第9話 いってらっしゃい、恋人さん

「えっ、なんで?」

「昨日、私が言ったこと忘れてるんだもん。『恋人になって欲しい』とか自分で言っといて、勝手だなーって思うじゃない」


 頬をぷくりと膨らまして、じっとシアが睨んでくる。


「シアが言ったこと――」


 ――不束者ふつつかものだけど、末永く、愛してくださいな♪


「『末永く』って言ったでしょ? 私は本気なのに」

「いや、覚えてる。覚えてるって、ただ――」

「ただ、何? 私が泊まりたいから適当なこと言ったとでも考えてた?」

「うっ」


 図星を突かれて言葉に詰まる。

 先ほど思ったことだけに反論できない。


「悲しいな……私、初めて告白受けて真剣に答えたのに、ヒツジくんはそんな不誠実なこと考えてたんだ」


 目を伏せ肩を落とし、シアがコーヒー牛乳を見下ろす。

 彼女が持つコップの水面が小さく震えている。


「……すまない」

「ふふふー♪」


 でも、シアが切なそうな表情だったのはそこまで。

 机の上の鍵をつまむと、手のひらの上で転がしイタズラっぽく目を細める。


「――なんてね。

 合鍵をくれたってことは、私が恋人としてずっとそばにいる――そう思ってくれてたんでしょ。だったら合鍵こいつでぜんぶ許しちゃおう♪」

「えっと……」

「はい、何か言うことは?」

「ありがたき幸せ……?」

「ええ、よしなに――それじゃ、あーん」


 ニコッと笑ったシアがまた口を開ける。


「えっ、もう目、覚めたろ?」

「さっきまでは眠かったから。今度はお詫びとして食べさせて」

「……わかったよ」

「へへへー……やったっ、あーん♪」


 肩をすくめつつパンを差し出せば、シアが楽しげに目を細めてかぶりつく。


 ……もしかして、ここまで考えていた?


 だとしたら、この『恋人』は、かなりしたたかだ。


「美味しー♪」


 コロッケパンを頬張るシアの顔を見ても、その真意はわからない。

 でも、満足そうなのでこれで良いのかな……と思ってしまった。 


   ◇


「それじゃ、家を出るなら戸締まりちゃんとしてくれ」


 通学用のリュックを背負って準備完了。

 玄関から部屋にいるシアに声をかける。


「あ、待って待って」


 キャミソール姿のまま、シアが玄関にやってくる。

 寝癖だらけの髪からも寝起き感満載のままだ。

 朝メシの『あーん』といい、ものぐさなんだろうか。


「どうかした?」

「ヒツジくん、こっち向いて」

「え……?」


 出がけに玄関で恋人が――となれば、漫画でよく見る展開……?


「ちょっとズレてたから……動かないでねー」


 俺の首元に手をやると、ネクタイの位置を少し動かす。

 寝起きで何もしてないはずのに、シアからはふんわりといい匂いがした。


「はい、これでオッケー♪」

「あ、ネクタイ?」

「ええ、恋人さんにはきっちりして欲しいでしょ。ふふ、かっこいいよ」


 その笑みはいつものイタズラっぽいものではなく、ちょうど俺の告白を受け入れたときのような、はにかむもの。

 普段見せない表情に、ドキリと鼓動が高鳴る。


 そして『いってらっしゃいのキス』とか考えていた自分が恥ずかしくなる。


「きっちりか……そうだな、ありがとう」

「でしょ?」

「けど、寝起き姿で言われても説得力ないぞ」

「あはっ、それもそうね。帰ってくる頃にはちゃんとしてる」


 ということは、シアは言葉通りこの部屋にいてくれるということ。

 つまり『恋人』関係のままだ。


「そーしてくれ。いってきます」

「いってらっしゃい、恋人さん♪」


 手を振る『恋人シア』にこそばゆさを感じながら家を出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る