第31話.淵より這う



 彼女の答えに、頭の中が真っ白になった。


「そん……な……」

 ──ならばあの声はなんだ、あの唄は誰が唄っていた。私が唄う前に聞こえたあの旋律は誰が奏でたというの?

 彼女の答えによって祓われる筈だった不安は勢いを増し、私の胸を容赦なく食い荒らす。先程見聞きしたものは全てが幻、私の頭が作り出した虚像に過ぎなかったというのか。ならあれをどう説明したらいい、紅い月と一直線に並んだ恒星なんてあり得ない光景だ。

 そんなもの、ただの一度たりとも見た事はない。ある筈のない光景になぜ、正しさを感じてしまったのだろう。私の身に何が起きている、どうしてこのような身に覚えの無い記憶があるんだ。


 不安と恐怖に呑まれ始めた瞬間、彼女が私の手を取り真剣な眼差しを向けてきた。

「──……お義姉さま。一つ確認させて頂きたいのです。私達、深淵狗ハウンダビスが唄わない事も……もしや、お忘れになられているのですか?」

「唄わないって……どういう、こと」

 私の答えに目前の彼女は残念そうに視線を落とし、私の手を離すと再び自身の首にかけた十字架を握り直す。そうして二、三深呼吸を繰り返すと、彼女は再び話を始めた。


「──……私達が呪われているからですよ、お義姉さま。

 貴方も私も、深淵狗は等しくその全てが呪われております。私達の唄う声は美しく、その旋律は人の心を掴んで離さないと評判ですが……悲しいことに呪われた私達の唄もまた、呪いだったのです。

 ある者は在る筈のない星を目にし、またある者は死者と会話するようになった。そして存在しない者の声を聞き、その心を壊す者も出る始末。

 それらは如何いかなる手段を以てしても治ることはなく、生涯その症状と共にあったとされます。

 だから私達は想いを込めて唄わない、想いを込めて奏でることを止めました……

 だからどうかお願いです、お義姉さま。もう二度と唄わないで頂きたいのです。鍵もなく唄われては、いくら深淵狗わたしたちとて耐えられませんから」

 そう言って寂し気な微笑みを見せると、彼女はその場から離れ礼拝堂へとその姿を消してしまった。聞きたいことは沢山あるのに追いかける気持ちになれない、それに今の精神状態で話を聞いてもきっと理解出来ないだろう。




 疲れた身体を休めようと仮眠室へ入ると、そこにはソフィが座っていた。

「あぁ、紫蘭か。こんな遅くにどうした?」

「少し休もうと思って……それよりどうしたんですか、絵本ばかりをそんなに沢山」

「ちょっと気になることがあってさ。

 これなんか特に気になってるんだ」

 そう言って彼女は側に積み上げた絵本の中から一冊の本を選び出し手渡してきた。手渡されたそれは、子供から不人気ぶっちぎりのナンバーワンと言われる絵本。一度しか読んだことのないそれを受け取り、特に何も考えずに数ページだけめくる。可愛らしいタッチで描かれているものの、内容は暗く沈むような重さがある。

 これは雪のように白く淡い髪色の女、ナラカが世界を滅ぼすお伽話なのだ。その内容はとてもあやふやでなぜ彼女が世界を滅ぼそうとしたのか、彼女がどうなったのかについては言及されていない。虐げられて育った彼女が亡国ヴァナガンで、祖となる神と共に魔素を広め世界を滅ぼそうとする所で終わりを迎える。

 ……余談だが、ナラカの容姿は私に非常に良く似ている。それこそ生き写しとさえ言われる程であり、それが原因で嫌な思いをしたことはそれなりにあった。もしもこれで私に角がなければ、ナラカの再来だと噂になっただろう。


