第31話 だから、好き

「もう一回……?」

「そう、私の『ここ』」


 唇を叩いていた人差し指に、軽くキスをしてみせる。

 ちゅっ、というリップ音がやけに鮮明に聞こえる。


「そんなに軽々しく……」

「軽々しくなんてないよ」


 俺の疑問をシアがひと言でなぎ払う。


「キスのこと、前に言ったでしょ? 私はその気持ちのまま行動しただけ」


 昨夜のベランダで、シアは言った。


、いつでもいいよ』と。


 あれは、俺に対していった言葉だ。

 だが、シアにも当てはまるのなら――シアがしたかったから、キスした?


「……ふふっ。でも、食事中にキスなんて、行儀悪いよね?」


 シアが机の上の焼きそばパンを手に取り、封を切って半分に分ける。


「だから止めて、私からおかえし……かなっ♪」

「はぐっ!?」


 焼きそばパンの半分を俺の開いた口に押し込んでくる。


「ナポリタンのやつも、半分ぐらいだからちょうどいいでしょ?」

「もぐ、んんっ……まぁ……」


 焼きそばパンをそのまま食べつつ、軽く頷く。


 もし。

 『もう一回味わう』と言ったら、シアはキスしてきたのか。

 俺がシアは――


「……ごめんね」


 パンを飲み込んでシアがひっそりと漏らすような声を出す。

 その表情は珍しくも困り笑いだった。


「私、ついついヒツジくんを困らせること言うよね」

「自覚あったのか?」

「ふふ、そういう率直に言っちゃうのがいかにもヒツジくんだよね」

「うっ、悪い」

「うぅん、いいの。嘘じゃないことがわかるから」


 『嘘じゃない』――シアは自分で『嘘をつかない』と言うが、俺は嘘つきかもしれないのに。


「……私はね、人の嘘がわかるの」


 俺の心を読み取ったかのようにシアが微笑む。


「なんとなくだけど、人が嘘をついた時『あ、嘘だな』って感じ取れるの」


 嘘をつかないシアが、嘘を感じとれる。

 それはつまり――


「……ああ。だから、嘘をつかないのか?」

「わ」


 困り模様だった眉が一気に上がり、シアの瞳が見開かれる。

 それは驚きより、明るい喜びの方が強いように思えた。


「そう、そうなの! ふふっ、わかるなんてびっくり」

「まぁ、嘘をついてる人たちを見てたら、嘘をつくの嫌になりそうだからさ」

「うん」

「じゃ、シアは嘘、つかれたことあるのか」

「うん」

「……嘘、ついたことは?」

「……あるよ」


 瞳を細めると、小さく笑う。

 でも、その笑みは今までのどの笑いとも違う――わらいだった。


「嘘をついた時の私って、ずるいの。とても浅ましくて狡猾こうかつで……奸知かんちにたけたことばかり言うから……嘘、つきたくない」

「シア……」

「――なんてね」


 シアの嗤いが艶のあるほくそ笑むものに変わる。


「これもぜんぶ、嘘かもよ?」

「え?」

「こうして、ヒツジくんの同情を引き出して、私のいいようにしてしまおう――そんな風に思ってるのかも」


 俺はシアのことはたいして知らない。ここ数日の間柄だ。

 だとしたら、シアの言う『嘘をつかないこと』も『嘘がわかる』もすべて偽りかもしれない。


「いや、シアは嘘ついてない」


 でも、確信はあった。


「あら、どうしてすぐに断言できるの?」

「シアは頭いいから。俺の同情を買うならもっと明るい方向に持っていくさ。俺みたいな単純なヤツをいいようにするなら、その方が簡単だ」

「クスッ、そうね。重たい事情を抱えてる女なんて願い下げだもんね」


 シアがクスクスと肩を震わせるがどこか乾いた笑いにも聞こえた。


「それに、シアは『覚悟』するかどうかの選択をくれたろ?」

「私の抱えてることだからね」

「俺を騙すのなら、もっと適当なこと言ってるさ」

「どうかなぁ……『覚悟』なんて言って、たいしたことじゃないかもよ」

「それはわからない。でも、シアが嘘をつかない思うのは他にも理由がある」

「それじゃ、なに?」


 次の言葉を紡ぐ前に、いつの間にか肩に入っていた力を抜いて、一度喉を鳴らす。

 そしてシアを正面に見据える。


「――俺の恋人だから」


 シアも俺の顔をじっと見つめてくる。

 なんと表現していいかわからない表情だ。

 驚いているようにも、呆けているようにも、きょとんとしているようにも見える。


「…………」


 無言のままシアが、椅子をずらして俺の真隣へとやってくる。


「シア?」

「もー……」


 そのままシアが俺の肩に寄り掛かってくる。

 肩越しに思い切り、シアの体重を感じる。

 一緒に感じるのは、あの夜の夜桜の香りだった。


「……もうっ♪ もうっ、もうっ!!!」

「えっ、な、なんだ……っ?」


 俺も責めている言葉なのに、シアの声はすごく弾んでいた。


「ずるいなぁ、ひつじくんは……ホントにズルイ」

「なんでだよ」

「だって、思い描いていた以上なんだもん……」

「思い描いてた?」


 俺のことを知っているような言い方――いや、間違いない。

 シアは俺のことを、あの夜、出会う前から知っている。


「ふふ、わかってる。ヒツジくんは私を知ってるわけない。うん、その方がきっと、ヒツジくんらしいよ」

「ぜんぜん、意味がわからないんだけど……」

「クスッ、だよね」


 ニカッとした笑みを見せると、おでこを俺の肩にこすり付けてくる。

 長い黒髪がサラサラと俺の腕にしなだれかかる。

 ドキドキするのに、なぜかホッとするぬくもりが伝わってくる。


「……だから、好き」

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