第5話 願い、祈り

 et.13611


 最初に感じた頭を砕かれるような痛みに、叫ぼうとした喉から出たのは掠れた空気。

 

 ──……なにが、どうなってる?


 散らばった雨が流れ、やがて一つの流れになるように記憶が調和されていく。それに呼応するかのように、頭の痛みは退いていく。

 

 ──確か……そうだ、私は死んだはずでは?


 違和感の残る体を起こし、自らの胸に触れる。大きくはないが形の良い、柔らかな乳房むねの感触がした。そうして胸を抑えたまま目を閉じて集中すると聞こえる自分の心音、規則正しく脈打つそれは私が確かに生きている証だ。

 私の胸に心臓はあって、正しく動いている。これでいつ動けなくなるかわからない不安はない、しかし大事なものがないことに気がついた。

「……ゆかり?」

 手に抱いていた筈の娘が居ない、その事実が加速度的に焦燥感を募らせ意識を覚醒させる。寝かされていたベッドから立ち上がり、部屋に一つしかない扉を開き外へ出た。

 ────ここはどこだ?

 目の前に広がる光景は村にあった役場の図書室と似たようなものだが、その規模は桁違いといって良い。天井から吊るされた豪華な装飾の施された燭台しょくだい、等間隔で並べられた長机と椅子。 辛うじてまとまりを見せている記憶を辿るがこんな建物に見覚えはない。ここが何処なのか気になる所ではあるものの娘の行方を探す方が重要だ。


「……なんなの、ここ」

 重く沈むような空気に満たされた館内を歩き続けてどれ程経ったのか、未だ私は娘の遺体はおろか出入口も見つけられずにいる。

 散々歩き回り気付いたのだがここの書物や家具は隅々まで手入れされていた。それはつまり誰かが毎日欠かすこと無く手入れし続けているという証拠だ。にも拘らず誰にも会わないというのはどういうことなのか、人影はおろか生き物の気配すらない。


──ならばこの施設は何のためにある?


 思案しつつ歩いた先で一番大きな書架しょかに当たった。その書架は他のものよりも大きな金板が取り付けられている。もしかするとこれは案内板だろうか、この施設の大まかな見取り図のらしき物が記されていた。しかし説明文は見たことのない文字で綴られており残念ながら私には読みとる事が出来そうにないが、わかったこともある。

 今居る場所はこの施設の中心に当たると言う事。そして案内板を見るにここから少し進んだ所に受付のような物があるらしい。

 今まで散々歩き尽くしたが人っ子一人として見掛けなかった場所だ。誰もいない可能性は高いが現状歩き回り続けるよりはマシだろう。


 受付があるらしい場所へと歩き出したその時、鼻歌のようなものを捉えた。その場で止まり息を殺して耳を済ませるとそれは変わらずに聞こえる。

 優しいがどことなく寂しげで昏く澄んだ声音、心地好くも不気味さを孕むそれは遠い異国の子守唄を想わせるものだった。あまり耳の良い方ではないから自信は無いけれど、歌声は間違いなく受付の方から聞こえる。異質な雰囲気の施設だ。まともな存在ではないと思った方がいい。

 書架の裏へと身を隠しつつゆっくりと進んでいくと椅子に腰掛け何かを撫でている人影が見えた。人影は1つ、そいつはやや俯き気味になりながら鼻歌を奏でている。

「──そこに居られるのでしょう?」

 唐突に終わりを迎えた歌、彼方は私に気付いていたようだ。ここは下手に誤魔化すような真似はしない方が良いかもしれない、書架から離れ受付へと出向く。

 そこにいたのは黒衣に身を包み薄手のレースを肩にかけた長身の女性、白い肌と絹糸のような銀髪が印象的な淑女であった。

「予測よりも早いお目覚めですね、御気分は如何でしょうか」

「気分は悪くありませんよ……その、貴女が助けてくれたのですか?」

 彼女は一切此方を見ずその視線は手元にある一冊の本へ向けられたまま、抑揚の薄いその声からは何処か作られた人らしさを感じる。

「──いいえ。

 確認を兼ねてお伝えしておきますが、ここへ来た貴女様は瀕死という言葉すら生温い程に傷付き、その生命活動は殆ど停止しておりました。助かる見込みなど無い、確認できたものでも脾臓破裂ひぞうはれつ腹部裂創ふくぶれっそう右前腕切断みぎぜんわんせつだん胸郭刺創きょうぶしそう右上腕咬創みぎじょうわんこうそう頭蓋骨折ずがいこっせつ左眼球破裂ひだりがんきゅうはれつ左下腿裂創ひだりかたいれっそう右大腿部咬創みぎだいたいぶこうそうと述べればキリがありません。

 ──なのに貴女様はこうして生きている。

 死んだ方がまだ幸せだと思われるような世界にあっても諦めず生きる、その目的は何ですか?」

「それは──」

「……それは?」

「…………っ」

 淑女の問いに言葉を返せない、そもそも生きる目的なんて深く考えたことがなかった。直ぐに思い付いたのは娘を守る事、しかし肝心の娘は死んだ。死んでしまったのだから私が生きる理由は無い筈、なのに何故か自殺という選択肢は取れずにいる。

「──……迷って居られるのですね。

 生きる目的を失ったのに、生きることを諦められないのでしょう?」

 見透かされたような言葉に私は静かに頷く事しか出来なかった、言いたい想いもあるけれど上手く纏まらない。自分の事の筈なのに適当な言葉が見つけ出せなくて、本当に彼女の言葉通りの有り様なのだ。今の私は死ぬことも生きることも選べない中途半端な生き残り、あれだけの傷を負いながら死ねなかった脱け殻。



「──……全てを失った貴女様に問いましょう。

 かつてその手にあった健気で優しい小さな陽光が、何時しか目にするもの全てを焼き尽くす烈日に成り果てるとしても貴女はそれに手を伸ばしますか?」

「……その光というのは、あの子の事なの?」

「ええ、貴女のご息女です。

 もう一度会えるとしたら、貴女はそれを望みますか」

「そんなの……勿論会えるのなら会いたい……!」

「手にした陽光にその身を焼かれるとしても、立ち塞がるものが例え神であろうと貴女はその光と共に歩むことを望むのですね?」

 脳裏を過るのはあの日の光景、血の海に横たわる娘とそれを守れなかった事実に慟哭どうこくし怒りと嘆きと憎しみに身を任せ群がる魔物を塵殺おうさつした私の姿。もしもまたあの子をこの手に抱けるのなら、私はどんな犠牲を払ってでもこの手を伸ばすだろう。

「──……あの子が、ゆかりが自分一人で歩いていけるまで側に居られるのならそれでいい。あの子が無事に大人になれるんだったら、この身が焼かれる事になろうが神に挑む事も厭わないよ」

「その選択に、後悔はないのですね」

 彼女は何かを抱いたまま器用に一冊の本を取り出すとそれを手渡してくる。受け取ったそれに表題タイトルはなく、最後の一頁イチページを除き全て白紙であった。


 ──汝、円環より外れる道を選ばれり──


 そしてこれが最後のページに記されていた一文。たったこれだけを記した物を手渡してくるなんてどんな意図があるのだろうか、彼女の真意は不明だ。私が本を閉じ彼女へと差し出すと、彼女は片手でそれを受け取り机上の隅へと重ねた。

「──……辛く険しい道程みちのりであると、理解した上での選択なのですね」








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