「……どうしてこんな本を?」

「ナラカについて気になることがあったから。まぁ厄災の母なんていわれるくらいだから、まともな資料なんてなくてね」

「けど、ナラカは創作上の人物でしょう?」

「そういうことにされてるけどね……次はこれを見てくれ」

 言葉と共に彼女へ本を返すと、今度は別の書籍を手渡してきた。先程の絵本など比べ物にならない程に分厚いそれはタイトルの刻まれていない一冊のノート。付箋やらはみ出たメモ書きがびっしりと詰まったそれを手に取ると、見た目通りの重さを感じた。

「これは?」

「僕が個人的な資料をまとめたものだよ。スクラップブックと言えばわかるかな……それで見て貰いたい所があってね。そこ、ちょっと長めの赤い附箋がついてるところだ」

「えっと……これ?」

「そうそう、そのページ」

 指定されたページを捲ると、そこには古ぼけた絵のようなものが貼り付けられていた。昔は鮮やかな色味をしていたのだろうが、長い年月を経てかなり傷んでいるらしい。色は失われセピア色になっている。


「そこに古い写真が一枚貼ってあるだろう?

 かなり傷んでしまっているが、そこに写っているのが亡国ヴァナガンだ。ナラカが滅ぼし、大崩落フォール・ダウンの爆心地となった場所。今はたしか禁域指定されているんだっけ?」

「そう、ですけど……どうしてこんなものが」

「悪いけど出所でどころは秘密。それでその写真なんだけど、真ん中よりやや右下をよく見て欲しい」

 指示された場所には巨大な蛇のような物体が写っており、その脇に一人の女性が写っている。残念な事に色は褪せていたが、シルエットからそれが女性であることは理解できた。

「まさか、これが……?」

「そう、そこに写っているのがナラカだ。

 そのページの裏も見てくれ。彼女をもっと鮮明に写した物がある」

 ページを捲り、その写真を見た瞬間に全身が凍り付いた気がした。どうか嘘であってくれ、悪戯であって欲しいと願い彼女へ視線を向けるが彼女はなにも言わず真っ直ぐに此方を見据えるばかり。再び写真へと視線を戻すも、そこに写る顔は変わらない。


 雪のような白髪に薄い藤色の瞳、耳の辺りから生えた捻れ角は血のように赤い。髪型こそ違えどそれ以外は瓜二つ、まるで鏡に写った自分を見ているような気さえする程に酷似した顔。



 ──それが厄災の母、ナラカの顔であった。



「……紫蘭。彼女は創作物なんかじゃない、実在した人物だ」

 その言葉に心臓が跳ねるような気がした。次第に呼吸は浅く短くなっていき、苦しさを覚えるほどになるまで時間はかからなかった。早鐘を打つ心音は、スクラップブックが私の手から離れ床に落ちる音さえ掻き消す程。

 ──それも良くなかったんだと思う、お母さんを独りにするべきじゃなかった。狩りを続けるのではなく、出来るだけ側にいるべきだったのだ。

 なのにそうしなかった、向き合わずに逃げることを選択した。だからあの日の出来事は、そんな私への罰だったんだろう──


 その最中、突飛な頭痛と共に脳内で響く誰かの声。不思議な事にそれは他の音とは違い、煩い心音の中にあっても鮮明に聞こえた。


 ──私は、お母さんの為に何もしなかった。

 狩りを続けて私の価値を示したって、救われるのは私だけだ。お母さんが救われないと気付いていたのに、私は私を欺き続けた──


 ふらつく程の強い頭痛が私を襲い、共に聞こえた声は……私の声。けどこんな記憶はない。私は狩人じゃないのに、どうして懐かしく感じるの?


 ──この惨状を産み出したのは、自分。

 左手に握られた儀礼剣が、臓物と屍の海にただ一人立つ私を元凶だと告げている。間欠泉にも等しい勢いで沸き出た感情と思考が、容赦なく覚醒したばかりの意識を叩きのめす。膝を着くのが先だったか、胃の中身を吐き出したのが先なのかはわからない。兎も角私はその場に崩れ落ち、沸き立つそれらを吐き出すように吐き続けた。

