第3話 お願いと、始まる予感

「……は?」

「今夜、この部屋に泊めて欲しい。そう言ってるの」


 桜の舞い散る中、明日の天気のことを話すようにあっさりと――いや、楽しげに口の端を上げ、シアがまたサイダーを飲む。


「…………」


 俺もコーラを飲む。

 今度は一気に。


「えほっ」


 炭酸は抜け始めていたのに、喉がチリチリと焼けるようだった。


「あら、大丈夫?」

「……うちに泊めろ?」

「そう。泊めてくれると嬉しいなー♪ 今から帰らなくていいし」


 シアの口調は消しゴムを貸してと頼むのと、同じぐらいの気安さだ。

 緊張も遠慮も見当たらない。


「……ついて来たのはそれが狙い?」

「どうかしら? でも、ヒツジくんは人が良さそうだし、泊めてくれるかもって、ちょっとは考えたかな」

「……どうりで大きめの鞄をかついでたわけだ」


 家出。

 そういうことなんだろう。


「あなただって少しは期待があったんじゃない?」

「シアが泊めてくれって頼んで来ると?」

「ううん、そっちじゃない。それじゃ、あんまりにも浪漫が無いでしょ?」

「ロマン?」

「そうよ――」


 ベランダの手すりに預けていた体を離し、シアが俺を正面に見据える。


「ヒツジくんは思わなかった? 『何か』が始まりそう――って」


 白い歯を見せて、花が開くような笑顔を見せる。

 ご丁寧にひときわ大きな風が吹き、彼女の周りを花吹雪が包み込む。

 それは、こんな状況でも『美しい』と思えてしまう光景だった。


「引っ越して新しい生活が始まるその日。夜桜の下で、女の子と出会う。

 ――こんな『物語』の始まり、そうはないでしょ?」


 シアの言うの通り。

 確かに、これ以上なく『何か』はじまりそうな状況だ。

 だけど――


「自分で言うのは無粋だ」

「クスッ、そうね。でも……違う?」

「できすぎなのは認める。この状況をシアが計画的にやったとしてもさ」

「あら、言ってくれるわね。さすがに桜の花を咲かせることはできないわ。

 たまたま、ヒツジくんが通りかかってくれたから、できたことよ」

「偶然だ」

「ええ、だから『運命的』……違う?」


 シアがウインクする。

 俺に話しかけた時点で、シアはここまで考えていたのだろう。

 どうやら俺は、蜘蛛の巣に絡め取られた虫か、はたまた生贄に選ばれた羊らしい。


「さぁ、ヒツジくん。運命的な出会いをどうするのかしら?」


 王手チェックメイトといった様子で、シアが言う。

 この『運命』を捨て去るのは、もったいないぞ――間違いなくそう言っている。


「…………」


 とはいえ、どんなに運命的だとしても「はい、そうですか」とあっさり頷くほど、こちらも純情じゃない。


「――で、シアを泊めて俺になんのメリットがあるんだ?」

「ふふふー、そうくるか」


 シアの声が弾む。

 この状況を楽しんでいるのか『泊めて』と言い出したときより瞳が輝いていた。


「俺はシアのこと、まだ何も知らないんだ。ホイホイ泊めて泥棒だったり、泊めたことで何か脅迫されたりしたら、たまったもんじゃない」

「友だちでしょ?」

「親しき仲にも礼儀あり。だいたい友だちっていうより、まだ知り合いかな」

「あら冷たい」

「サイダーごちそうしたのに?」

「ええ、キンキンに冷えてるから♪」


 シアがサイダーを見せつけるようにかかげてひと口飲む。


「でもそうね。メリットは欲しいよね。タダで泊めろ、だなんて私だってわがままだと思うし。んー……」


 ペットボトルの口に下唇を押し当て、考えていたのもつかの間。


「じゃ、泊めてもらう代わりに、何かして欲しいことってある?」

「して欲しいこと?」

「うん、私あまりお金持ってないから、お金でどうこうってできないし。

 でも、その代わりなんでもいいよー」


『泊めて』と言ってきたときと同じ、ずいぶん軽い調子だ。


「なんでも?」

「ええ。ヒツジくんのお願いはぜんぶ頷いちゃう。も・ち・ろ・ん――」


 シアが自分の唇を、そっと撫でる。

 ペットボトルを押し当てていた時も気づいていたけど、弾力のあるピンク色の唇がぷるんと揺れる。


「――エッチなことでも、特別に許してあげる♪」

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