証言者 009 ≪ 先入観の男
■ 練馬春陽高校2年3組の生徒
「リンゴは赤い」という連想ゲームを耳にし、仁科靖典は即時に青リンゴの立場を思いやったのである。
(農家もがっかりだろう)
こつこつと育てあげた我が子が社会適応対象から除外されたも同然なのである、不憫と言わざるを得ない。
そう考えると「青リンゴ」という表現もまた不憫さを伴う。緑色の立場がないからである。
(緑色の立場? じゃあ、エメラルドグリーンの立場はどうなる? ビリジアンの立場は? ジェードグリーンかも知れないぞ?)
キリがないとここで気づく。
(慣用句というヤツか)
歴史解釈も必要だろう。なにしろ、平安時代ぐらいまでは色名が「赤・青・白・黒」の4つしかなかったのであり、他の色は形容的情緒的なセンテンスで表現されていた。そもそも「青」だって「薄い」とか「未成熟」などの意味が付随されており、よって、色の薄いリンゴや未成熟そうに見えるリンゴを指して「青リンゴ」と慣用していたわけである。
緑色のリンゴを指して「青リンゴ」と表現するのは、時代の名残という見方も加味すれば、まぁ、納得の範囲内かも知れない。
しかし、さすがに「リンゴは赤い」という連想だけはいただけない。それは青いリンゴに対する完全なる差別である。農家もまっ青の無慈悲なのである。
(実際にはまっ青にならないが)
『アバター』のような状態を「まっ青」というのだが慣用句なのでセーフ。
(黄色いリンゴまである時代だ)
青森県産の『きおう』『シナノゴールド』『星の金貨』『金星』などがその一例である。特に『金星』は黄色を
(いや、肌色という表現もまた差別か)
黒人や白人の立場がない。
(それを言ったら、黒人や白人という表現もどうかとは思うのだが)
「黒」とは、カラーコードで「#000000~#262626」あたりの色。なかなか
(ベンタブラックの例もあるし)
記号的単色として捉えるのではなく、光の吸収率や屈折率でもって多角的に捉えるべきである──と
(なるほど、黒人や白人という表現もまた慣用レベルにあると見るべきか)
差別はいけないが区別は必要──という意見は頻繁に見聞する。差別は秩序を崩壊させる行為だが、区別は秩序を保持する行為だと。なるほど「みんな違ってみんな良い」だけでは、おのおのが勝手気儘にしていても良くなってしまい、結果、ルールもマナーもなくなる。少なくとも
つまり、黒人や白人という表現もまた慣用の範疇にあるに過ぎないのである──と。
(とはいえ、黒人・白人という区別をなくしたら、果たして秩序は崩壊するか?)
少し考えてみるのだが、まだ高校生、圧倒的に社会経験の乏しい仁科にはそのへんのところがよくわからない。白・黒と区別することにどんな意味があるのかが。どんな秩序を、どんなルールやマナーを求めてのことなのかが。線を消して、そこにどんな支障が生まれるのかが。
(支障はなさそうに見える)
史学や民俗学などの虚学的には支障があるのかも知れないが、
(もしも支障がないと断定されれば、さっそく肌色という表現に綱紀粛正のメスが入るのかも知れないな)
すでに入っているのかも知れない。
(肌色ではなく、
「梨色のリンゴ」と。
(Oh……)
よもやの
(差別・区別というのも難しい分野だな)
まるで哲学のようにも思える。しかし、残念ながら仁科には哲学に対する意欲も知識もない。ので、やむなく思考をもとの軌道へと戻す。
(青色のリンゴは、果たして存在するか?)