 ひとしきり吐き終えて、惨状を目にして再び吐いた。

 それを繰り返すこと数度、痙攣し続ける胃の痛みを堪えながらなんとか立ち上がり生き残りが居ないか必死になって探した。


 ……だけどそんなものはなかった。


 瓦礫、首無し死体、砕けた水瓶、千切れた右腕、散らばった干しかけの魚、あり得ない方向に折れ曲がった手足、ぶちまけられた脳漿────遺されていたのはこれでもかと言う破壊の爪痕、散らされた命の残骸──


 稲妻のように駆けた痛みと共に、脳裏を過った鮮明な映像はどれも凄惨の一言に尽きる。血と肉と臓物、飛び出た骨や眼球の色に染められた死の海がその全て。けど、不思議と嫌悪感はなかった。


 ──── ”殺せぇ!”


 ”穢らわしい罪人の娘だ、罪を犯す前に殺せぇ!“

 ”血を絶やせ!!“

 ”殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ───“


 五月蝿い、お前らに責める権利はあるのか?

 なにもしていない娘を裁こうとするなんて気が狂ってる、罪のない子供を殺せと叫ぶお前らの方が可笑しいじゃないか!──────


 姿も何もないのに声だけが聞こえる。

 これは……一人が大勢から責められているのだろうか。それに対する彼女の想いは間違っていない、あの叫びは、あの怒りはきっと正しい。


 ──まだ罪を犯していない存在に罰を与えることが許されるのなら、地上に生きるすべての人間ひとが裁かれるべきだ……──


「──紫蘭、呑まれるな。戻ってこい」

 声と共に肩を掴まれ軽く揺すられる感覚と共に、脳裏を過った映像と声が途切れた。

 未だ心音は煩く、息苦しさも覚えているがあの声はもう聞こえない。先程まであった頭蓋を殴るような痛みも嘘のように消えている。

「ソフィ、さん……私……」

「──紫蘭、お前は何を見た?」

 彼女は真っ直ぐ射抜くような視線のまま、薄く研ぎ澄まされた刃を思わせる声で聞いてきた。それに対して私が覚えている限りの事を伝えると、彼女は私の肩から手を離し深く考え込んでしまう。

 それから数分後、彼女は席へ着き私にも座るよう指示してきた。

「……この際だ、一つ確認させて欲しい。

 君はナラカの話をどこまで知っている?」

 先程同様、神妙な面持ちのまま彼女が質問してくる。ナラカについて知っている事は絵本のみであり、他については殆ど知らない事を伝えた。


「そうか、答えてくれてありがとう。

 お礼に絵本の結末とは違う、本当の終わりを教えてあげるよ」

「本当の、終わり……?」

「そう、これは深淵狗の生き残りであるミァンから聞いた話だ」

 彼女は懐から一冊の小さな手帳を取り出すと、私の目の前に差し出してきた。差し出されたそれは長年使い込まれたのか酷く傷んでおり、少しでも乱雑に扱えばあっという間もなくバラバラになるだろう。

「知っての通り、絵本においてナラカは祖となる神を降ろしその力を持って国を滅ぼした。

 ……けれど実際は違う。治法国家であるヴァナガンが亡国へと落ちたその日、唯一の生存者であったミァンが見たものは変質した同胞の姿だった。

 娘の亡骸を、幼い我が子の首を手にした彼女を紫煙が包み込みその足元から一匹の海龍が顕れた。それが凡そ生物らしからぬ声で啼くと同時に、くらい闇のような液体が吹き出し国を呑んだという。よどみ腐った海の死臭においと共に国を呑んだ液体は、瞬く間に生者死者問わず国内に在った全ての命を等しく飲み込んだ。

 そして底の見えない大海原と化したヴァナガンから魔素が溢れ、世界を覆っていったんだ。


 ──……これこそが大崩落の始まり。


 そこからは君らの知る通りだ。魔素により全人口の3分の2が死滅し、残された者達は二分された。一方は空へ、もう一方は地球に残り魔素と戦い続け今の亜人種を産み出した。それから暫くして虚空から現れた侵略者と終わりのない戦争を続け、今に至ると言うわけだ」




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