Escape at Thun Pak Port:クァンの場合

きさらぎみやび

Escape at Thun Pak Port

 けたたましいエンジン音が大小様々な船でごった返すトゥンパク港に響き渡る。騒音の源は一台の小型ボートだった。

 ボロボロの船体には似つかわしくないごついエンジンを船尾に抱え、港内とは思えないスピードで爆走している。


 船主(といってもそもそも乗組員は1人だけだが)のクァンは必死になってボートを操っていた。

 見た目はまだ若く、十代をやっと超えたくらいだろうか。

 日に焼けた肌は健康的で、朴訥そうな顔は普段であれば周りの者たちにも笑みを誘うような穏やかな表情をたたえているが、今に限ってはカッと目を見開き、歯を食いしばり、仁王もかくや、という表情で操舵桿を握っていた。


 彼の傍らには金髪を頭の後ろで纏めてつば広帽子を被り、サングラスにワンピース姿でハンドバックを抱えた一人の若い女性。

 どう見てもおんぼろ爆走ボートよりも大型クルーザーか豪華客船が似合いそうな出で立ちだった。


 先ほどから片手で帽子を押さえ、もう片方の手で船の縁をぎゅっと掴んで振り落とされまいと踏ん張っている。


 女性が風を切る音にかき消されないようにと、クァンに対して大声で叫ぶ。


「ねえ、全然振り切れてないんだけど!」


 このスピードで疾走する船に乗っているとは思えないほど、それは良く通る声だった。彼女の視線の先には二人の乗る船を追う、大型のボート。

 最新設備を備えたそれは、この港を取り仕切る香港系マフィアの三合会トライアドの下部組織の持ち物と思われた。


 つまり彼らはマフィアに追っかけられているのである。


 返事がないことに焦れたのか、女性が再び問いかける。


「ねえ聞いてるの!?」

「聞こえてますよ、ミズ.コニー!振り切れてないのはわかってますから!」


 進行方向から片時も目を離さずにクァンが叫び返す。


 そもそも両者の馬力が違う。

 いくらクァンの船がホンダ製のハイパワー水冷エンジン(もちろん中古のレストア+違法改造品)を搭載しているといっても所詮小型船舶用である。

 彼我の距離は徐々に縮まってきていた。


「近づいてきてるじゃない!なんとかしなさい!」

「ああもう!これならどうだ!」


 クァンは決意したように、舳先を波止場の方に向け、停泊している地元民の木造漁船がみっしりと並んでいる隙間を縫うように駆け抜けていく。

 クァンの船でもぎりぎりの隙間で、どう考えても奴らの船は抜けられない、はず。


 淡い期待を打ち砕くかのようにガラガラゴシャンという音が後方から響く。あろうことか、彼らは漁船を意に介さず、破壊しながら彼らの後を追いかけてくる。


「無茶苦茶だ…」


 冷や汗を一筋垂らしながらクァンはつぶやいた。



 発端はショートメッセージで届いたちょっとした依頼だった。

 ある女性を所定の場所まで送り届けてほしい、という単純な依頼。

「運び屋」クァンの仕事としては通常業務に含まれる範疇の仕事のはずだった。


 しかし待ち合わせ場所に現れた女性はゴロツキどもと追いかけっこの真っ最中で、港の岸壁からクァンの船に飛び乗ると、そのまま発進を命じたのだった。


 クァンは思う。船の向きが悪かった。

 いつものように舳先を岸壁に向けていたら船を出すのを諦めていただろう。


 どう見ても厄介事である。

 同じ恨まれるならゴロツキどもよりは依頼人の女性の方がマシなはずだ。


 だが、その時に限ってなぜだか舳先を海の方に向けていた。

 考えるより先に言われるがままに船を発進させてしまっていた。後悔してももう遅い。

 結果、謎の追いかけっこに見事にクァンも巻き込まれ、港中をを高速で走り回る羽目になった。



(俺、もうこの港で仕事できないな…)


 そもそもここまでの間にもこの世で仕事がもうできないかもしれない瞬間を何度も通り過ぎてきた。

 その一点だけを回避すべく、必死でボートを操り続けてきたが徐々に港の隅まで追い詰められつつあった。


「…諦めた方がいいんじゃないですか?さすがにこのボートじゃ逃げ切れませんよ」


 恐る恐る女性に尋ねてみる。全く事情を知らないが、まだ今ならこの女性を差し出せば、命だけは助かるかもしれない。

 返事の代わりにクァンの後頭部に冷たい金属の筒が押し当てられる。


「いま死ぬのと、あとで死ぬの、どっちがいいかしら?」


 不気味なまでににこやかに女性が問いかけてくる。どうやらクァンには逃げ切るという選択肢しか残されていないようだった。

 それならば。


「わかった。わかりましたよ。じゃあとりあえず銃を下ろして、頭を下げていてください」


 クァンは港の中のある場所へ舳先を向ける。そこは違法に水上生活を営む人達が住む一角だった。

 水中へ簡素な柱を何本も立ててその上に勝手に小屋を建てており、水上にスラム街が形成されている。


 クァンはスピードを落とさず、その建造物群へと突っ込んでいった。


 建物の床は水面ぎりぎりの物もあれば、多少高さをもって建っているものもある。そもそもクァンはこういったところへ格安で燃料や雑貨、食料を届けるのが仕事のほとんどだ。

 どこがこのボートで抜けられて、どこが抜けられないかは熟知している。

 ただ、波にさらわれたり、勝手に増築されたりして、スラム街の構造は日々変化している。クァンの知っているルートが今日通れるかは、正直賭けの部分もあった。加えて通常ではありえない船速。いつもよりも喫水線が浅くなっているはずだ。