慣用としての「青」のほうではなく、色種としての「
で、
しわしわしわしわ──。
いつまでが夏だったか、たった1年前のことさえも記憶野から奪い去る酷暑である。終点がわかれば乗り越えようと奮起もできるのだが、どう頭をひねっても思い出せず、仁科はまったく覚悟を決められない。それはクラスメートも同様らしく、誰も彼もが完全にボイルされてほぼ保存食と化している。しわしわしわしわ──生命力があるのは飛び方の下手な彼らだけ。
しばらく雨も風も見ていない。
「涼しいといえば氷」
「氷といえば滑る」
「滑るといえばダジャレ」
「ダジャレといえばサムい」
「サムいといえば冬」
「冬といえば氷」
「氷といえば冷たい」
「冷たいといえばウチの親」
「ウチの親といえばダジャレ」
「ダジャレといえば面白い」
先ほどから、2年3組の教室内に連想ゲームの声が漂っている。仁科の前の前の席がその現場である。生命力はなく、あくまで気怠そうにではあるものの、なんとかして食物連鎖の頂点にしがみつこうと土壇場の足掻きに尽力しているのがわかる。とはいえ、
(いくつか重複があった)
掌返しもあり、いかんせんツッコミどころが満載で、しかしそうとも気づかずゲームを続行──やはり彼女たちも正常な思考回路ではない様子。
「面白いといえば七並べ」
「七並べは苦手」
こうして、危篤状態に陥りながらも懸命に真夏と戦っているのは
「苦手といえば納豆」
「納豆は好き」
(相楽は相変わらず
このふたりのせいで仁科は野口五郎へとたどり着いたのである。確か「先入観」がスターティングテーマだったはずなのだが、いつの間にやらゴールテープの存在しない関ケ原で肩を落としていた。
(岐阜県に行ったことはないが)
「関ケ原」と聞くと「合戦場」や「陣跡」を連想する。そして「関東と関西の味の境界線」とは連想しない。前者の合戦は見たこともないのに、そして後者は
(なぜだ?)
「岐阜県不破郡関ケ原町を主戦場としたらしい関ケ原の合戦」と「岐阜県不破郡関ケ原町の観光的アピールポイント」という明確に異なる題材を混同して考えるからである。しかし、残念ながら仁科はそこに気づいていない。
(関ケ原の合戦のほうが有名だからか)
惜しい。それだけではない。本当に有名かどうかの考証もできていない。
(……難しいな)
酷暑に考察できるような問題ではない。案の定、左の脳が微熱を帯びている。ゲシュタルト崩壊も
「大きいといえばトド」
「トド肉はクソマズい」
(なに!?)
食べたことがあるというのか。
(やはり相楽は要注意だな)
美人だが要注意人物である。
(美人だが要注意人物──という認識もどうかと思うのだが)
上には上があるので問題なし。まだ可愛い先入観である。
(上……)
ざっと教室を見渡した。その少女は……今はいない。仁科はホッと胸を撫でおろす。いつこの机を占拠されるか知れたものではないからである。
(なにしろカカオの匂いがするのだ)
香水なのか柔軟剤なのか石鹸なのかは知らないし、そんなニッチなコスメがどこで売られてあるのかも知れないが、とにかく南米的なフレイバーを振り撒くエニグマな少女である。
(神出鬼没でエゴイスト、絶望的なコミュニケーション能力とトークスキルで必ずや場を荒らす、サッカーを愛してやまない小柄な美少女)
属性がごちゃ混ぜの少女である。ピンキリも考えずにすべての魔法を修得した
(多感な男子高校生の気持ちも考えてほしい)
しかし忖度を求めたところで叶えてはくれまい。そういう少女なのである。
(先入観ではない)
きっと真実。
ゆえに仁科は立ちあがれないでいる。先ほどからわずかに尿意をもよおしているのだが、トイレに行くために席をあけてしまうことが非常に躊躇われる。戻ってきてみれば机の上を占拠され、貴重な行間なのに心身を休められない
(次の授業中にダムが決壊──か?)
4時間目がはじまるにはまだ猶予がある。そして
(賭けに出るべきか)
幸い、あの少女は人を選ばない。今回の犠牲者は自分ではないのかも知れない。
(……いいだろう)
賭けよう──掌で数えられる
固唾を飲み、覚悟を決め、仁科が腰を浮かせた矢先のことだった。
前方の
それを見るなり、同じく2年3組の
「あ、映美。
すると──、
「詩帆さん?」
河田は、こう、答えたのである。
「いま男子トイレで素振りしてる」
(なに!?)
「へぇ、今日は素振りなんだ」
「ちらっと見えたのよ。
「あはは。詩帆さんらしい」
(男子トイレで……?)
仁科は驚愕した。
(進退、
思わず頭を抱える。
(2年生のトイレは絶望的というわけか。かと言って学年の壁を越えるような勇気もない。ということは──)
仁科よ。
(もはや我慢する以外に術はないようだな!)
仁科よ、そういうことではない。
【 Be Over 】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます