりますが」

 お姉さんの言葉に私は一瞬息詰まり、反射的に目を背け俯いていた。

「──……そう、だよね」

「そう悲しい顔をしないで下さい、対価といっても難しい事ではないのですから」

 そっと抱き締めつつかけられた優しい言葉。お母さんとは違う声なのに、どこかお母さんを思わせる雰囲気がお姉さんにはあった。

「私が貴女に求めるのは、この世界の情報……どんな生き物がいて、どんな人達がどんな生活をしているのかを見せて欲しいのです。

 そして、貴女がその世界でどんな生き方をするのか、それを教えて頂きたい」

「リブラお姉さん、それが対価なの?」

 反射的に聞いてしまった。だってそれは私のやりたい事と殆んど同じ、そんな事が対価として認められるのは都合が良すぎると思う。

 けれどお姉さんがそれを否定する事はなかった、優しい笑みを浮かべたまま私を抱いている。

「ただそれだけ、その程度のささやかなお願い事が貴女への奇跡の対価です。

 これを聞いても、貴女は悲しい顔を見せるのですか?」

「……ううん、そんな事しないよ。

 ありがとう、お姉さん」

 私に出来る最大の笑顔と共に答えると、お姉さんも満足そうに笑っていた。

「どういたしまして」

 お姉さんは私を膝の上から下ろすと、真っ直ぐに玄関を指差して言葉を続けた。

「そこを出れば、全てが始まります」

「始まり?」

「そう、貴女は貴女の運命を自分で歩む事になる。貴女の全ては、ここから始まっていくのです」

「わかった……紫、頑張るよ。

 リブラお姉さん、色々とありがとう」

 お姉さんに別れを告げて、私は玄関を開けた。












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