証言者 010 ≪ 気取る女
■ 練馬区内在住の中学3年生
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
(変な掛け声)
特に驚くことなく、いつもどおりにそう思ってから、篠田樹里は車道の左端へと身体を寄せた。
いつものことなのである。いつもこの一車線の車道を、近所の高校の、何部なのかもわからないユニフォーム姿の少年たちが走っている。まるで篠田の下校時刻に合わせてでもいるかのように疾風を浴びせられる毎日なのである。
恐らくはスタミナを鍛えるための長距離トレーニングなのだろうと、驚異の運動音痴、よもや体育会系の部活動を経験するはずもない中学3年生の彼女にもおよその察しはついていた。もしも鍛練でないとすれば、もはや前衛パフォーマンスと形容するより他に選択肢はないだろう。
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
(近所迷惑)
変な掛け声に背後を近づかれながら、よくこんな都会的な住宅地に祭り囃子を響かせられるものだと、響かせるように指導したものだと、響かせてもよいと許可したものだと、いつもどおりに感心してみる。
(こんな掛け声を聞きながら夕飯をつくる主婦が気の毒)
しわしわしわしわ──朱と蒼の入り雑じる住宅地に鳴り止まない蝉時雨。薄命の切なさを醸し出しつつも、実際には子孫繁栄に躍起になっている。人間界においてはひとまずの終わりの時である。今日1日の疲労を翌日へと引き継がせないよう、夫は無言で怠け、妻は饒舌に動き回り、子は勉強机の上で手抜きのタスクをおぼえる──そんな、確約された時を迎えている。
ところが、
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
(こんな恥ずかしい掛け声を楽しそうに口にできる
油蝉のように、まさにこれからがはじまりだといわんばかりに、力強く掛け声を響かせている。タフで疲れ知らずといえば聞こえはよいが、要するに単純ということである。目先の楽しさだけに集中でき、帰宅すれば水分を失ったカエルのようになって熟睡し、翌日の午前中もまた教室で熟睡するに決まっている。疲労感のピークの時間帯が世間一般とはズレているという、つまり、しょせん男子児童なんて反社会的なお子様であるとの形容に尽きるのである。
(私でさえも疲れるんだから)
なおさらである。
かつては書道部に在籍していた。が、1度も燃えることなく引退し、現在は高校受験のまっただ中にいる。もちろん狙っている高校はあるのだが、だからといって特に肩の凝る状態でもない。なぜならば、篠田の学力であれば楽勝の高校だったから。ゆえに、書道部の時よりも断然に燃えていない。
しかしながら、
(楽勝なのに、疲れる)
激しく運動し、あるいは頭を回転させなくては疲れないのかといえばサにあらず、なにをしていなくとも人間とは疲れる生き物である。重力や引力や揚力によって、人間とは疲れるようにできている生き物なのである。
(揚力はないか)
ない。
(鳥人なんて存在しない)
空を翔びたいと思ったこともない。翔べたところで人生が激変するわけでもない。どうせ、その時はその時で、翔べる状態に見合った疲れる毎日を送るに決まっているのだから。
(だからといって
疲れたとしても、それは疲れた側が悪い。
社会が悪いとか、大人は信用できないとか、動画配信サービスの
(大人だって、別に若者に好かれるために生きているわけじゃないんだし)
苦情を叫んだところで、どうせ「
(自分の人生は自分のものでしかない。そこに老いも若きも関係なし)
当たり前のことを篠田は知っている。だから、この大人のつくった社会に対して文句を抱いたことはない。燃えないのも、疲れるのも、すべて自分に問題があるからだと思っている。
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
(どうせ彼らもまた教師への不満をタラタラと垂れている側なのだろう)
鞄の重さに文句をつけ、空調設備に文句をつけ、
(そんな若者にはなりたくない)
大人はなにも悪くない。むしろ若者のために充分に働いてくれている。なんなら冷ややかな目で静観したっていいのに、必要最低限のお世話はしてくれている。
(なのにせっせとクダを巻く。
老害よりもタチが悪い。
(こんな若者にはなりたくない)
未熟な若者は、すでにそれだけで罪である。知識もなく、教養もなく、働いたところでどうせ使い物にならず、社会に迷惑をかけるばかりの
疲れたとしても、燃えないとしても、つまらないとしても、思いどおりにならないとしても、それは
(そこそこ社会的に機能するようになる日がくるまで)
篠田はそう思う。
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
この変な掛け声を許した大人たちは偉い。教師も、周辺住民も。
(諦めてくれてもいいのに)
蝉時雨とは段違いの厚待遇である。
東京都内で最もローカルな風味を漂わせる練馬区、しかし、ここ練馬駅の南に位置する住宅地は珍しく都会を気取っている。一般宅、雑居ビル、団地、小さな飲食店もが混ざりあい、いかにも東京然としている。なるほど、中野区と豊島区、板橋区が間近に隣接しているのだから気取りたくなるのも無理はない。
とはいえ、だからこそこの掛け声が恥ずかしい。まるで異端児を気取っているかのようで、調子がいいというか、天狗になっているというか、若さを
(諦めろ)
どのみち革命やデモを起こす知恵も勇気もない
わずかに肩をすくませ、静電気のような身震いをひとつ。そして篠田は天を仰いだ。
しわしわしわしわ──蒼が鳴いている。最近は雲を見ていない。静かな雲。空が狭いというのも理由のひとつだが、この普遍的な鳴き声が雲を雲と認識させてくれないのかも知れない。見えてはいるのだが、呪文のように、日本晴れだと錯覚させているのかも。
(諦めよう)
蝉の世界に世代はない。時代もない。近代も古代もない。しわしわしわしわ──ただそれだけの世界。
普遍の摂理を相手に、人間にどうこうできるわけもない。
帰宅すれば温かいご飯が待っている。また今夜も生きていられ、そして明日も明後日も同じだろう。母も父もともに忙しい教師だが、決して
疲れるのも、燃えないのも、やはり自分が悪い。正確に諦め、慎ましく項垂れるべきである。
そうして、篠田の視線が天から地へと落ちてすぐのことだった。
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ!
