第30話.内海に潜む


 あれから数日、未だ私は彼女が去り際に残した言葉の意味を処理出来ずにいた。どうしても気になるので何度か隙をみて、彼女の真意を探ろうとしてはみたものの目立った成果はあげられずにいる。ただ厄介なのは、頭を悩ませているものがそれだけでは無いと言うことだ。


 正直、今現在最も頭を悩ませていると言っても良い。その悩みと言うのは他ならぬエーギルについてであり、悩みの種は彼女と会話が成立しないという事である。

 ややこしい事に彼女から自発的に説明するのであれば全く問題はなく、簡単な質疑には正しく答えてくれる。しかし此方から話しかけた場合は別、そもそも会話にすら発展しないことが多々あるのだ。

 声をかけても彼女は微笑み返すのみで、そのまま何処かへ去ってしまう。珍しく本を読んでいるのかと思えば上下逆さまだったり、とにかく奇行が目立つ。そして上手く会話に発展したとしても、会話の表現が曖昧で抽象的な為に真意を汲み取ることは難しい。


 今現在もそう、彼女は教会の中庭で空を見上げて両手を合わせている。けれど祈るような姿勢でもなく、ただ夜空に浮かぶ星々を見つめているだけのようだ。

 なのに不思議と目を惹かれてしまう、目を惹くだけのなにかを彼女は持っている。しばし彼女を見詰めていると微かな声が聞こえた。それは静かな抑揚の上にあって、底冷えするような不気味さをはらんだ旋律。調和ハーモニーが取れているようで取れていない、薄氷のように鋭くくらく寒々しい唄。


 ──それに、聞き覚えがあった。


「……冥き、海の底へ……連れていく、だろう。

 深き海へと……連れて、いく、だろう……

 どうか、来ないで……

 私達を、目覚め……させないで──…………?」

 唄われたそれが自分の声だと、初めのうちは気づけなかった。誰に教わった唄なのかは全く思い出せないのに歌える、身体が覚えている不可思議な唄。

 誰が海へ連れていくのか、冥い海とは何を指しているのか。何が来るというのか。そして目覚めを拒否する理由は、一体なんだ?

 内より涌き出る疑問の数々は泡沫うたかたの様に弾けは消えて、際限なく現れ思考の海へと沈んでいく。

「──……お義姉さま、思い出されたのですね」

 思考の海に溺れ、目眩にも似た感覚を覚えると同時にふらついた身体を支えてくれたのはエーギル。支えてくれたお礼を口にしようとしたが、何故だか思うように身体が動かない。私は彼女に抱き上げられ、近くの椅子へと寝かされた。

「しか─、白─も無─に、唄─も─で─、あ──せ─よ──……?」

 みみに伝わる声も遠く、水へ融けるように形を失い意味を成さなくなった。彼女がナニかを喋っているのはなんとなくわかるが、音として認識出来なくなっている。


 そして高熱に浮かされた時のように世界の輪郭が曖昧あいまいになっていく。そこから先は早いもので、見慣れた景色は名状し難い冒涜的なナニかに変質してしまった。音は消え失せ夜空は赤く染まり、あり得ない大きさの月が浮かんでいる。見慣れた太陽よりも大きな月は紅い光を放ち、夜空には一直線に並んだ恒星だけが爛々らんらんきらめいていた。

 異常事態なのに何故だかそれが一番しっくり来ている、それが天体の在るべき姿なのだと感じている自分がそこに居た。恒星達が正しく在るのなら、そこからあらわれる者達がいるのだと──


 ……そんな事、誰から聞いたのだろう?

 誰かに教えて貰ったのではなく、本能的に知っていたような気がする。例えるのなら……そう。太陽が東から昇り西へ沈むと言う、当たり前の事象と同じ認識なんだ。恒星が並び、星の震える夜にあって星の大海たいかいから顕れる彼等こそがこの星の本当の主人。私達はそれらを──……



 どう、すべきだったんだろう。

 困ったことに思考が纏まらない。まるで砂上の楼閣のように、基礎となる思考回路そのものが機能を失っている様な感覚だった。

「──……様」

 誰かに、呼ばれている気がする。この声は誰のものだったろう、私は誰に呼ばれているのだろうか。全てが曖昧に溶け始めた世界にあって、突如感じたのは唇に触れる柔らかな感触。


「──お義姉様。どうか、目をお覚まし下さい」

 静寂を切り裂き落とされたこえはエーギルのものであり、優しく穏やかながらもよく響いた。暗礁に堕ちた世界はその声を皮切りに、失っていた形を取り戻していく。月は見慣れた大きさと色に戻り、星々も夜空に散りばめられていった。

 そうして慣れ親しんだ世界へ戻ると、次第に失っていた感覚が戻り始めたのだ。未だ全身は鉛のように重く怠いが、先程のように全く動かせない訳ではない。酷く緩慢な動作にはなってしまったがなんとか上体を起こし、彼女の方へと向き直る。


「……ご迷惑を、お掛け致しました」

「いえ、あの程度なら構いませんよ。

 それに愛しいお義姉さまのお役に立てるのならわたくし、何だっていたしますもの」

「そ、そう……です……か」

 そっと私の手を取り嬉しそうに微笑む彼女の頬はうっすらと紅潮しており、恋する乙女が意中の相手に向けるよう妙な熱を帯びていた。しかし気のせいだろう、というか気のせいであって欲しい。

「……ですがお義姉さま、みだりに口にするものではありませんよ。ましてや鍵も無しに口にするなんて、自殺願望でもあるのですか?」

「いや、そんなことはないんですが……

 それよりあの唄、死ぬ可能性があったんですね」

 涙を浮かべ憂いを帯びた表情から一変、まるで鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情で彼女は私を見詰めてきた。そのあまりの変貌ぶりにこちらも面食らってしまい、暫く二人で見詰めあう形となった。


「……唄と、そう仰いましたか?」

 恐る恐る確かめるような声で、全身を縮ませ酷く怯えたような表情のまま彼女は聞いてくる。彼女とは知り合ってからまだ九日しか経っていないが、その中で彼女が怯えた様子を見せたことはなかった。何があっても微笑みと共にあった彼女がここまで狼狽えるなんて、あの唄は一体何なのだろう。

「そ、……そうですよ、あれは唄ですよね?

 というか、エーギルさんも唄っていたじゃないですか……?」

 怯えた様相のまま彼女は応えず、胸にかけた白銀の十字架を強く握りしめていた。普段の彼女なら見せないであろう態度が、胸に湧いた不安と焦燥感を募らせる。霧のように纏わり付く不安、得体の知れないナニかが私の足元から這い上がってくる気配すらあった。

 ……早く、答えて欲しい。先程のあれは唄であり、彼女も唄っていたのだと。その言葉があれば、今も尚胸中に巣食い肥大化している不安を振り払えるのに。



「──お義姉様……私は。貴女は、何を仰っているのですか?」


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