ふたつ

☆☆☆☆



 足元で黒猫が鳴いていた。

 首輪のない野良猫だった。猫はヒダリの足首に耳を擦り付けてきた。ぴんと張ったひげがチクチクとした。ヒダリはその場に屈み、猫の額を撫でた。粗い絨毯のようだった。


「キミも予定がないのかい?」


 夏風が砂埃を運ぶ。

 猫は身体中、砂にまみれていた。それを嫌がるような様子はなかった。それもそうか、とヒダリはひとりで静かに頷いた。「この黒猫とボクは、なんだか似ているのかもしれない」と勝手に思う。ヒダリ自身を動物に例えるのなら「クマ」だと思っていたが、今日からは「ネコ」になりそうだ。


「ミィー」


 猫は道路を見つめていた。ヒダリはその視線を追った。

 向こう側の車道の上に、一匹の猫が寝転んでいた。茶色い毛並みと赤黒い模様をしている。あんな場所で寝ているなんて、大胆な猫だ。都会の猫は図々しさがある。


「……あ」


 しかし、ヒダリは遅れて気付いた。

 猫は単に寝ているのではなかった。

 赤黒い模様は、生来のものではなく、後から付けられたものだったのだ。

 車のエンジン音が傍らを通り過ぎた。排気ガスが空気を汚していく。

 猫はこんなにも醜い場所に、その肉体を置いていった。


「なるほど、そういう予定だったんだね」


 ヒダリは立ち上がり、車道を横切った。

 もう動くことのない猫に寄り添う。命を落としてから数日経っているのか、肉の据えた臭いが立ち込めていて、眼にしみる。脇腹から艶やかな内臓がはみ出しており、白い線虫が肉に潜り込んでいた。流れ出た血は砂埃と混ざり合っていた。猫はすでに猫ではなく、何者でもない物体に成り下がっていた。

 ブォーン、ブォーン……ハエが羽ばたく音がする。

 屍体には首輪がついていた。か細い黄色の革ベルトだ。幸運の黄色は猫を守ってくれなかったらしい。誰かにとって意味のある存在だった、この猫のことをヒダリは静かに想った。


「せめてもの手向けにね」


 屍体を抱き抱えるようにして持つ。生暖かい肉の感触がした。猫だけが持ちえる、引っ張ればどこまでも伸びていきそうな、柔らかい肉体。もう魂を失ってしまった、空っぽの器。それを胸に抱えた。

ヒダリの顔の前でハエが飛び始める。鬱陶しいほどに音を立てている。

 通行人が「エッ!?」と声を上げている。逃げるように場を去る者もいれば、スマート・フォンをヒダリに向けている者もいる。カシャ、とシャッター音が聴こえたりもした。ヒダリはそれらを全く気に留めなかった。どこに公開されようが知ったことではない。むしろ、この猫の死が周知された方がいいとさえ思う。誰かひとりでも、この死が生きていたのだと覚えていてくれたら、それでいい。

 猫を抱えたまま道路を戻り、先ほどの黒猫が居た場所に屍体を置いた。飛んでいたハエは屍肉と共に移動し、ヒダリの眼前から離れていった。ふぅ、と息をつく。


「キミが呼んでくれてよかったよ」


 足元の黒猫はヒダリを離れ、屍体に寄り添った。小さな舌を出すと、形の崩れていない、腐ってもいないその鼻筋を舐めた。ぺろりぺろりと何度も舐めた。その様子をヒダリは見届けていた。黒猫はずっと舐め続けた。日差しの音がやかましいほどに聴こえてくるようだった。

 噴水で手を洗ったヒダリは、猫たちの居場所に戻った。

 黒猫は屍体に寄り添っている。顔を舐めたりしている。小さな鳴き声を上げている。彼、あるいは彼女が今、何を思っているのかヒダリには分からない。ヒダリ自身が猫ならばまだ理解できそうだが……。生物の壁は厚いな、と思う。

 真上の太陽から正午だと知る。頭部がジリジリと焼ける。ホワイトアッシュでも熱いものは熱い。黒髪はもっと熱いはずだ。


『何やってんの』


 突然、声をかけられた。女性のようだが、女声としては低い、音域でいえばアルト・コントラルトあたりに相当する、輪郭のはっきりとした声だった。ヒダリの声よりも強く、存在感があり、安心感がある音。ヒダリは振り返らなくとも誰だか分かった。いつもこの声を聴きたくて、彼女を喋らせたいと思っている、そんな声が。


「やあ、偶然だね」


 振り向くと案の定、そこには御船ナギがいた。黒いバンドTシャツ(ガイコツが中華料理を食べている絵が描かれている)とホットパンツ、黒いスリップ・オン・シューズ、黒いキャップと、ほぼ全身黒づくめだった。世界中の黒い物を集めるとその中に入れられてしまいそうな格好だ。その反面、シャツとパンツから伸びる白く細長い四肢が眩しかった。高身長の彼女は薄着でも『さま』になる。会うたびに、ヒダリは彼女をうらやましく思うのだった。


「ナギこそ、こんなところで何を?」


「別に、なんでもいいじゃあないの」


「意味のない行動は嫌いなのでは?」


「そういう日もあるし、そういう日もない」


 なるほどね、と会話が途切れる。

 ナギはベンチにどすっと腰を降ろし、持っていたペットボトルに口を付けた。おそらくジンジャー・エールだろう。それも辛い方だ。ヒダリは甘い方しか受け付けないので、彼女はいくらか『おとな』である。