 案の定、いつもなら余裕でくぐれる場所が、ぎりぎりだった。

 前方が見えるぎりぎりまで姿勢をかがめているクァンの頭の上を、床の木材がちりっ、と掠めていく。

 さすがに喧しかった女性も完全に黙りこくり、完全に船の縁よりも下側にうずくまっていた。それでも途中で彼女の帽子がわずかに飛び出た床材に引っかかって持っていかれた。


 最大限の集中力を持って水上の迷路をすり抜けていく。

 もはやクァンはこの船と一体と化していた。


 じりじりとした数分が過ぎ、ようやくスラム街を抜け、港に何本も流れ込む川の一つに抜けられる、と思った時、目の前にスラム街の住人の操る簡素な筏がぬるりと飛び出してきた。


 避ける間もなく、衝突する。


 筏を真っ二つにし、クァンの船の舳先もひしゃげる。直撃を免れた住人は川に放り出された。

 クァンと女性はどうにか船から放り出されることは免れたが、壊れた筏の一部にエンジンが激突した。


 木材の破片がぶすりと刺さったエンジンは沈黙し、ガソリンを垂れ流している。船は惰性で数メートル川を遡ると、そこで完全に止まった。ここまでだった。振り向くと、大型ボートは追ってきてはいなかった。


「ここまでです」


 両手を降参のポーズで掲げて、クァンは女性に宣言した。女性はボートの上に立ち上がると、意外にも満足げに答える。


「そのようね。いいわ。目的は果たしたから」


 ひょいと彼女は岸辺に乗り移り、ハンドバックから札束を取り出すとクァンへ放り投げる。慌ててクァンがそれを受け取ると、「それは追加報酬よ」と言って女性はそのまま町の方へ去っていく。

 呆然としたまま彼女をクァンは見送った。

 背後でスラムの住人がクァンに悪態をついてくるが、それも耳に入っていなかった。角を曲がったところで、女性は何者かに手を掴まれてバンに連れ込まれたようにも見えたが、もはやそれを確かめるつもりはクァンにはなかった。



 港での大立ち回りはすっかり付近の住民の話題の種となっていた。


「おうクァンよ、この間はずいぶんと大騒ぎだったじゃねえか」

「おやっさん、勘弁してくださいよ」


 なじみの漁師が夕飯の魚を買い求めに来たクァンに声をかける。


「あの騒ぎで結局エンジンはまるごと買い替えだし、スラムの人たちにも迷惑料でお金を渡して、もうけなんてほとんどない仕事だったんですよ」

「まああんだけ暴れてよく生きてたもんだ」

「ほんとですよ。もうこの港にいられなくなると思ってました」


 意外にもその後マフィアはクァンには無関心だった。

 数日はびくびくしながらねぐらで過ごしていたクァンだったが、漁師に述べたように報酬はほとんど手元に残らず、仕事を再開しなければ飢えるのは確実だったため、おそるおそる元の仕事を再開していた。


 買い替えたエンジンをポンポンとふかしながらねぐらへのルートをゆっくりと移動していく。船の先端はひしゃげたままだ。

 小さな橋げたをくぐり抜けた時、いきなりボートに人が飛び乗ってきた。


「ハァイ♪ちょっとそこまで乗せていってね」


 コニーと名乗ったあの女性だった。あの時のつば広帽子を上機嫌でくるくる指先で回している。


「あなた無事だったんですか!?」


 クァンは驚いて声をかける。


「あら、ということはあたしが捕まったところを見てたのかしら。顔に似合わず冷たいのね」


 冗談めかして女性が告げる。


「いや、勘弁してください。もう俺を巻き込まないでくださいよ」

「ごめんね。ちょっと忘れ物をしちゃったの」


 言って女性は船の舳先付近の隙間から、ビニールに包まれた小さなメモリーカードを取り出した。


「え?」


 驚くクァンを無視して、つば広帽子から謎の部品を取り出すと、メモリカードをぱちりとはめ込む。


 クァンに向かって内緒話をするかのように人差し指を口に当て、ぱちりと一つウインクをすると、彼女はするりと船から降りて、いずこともへもなく去っていった。


 再び呆然と女性を見送ったクァンは、船のメンテはこまめにすることと、

 出どころの分からない依頼は絶対に受けないことを心に誓ったのだった。

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