第53話 彼女は、ひとり

 急に旋律が途切れた。

 空色の傘がわずかに上がると、傘の下から細い首と、その美貌がのぞく。


「……えっ」


 声を漏らした口はぽっかりと開けられ、瞳はいつも以上に大きく見開いている。


 ――驚いてる?


 そんな表情を見たことがなかったから、こちらも目を疑う。


「あっ」


 次の瞬間風が吹き、彼女の手から傘が離れる。

 ふわりと浮いた傘は、俺の手前で地面に落ちかけるから、慌てて拾う。


「えっと……」


 思わず顔を見合わせる。

 『驚いた』というより『固まった』と表現したほうが良いのかもしれない。

 目を丸くして、こちらを見たまま明宮は微動だにしなかった。


 その容姿のせいもあって、あたかも石像を前にしたようだったが、わずかに漏れる呼吸と紅潮した頬が、彼女に血が通っていることを教えてくれる。

 しっとりと濡れ、まさしく『烏の濡れ羽色』になった黒髪が頬に張り付く。

 あごから、ひとしずくの雨がしたたり落ちた。


「あ、ごめん」


 思わず近づいて傘を差し出す。

 空色の傘の下に、二人並ぶ。


「悪い、ボーッとしてて」


 向かい合った明宮に傘を差し出す。

 明宮がようやく動いて俺の差し出した傘を受け取る。


「…………」

「…………」


 傘に当たる雨音が、鮮明に聞こえる。

 そのくらい、俺達は無言だった。

 でも、明宮はチラチラとこちらを見る。

 なにか、気にしているような……。


「そうだ……歌」


 明宮は歌ってたわけだから。


「上手いんだ、歌。雨の中でもよく聞こえた」


 じめついた空気を振り払うような、爽やかさのある歌声。

 その響きは、耳に心地よく残っていた。


「っ!」

「え?」


 ビクリと肩を震わせると、きびすを返して去っていく。

 パシャパシャと、水たまりを踏む音が遠ざかる。


 そして、残ったのは、自分のカッパに降り注がれる雨音のみ。


「あれ……?」


 雨にけぶって消えた後ろ姿が見えた場所をしばらく見つめる。

 考えてみれば、雨の日に校舎裏で歌っている……その状況で第三者に聞かれたいと思うだろうか?


「もしかして俺……まずかった……?」


 気づいても、後の祭り。

 靴の中が濡れるまで、雨の中、立ち尽くしていた。



   ◇


 次の日。

 休み時間に友人たちと話しながら、それとなく明宮をうかがう。

 彼女はいつもと変わらず、読書をしている。

 特に周りを気にした様子もない。

 そう、これが彼女の普段どおり。


 ――の、はず。


「…………」


 ふいに明宮が顔を上げ、辺りを見回す。


「…………」


 そして、俺と目が合う。


「……っ」


 パッと視線をまた、読んでいる本に落とした。


 昨日のことが気になっているのか?

 なんだかその姿は、女子たちがよく言う『かっこよさ』や、普段感じられる『クールさ』が薄らいでいるようにも見えた。



 昼休みになると、明宮はいつの間にか姿を消している。

 それもいつものことだから、今はクラスメートたちも気にしていない。

 一人でいたい時間はあるものだし、おそらく明宮もそうだろうというのが、俺を含めて大勢の見解だった。


 昼休みに彼女がどこにいるのかは誰も知らない。

 でも、もしかしたら……。


 ――ふと思いつく。


 昨日のことを、謝りたいという気持ちがそのまま俺を行動に移す。


 廊下に出て、向かうは校舎の隅。

 新栄にいえ高校の校舎の中で、自転車置き場付近は空き教室が多く、普段、学生はあまり立ち入らない場所になっている。


 こっそり使う場所として便利そうに思えるが、意外と人はいない。

 一番の理由は、他のどの施設にも遠いことと、そういった集まる場所としては、文化部棟や学食付近、中庭などにも使いやすい場所がいくつもあるから、わざわざここまで来る人はいないのだ。


 だが――


「……やっぱり」


 ――いた。


 校舎の裏手。

 昨日、明宮を見た場所からほど近くに、外に出入りできる非常口がある。

 非常口はひさしが大きく伸びており、雨宿りもできる。

 そこに、明宮は腰を下ろしていた。

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