何部なのかもわからないユニフォームの塊がようやく篠田を追い抜いていった。慎むことなく、むしろ彼女にアピールするかのように声高に掛け声をあげながら。
(灰色の汗)
ちらと睨んだ白いユニフォームは、どれも大量の汗で背中にへばりつき、くすんで見える。
視線を這わせた篠田のほうがヘトヘトになりそう。
すると、
「てか詩帆さんはついてこれてんの?」
先頭を走る長身サラサラヘアが首を振り返らせ、眉間に皺の困り顔で仲間に尋ねた。
(シホさん?)
「いないよ?」
「いなくね?」
仲間が呼応しあうと、
「どんな風の吹き回しでジョグに参加してきたかと思ったんだけど」
サラサラヘアが、
「詩帆さんってなんでボールを持ってないとスタミナが溶けてなくなるわけ?」
半笑いで首を傾げる。そして、
「でもまぁ、そんなトコもアレだけどな……」
呟くと、仲間内からは、
「違ぇねぇ」
低く下卑た笑いが起きた。そのまま、下卑たまま、次第に塊は小さくなり、最後には角を曲がって消えた。
(やっぱり男子って生き物は)
なんにでも集中できてしまう実に単純な生き物である。
(恋は盲目ではない、妥協だ)
とも思ってみる。
(つまり、思考停止の境地だ)
とも思ってみた。
その直後、
「ぜ。ぜッ。ひゅッ。ぜぃッ。ぜッ」
聞いているこちらのほうが息苦しくなりそうな喘ぎ声をあげながら、長髪の人影が篠田を追い抜いた。
少女だった。
腰まで伸びたウェーブの黒髪、篠田と同じぐらいに小柄な体躯、白いユニフォームの華奢な背中、仄かな仄かなカカオの香り──最後のカカオは今いち謎だが、やはりどう見ても少女である。
そして、目の前、5メートルほど先に到達したあたりで不意に少女は急ブレーキ、立ち止まった。次いで、こちらへと首を振り向かせる。
「あ……」
絶句するほどの、美人。
フェレットみたいに小さなタレ目、オコジョみたいに小さな鼻、アヒルみたいに尖った唇──総合すればチョウゲンボウ。
ホバリングのように立ち止まったまま、きんッと、猛禽の美貌が篠田を睨んだ。いや、睨んだというか、驚いたというか、UMAを発見したまなざし。
瞼をも潤すほどの大量の汗。太古の輝き。悠久の輝き。生きた証を濃縮した琥珀の輝き。そんな、宝石の大陸に異彩を放っていたのは、ヘトヘトとは無縁の眼力。捕えられそうな、食べられそうな、骨にされそうな、まさに野性の眼力。
勾配のキツい眉と黒目がちな眼力をもってして、しばしまじまじと篠田を捉えていた猛禽少女チョウゲンボウだったが、
「なぁんだ」
「え?」
急に、
「ただのマイノリティ気取りか」
残念そうにチークをたわめ、
「普通だな」
「若者という観念に従属する奴隷……どこにでもいる」
見限ったかのように首を戻すと、ふたたび脚を前へ。喘ぎ声も再開させ、塊の足跡をたどっていつの間にか消えた。
篠田は、すっかり立ち尽くしている。
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ
わーっせわっせわっせ
わっせほーいなぁ──。
遠くで、まだ掛け声が聞こえる。
しわしわしわしわ──。
普遍の摂理と、鎬を削っている。
【 Be Over 】
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