第62話 閑話2・その頃の悪女

 今まで信じていたものが、偽りだったとき。

 今まで『常識』だったものが、常識ではなかったとき。

 自分が肯定していたものが崩れ去ったとき。


 人はどうするのか。


 絶望して、殻に閉じこもる人もいるだろう。

 泣き叫び、怒り、すべてに敵意を向ける人もいるだろう。

 しょうがないかとあきらめ、忘れる人もいるだろう。


 だが、もいる。

 今までどおり、学校に向かい、友人と語らい笑い、楽しそうに過ごしている。

 だが、忘れたわけではない。

 心の中はずっと傷ついたまま。

 その傷は時間の経過とともにどんどん深くなっていく。

 いつの間にか血まみれになっているのに、本人はそれに気づかない。

 気づいていても、何もできずにいる。

 自分の無力さを、これ以上なく感じ続けている。


 そうなると人は、不意に何もしたくなくなる。


 ――シアも、その状況だった。


「はぁ……」


 深々とため息をシアはつく。

 校舎の隅にある空き教室にシアはいる。

 ガランと何も置いていない、教室の床で、気だるく大の字になっている。


 キンコンカンコン。


「あ、もう、お昼なんだ」


 チャイムが昼休みに入ったことを知らせる。

 3時間目前の休み時間に『調子が悪いから早退する』と言ったものの、家には帰らず、誰もいないこの場所にいた。


 調子が悪いのは嘘ではない。

 頭の中が、ぼんやりと霞がかったようで、思考回路が鈍く身体も重い。

 今日も梅雨特有の湿気たっぷりの空気が、気分の悪さを助長してくる。

 湿気を吸った制服が身体にまとわりつき、そのまま床に縛り付けるようだった。


「……なに、してんだろ」


 体調が悪いなら、家に帰って休めばいい。

 両親は昼間は働きに出ているから問題ないはずだ。

 でも……帰りたくないから、ここでくすぶっている。


「…………」


 ぼんやりと掲げたスマホの画面を見る。

 なんということもなく、適当な情報やニュースを見ている。

 だが、内容はほとんど頭に入ってこず、時間をつぶす行為と成り果てていた。


 ――お腹減るとやっぱり肉、食べたくなるよなー。ハンバーグとか。

 ――ハンバーグ、いいですね。トンカツも、いいです。


「ん……?」


 ふと声が聞こえ、意識が戻ってくる。

 どうやら、少しうとうとしていたらしい。


 この辺りには普通、誰も来ない。

 それがわかっていたから、この空き教室で過ごしていた。


 でも、誰かいる。


 身体を起こすのもおっくうで、声のする方へとごろごろ寝転がって向かう。

 今までしようと思ったことすらなかったのに。

 自分はどうかしている――シアの口元は自嘲の笑みが滲んでいる。


 廊下側にある、床近くに設けられた地窓ちまどを少しだけ開ける。


 いた。


 非常口のところに、男子生徒と女子生徒が並んで座って昼食を食べている。


 周りに付き合っていることを知られたくない恋人の逢い引きか、それともイチャつくためにひと気のないところに来ているのか。


 ――なんでやねーん。


 声がとぎれとぎれにしか聞こえないが、どうでもいい話をして楽しんでいる。


「……ふーん」


 今までは、そういう人たちを見ても『お幸せに』という気分だった。


 今はどうだろうか。

 モヤついた気持ちはないだろうか。

 でも、そんなのわがまま過ぎる。

 自分の状況が良くないから、人にぶつけるなんていいことではない。

 他の人に対して、黒い感情をもつことそのものが良くない。


「幸せ……は、私もでしょ」


 ――シアは、自分を幸運な人間だと思って


 客観的に語るなら、シアは幸せだ。

 素敵な友人がいて、日々、なんの不自由なく暮らすことができて。

 十分すぎて、これ以上は高望み。そう思って

 この『悩み』だってきっと、本当に不幸な人から比べれば取るに足らないこと。


「はぁ……」


 自分をそうやって納得させようとしてもため息が出る。

 ふと、窓側を見れば、梅雨の晴れ間が差している。

 まばゆくて美しくて、きっと心が躍る光。


「――今日もいい日、なんでしょうね」

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