証言者 011 ≪ 神と出逢った男

 




■ 練馬区内在住の小学3年生

  福地ふくち 純星じゅんせい ── Said





「おい純星ぃ!」


 ピアニカの声が福地純星の背中を勢いよく叩き、背筋が冷たくなった直後、彼の耳から蝉時雨が消えた。今まであんなにも泣き喚いていたのに。


 声の主が誰なのかは、わざわざ首を振り向かせなくてもすぐにわかった。しかし、無視したのではかえって乱暴に制止されることが火を見るよりも明らかだったので、まったく乗らない気持ちを奮い起たせて振り返る。


 木立の少ない、今は茜が1色の公園である。背後に団地の威を借る、お世辞にも巨万とはいえない公園。雲梯うんていと登り棒と滑り台と砂場を統合──すっかりモチーフのぼやけてしまっている遊具が隅に1基だけ置かれた、自由度の高い不自由な児童公園。


 その中央に、福地と同じ背丈の男児が3名、胸を張ってこちらの車道を向いていた。


「どぉこ行く気だよぉ純星てめぇ!」


 特に、まん中、毒々しい赤のTシャツをまとう坊主頭の男児ときたら、肥満予備軍の威光を蓄えすぎていてもうハチ切れんばかり。


 福地の同級生で全3年生のボス、春日力輝かすがりきだった。手下は数知れず、常に傍若無人、口も悪く、泣けばランドセルをぶんぶんと振り回してきてさらに手に負えなくなる。実はマザコン気質なのだが、もちろん揶揄できる者など誰もいない。


「どこって、塾だけど……」


 茜を帯びた赤がまぶしく、目を細めながら答える。


「ああ? 聞こえねぇよ!」


 腹から声だせぇ!──三下奴さんしたやっこの間の手。


「塾だよ」


「聞ぃこぉえぇねぇ!」


「ジュク! 塾だよぉ!」


 すると春日、


「あんだ純星、ケンカ売ってんのかよてめぇ!?」


 腹から声を出すように促しておいて、出したら出したで喧嘩腰を近づけてくる。


 いつもこんな感じなのである。まともな会話なんてできたためしはない。いや、そもそもこの春日軍団のほうにまともな会話をする気がない。ただ単に福地をイジめたいだけである。彼をイジめられる口実となるのであれば、別に歩いていようが止まっていようが、小声でいようが腹から声を出そうが、なんでもよい。手段は選ばないし、理屈にもこだわらない。


 福地と春日は、幼馴染みといえば幼馴染みの関係である。保育園の年中生の時からのつきあいになるのだから、およそ5年の間柄。父親の仕事の関係で千葉から東京へと引っ越し、そこでさっそく春日と出会い、さっそく目をつけられてしまったというわけだが、世間とは残酷なもので、この悲惨な間柄のことさえも「幼馴染み」と称したがる。腑に落ちない。


 小学校へとあがったとたん、春日には手下ができた。周りを泣かせることを専門とするフリーランスだったはずなのに、いつの間にやら大店おおだなのCEOに成りあがっていた。そして多勢を武器に福地を呼び止め、腹から声を出させ、あげくの果てには詰め寄ってくる。


 腑に落ちない。が、勝てっこない。


「塾だよ。遅れちゃうよ!」


 わずかに後退りしながら赦しを乞うた。


 しかし春日は、


「あんだてめぇ、塾だぁ!?」


 こんなことを言うのである。


「じゃあ、てめぇはなんのために小学校に通ってんだよ? 塾があるんなら別に学校に通わなくたっていいじゃねぇかよ?」


 そうだよもう来なくていいよ純星ぇ──すかさず手下の間の手。


 そうは言われても、一方は義務教育なのだし、もう一方はなのだから、どちらも取り組まざるを得ないわけで、どちらかを削るだなんてできっこない──などという反論はもちろんできっこない。


 服装からしていかにも気の弱そうな福地である。緑と紺のストライプが入るパリッとしたポロシャツに浅葱あさぎ色のハーフパンツ、純白のロングソックスに灰色のスリッポンスニーカーと、半分以上が母親のコーディネートながら、誰が見ても「ボクちゃん」と形容したくなるかしこまったファッション。髪型だってアレンジしようもない純正ショートカットだし、アニメに出てきそうな美少年顔でもない、むしろ凹凸の少ないルックス──藤子不二雄の漫画で見事に主役を張れそうな、今いち伸び代の見えてこない平凡な少年なのである。


