番外 一年前のこと

第52話 雨の日、歌う

「……明宮あけみや心詠こよみです。よろしくお願いします」


 涼やかでよく耳に通る声が、耳の中を転がる。


 なんの捻りもない自己紹介。

 一年後には自分もしてしまう、味も素っ気もない紹介だが、俺とは違い『明宮心詠』の名前は自分含めて、クラスメート全員がすぐに覚えた。


 よく通る声は、一度聴けば忘れられないほど美しい旋律。

 長身で、目鼻立ちも高校一年とは思えないほど大人びた容姿。落ち着いたロングボブの髪も可愛さよりも『美人』と形容するのが自然な演出になっている。

 それでいて、大半の学生が開けているブレザーをきっちり閉じたたたずまいは、学生ならではの真面目さを内包していた。

 一度見れば、忘れられない存在だ。


 明宮はその後も、クラスで目立っていた。

 勉強はよくできたし、運動もトップクラス。それでいて、偉ぶることもない。

 休み時間は読書をしており、昼休みはどこかへ消えてしまう。

 そんなミステリアスな様子は、高嶺の花が咲き誇るようだった。


 誰とも積極的に関わることもなかったし、またそれが自然なように見えたから俺も気にしなかった。

 そういうものだと思っていたし、それが自然だと誰もが思ったから。


「かっこいいよね、明宮さん」


 クラスメートの女子たちはそう囁く。


「綺麗だよなぁ、明宮さん」


 クラスメートの男子たちはそう話す。


 誰もが遠巻きに見ながら、一目置く。それが1年1組全員の共通認識だった。



   ◇


 雨が降っている。


 梅雨入りしたから、この日に限らず数日雨降りが続いていた。

 どんよりとした雲から、糸のような雨がいくつもいくつも滴り落ちている。


 中庭の植物たちや、屋根に雨水が当たり、どこか歌うような音を立てる。

 梅雨の時期はジメジメとしており、決していい季節とは言えない。

 でも、しとしと響き渡る雨音はどこか心地よい。


「あ……やべ」


 つっぷしていた机から顔を上げればもう放課後。

 雨音が眠りに誘ったのか、しばらく寝てしまっていた。


「誰か起こしてくれよ」


 部活に行った友人たちへと思わず恨み言。

 とはいえ、帰宅部の俺に構うより、新人として入ったばかりの部活を優先するのは仕方のないこと。


「…………」


 頬杖をついて、窓の外の雨を見つめる。

 雨音を聞いている分にはいいが、家に帰るのにこの雨は憂鬱だ。

 雨ガッパを着て自転車で帰ることになるのだが、この湿気だと蒸れるし、汗もかいてじっとりするし、不快なことこの上ない。

 やっぱりバスで来たほうが良かったのかも……と思いつつ、雨の日のバスは混み合うので、あれはあれで面倒だったりする。


「……帰るかぁ」


 とはいえ悩んでいても始まらない。重たい腰を上げて自転車置き場へと向かう。


 駐輪場は、校舎の隅にあり、この雨だとひと気はない。

 自転車のところでカッパを着ることにする。

 少しでも着る時間は短いほうがいい。


「……ん?」


 雨音に混ざって、なにか聞こえる気がした。

 校舎の裏手からだろうか。

 確か、校舎の裏手には花壇があったような……。

 カッパの上着だけ着て、音の鳴る方へと向かう。


 ただの興味だった。

 濡れて帰るのが決定済みだったから、逃避に近い。


 だが一番の理由は、その『音』は涼やかで、じめついた大気を振り払うような心地よさがあったから。


「あ……」


 ――青い紫陽花が咲いている。


 その中に溶け込むように、青空のような傘が開いている。

 そこから聞こえる音――いや、メロディ。


「――――♪」


 音は、歌だった。


 雨音を伴奏にして、歌っている人がいる。

 顔は見えなかったが、そのたたずまいと声で誰かはすぐにわかった。


「明宮さん……?」

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