「で、おひとり様で何をやってんの」


「別に、なんでもいいじゃあないか」


 ヒダリは首筋に浮かんだ汗を手のひらで拭いた。指先にしずくが張り付く。


「ちょっと寄っただけだよ」


「何に?」


「猫に」


「猫に?」


 ナギは首を傾げてこちらを見ていた。雌雄眼がこちらに向けられている。ヒダリの言葉を信じていないように、真実を探るように、眼はどんどん鋭くなる。

 ヒダリは彼女をごまかすことにした。


「ナギは猫、好き?」


「あなた、いったい何を企んでるの」


「人聞きが悪いね。動物は好きじゃあないのかなって」


「あなたのそういう脈略のない質問には、必ず裏がある」


 ナギがそこまでヒダリを分析しているとは思わず、少しだけ動揺する。


「ないない。ボクと猫にどんな因果があるとでも?」


「……私がわかってないとでも?」


「どういうこと」


 ナギは呆れたようにため息をこぼしたあと、答え合わせをした。


「服、汚しすぎ。もっとうまくやりなさいよ」


「あはは、ばれてたか」


「笑いごとじゃあないでしょうが」


 軽く叱咤するような言葉が飛んでくる。


「その服を洗うの、あなたじゃあないでしょう」


「うん」


 ヒダリは一瞬だけ、首を横に振りたくなった。彼女の言葉を肯定したくなかった。しかし、嘘をついても意味がない。ナギに対して意地を張る必要は、少しもないのだから。


「そうだよ、ボクじゃあない」


「洗う人の気持ちになりなさいよ。汚れ落とすの、大変なんだから」


「まるでお母さんみたいな口ぶりだね」


「あなたの高すぎる服がかわいそうだから言ってるだけ」


「そっか。ありがとう、ナギ」


 ナギは「別に」と言って呆れたような顔をしていた。

 ジリジリと太陽が頭部を焼いている。黒髪はもっと熱いのだろう。チラリと見ると、ナギは足を組んだままじっと動かない。熱に慣れているようだった。その足元で、黒猫がくるくると回っている。触れそうで触れない、絶妙な距離感だ。もしかしたら、その距離感が正しいのかもしれない、とヒダリはふと思った。

 風が止んでいる。熱だけがこの場所に満ちていた。

 

「ナギはボクがいないとき、家で何してるの」


 ヒダリが何気ない質問をすると、ナギはペットボトルをベンチに置いて立ち上がった。


「死んだように過ごしてるわよ」


 そういって屍体の傍らにかがみ込んだ。肉の腐敗臭にも顔色ひとつ変えず、ただ眺めている。その顔に哀れみはない。が、それに似た感情は持っているようだった。

 遠くでカメラのシャッター音がする。通行人はいまだに解散することなく、屍体を運んだ女とその仲間を撮影していた。ナギはその音がする方へ顔を上げたが、興味がないといったふうにまた屍体に目を落とした。


「久しぶりに見たわ。轢かれた動物って」


「向こうではたくさんあったの?」


「そりゃあもう、日常的に。何も思わないくらいにね。だからこそ、今は思うことはあるわ」


「どんな?」


「教えない」


 伸ばした細い指が、屍体の首元を撫でた。

 その様子に、ヒダリはふと思う。

 ナギは、ボクが死んだ時も、こういう目で見てくれるだろうか、と。


(おそらく、そうしてくれるはずだ)


 泣いてもらう必要はない。

 しかし、何を想うのか、それだけは知りたかった。

 ナギの足元で回る黒猫。触れそうで触れないその距離感。ヒダリはそれを越えようとしている。他人との境界線を踏み越えようとしている。


「教えてよ」


 その声はなぜか震えていた。自分でもおかしいと思ってしまうほどに。

ナギは黙っていたが、完全な沈黙ではなかった。彼女はヒダリを見上げていた。ほほえみがそこにはあった。場違いなほどの、優しい笑みだった。ヒダリは不覚にも、自分の中心部分が熱を持ったことに気がついた。


「私もこうなるんだなって、そう思っただけ」


 ヒダリが触れた闇は、温かかった。

 死という闇を解釈する、ナギの強さだった。


「……ボクもいずれはこうなるよ」

 

 ヒダリの声はやはり震えていた。それを恥はしなかった。

 ナギは立ち上がった。うんと全身を伸ばした。地面に伸びる影が腕を伸ばし、ヒダリの影と同化した。ヒダリもまた同じように伸びをしてみた。止んでいた風が吹き、蒸れていた髪や腋を涼しくしてくれた。ナギの足元で回っていた黒猫がヒダリの方へやってきて、身体を擦り付けてきた。ひげのちくちくとした感触に思わず声が漏れた。

 よし、と言ってナギはベンチに置いたペットボトルを持ち上げた。まだ中身は半分近く残っていたが、それを空中に放り投げてはキャッチをして見せた。もう飲むつもりはないのだろう。


「だから、何かに轢かれるまでの時間をどうするか、人は考えるのよ」


「なるほど、メメント・モリだ」


「ヒダリだったらどうする?」


「そりゃあもちろん。メメントするよね」


「なに、それ」


「覚えておくのさ。これまでの全てをね」


 ヒダリとナギは一緒に歩き始めた。

 広場を振り向くと、黒猫はすでに去っていた。



☆★

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歩き傾く、女子大生 ようひ @youhi0924

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