 美しさとは縁がない。そんなはない。


「おらなんか言えよ純星ぇ!」


 こうして、福地はいつものように進退きわまってしまった。


 と──その時のことである。


「おまえは小学校で100%を培っているとでもいうのか!?」


 まごつき、文字どおりに項垂れてしまった福地の背後で、突如、1970年代のアンプにつながれたオルゴールのような、ディストーションのかかる怒声が響き渡った。


 発作的に肩をすくめる福地。そして恐る恐るに振り返ると、そこには、


「小学校に用意されてある1から100まで」


 西陽の羽根を持つがいた。


「すべてをこなしているんだなおまえは!?」


 仁王立ちからわずかに広げられた両のかいなは、まるで強力な爪を隠し持つ巨翼のよう。


「どうなんだ!?」


 円らなタレ目が目一杯に開かれ、それは福地ではなく春日たちのほうを捕えていた。それから、いっさいの間を置かず、くちばしを尖らせながら、


「おまえだよおまえに訊いているんだ!」


 右の人さし指、ならぬ人刺し爪を剥きながら、なんの躊躇もなくズカズカと一直線に春日軍団との距離を縮めはじめた。


 ひィ!──さしもの3名も息を引きらせる。


「おまえはそんなに完璧な人間なのか!?」


 競歩のスピードで、


「なにをもって証明するんだ!?」


 周りを気にせず、


「完璧であることを証明できるんだな!?」


 ウェーブの鶏冠とさかを背後に靡かせながら、


「まずは証明せよ! それができてこそ胸を張る権利は燦然と輝くのだ!」


 喰らう勢いで、


「証明なき空を闇というのだ!」


 脱兎のごとくに逃げ出してもなおズカズカと、


「手探りの闇に張られた胸など誰も胸とは気づかぬわ!」


 とうに固まっている福地を追い越したあたりでようやく立ち止まると、


「ならば灯をともせ!」


 すっかり豆粒と化した3名に向かって、


「人類が炎を手にしたほどの永い刻をかけて培え! 証明とはすなわち、永遠の勉めと知れッ!」


 茜色の猛禽は、ケーンと高らかに鳴いた。


 知れッ。知れッ。知れッ──こだま


 からららら──いっせいに開かれる周囲の窓。


 おうぇあぁ──遥か彼方の高校から部活のものと思しい声援。


 ぱぱッ──挨拶代わりのクラクション。


 そうした、足し算によってもたらされた暴力的な静寂しじまが辺り一帯を支配する。


 すると、


「……少年よ」


 今度は充分な間を置き、すぐ目の前、西を向いたままの猛禽が穏やかに嘴を開いた。


「この世界に用意されてあるすべてを消化することなんて誰にもできやしないんだよ」


 暴力的な静寂の主の声──オルゴールの調べ。


「40%か80%かはそれぞれながら、100%は誰にも熟せず、人は必ず足りない日々を送っているんだよ」


 しわしわしわしわ。いま羽化したばかりのように油蝉が鳴きはじめる。果たして……彼らは最初から鳴いていただろうか?


「足りないパーセントをどこかで補わなくては立ち行かなくなることもある」


 やおらに、猛禽の顔がこちらを向いた。


「ならばどこで補う?」


 茜色のその皮膚にはひとつの毛羽も立っておらず、まるで滑らかな純金のようでもあった。


「それが、例えば、塾なんだよ」


 なんて美しい──足りないものだらけの小学3年生だからこそたどり着いた、無駄のない、まっさらな感動だった。


 ところが、


「少年よ。君は美しい」


「え?」


「証明を目指す歩みが美しいんだよ」


 美しい──初めて言われた。


「懸命に胸を張るんだよ。君には、それをできる権利があるんだよ」


 さぁ、早く行くんだよ──そうさえずり、わずかに巨翼を広げると、猛禽は福地の向かうべき道へと傾いた。


 その所作に、福地はを見た。


 そう、あれは、エジプトだったか。


 最高位の神は猛禽だったか。


 ふくろうだったか。


 はやぶさだったか。


 ホルス──だったか。


きことの、なお見苦しくとも胸を張る、限りある身の力ためさん」


 猛禽の姿をした神はそう唱い、くるりと背を向けると、西陽の最果てに向かって悠然と羽撃はばたき、やがて、消え去った。


 福地は、出逢った。


 練馬で、蛮勇の神と出逢った。





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