ひみつ

☆☆☆



 縁石の上を歩いていると、後ろからクラクションを鳴らされた。

 鼓膜を突き破るような勢いで、音がヒダリの身体を通り抜けていった。


「存在の主張なら他所でやってよ」


 よっ、と縁石を降り、熱したコンクリートを歩いていく。排気ガスが車の風に運ばれていく。それでも、ここの空気は灰色だった。死んでいる空気が充満していた。

 少し進むと、海が見えた。

 この間に行った海とは別の場所にある海だ。

 ここは海水浴場として開いており、ファミリー・カーがひしめくように停まっていた。浜辺には砂と人間の色で埋め尽くされている。海の家もある。水着姿の人たちは手に様々な物を持っている。その片手間に、海で泳ぐ。海で遊ぶとはそういうことだ。


「その態度は失礼だよね。海に向かってさ」


 海水浴場沿いのコンクリートを歩く。

 賑やかな声が聴こえてくる。笑い声がほとんどだった。人々の表情を見れば分かるほどに、皆は海を楽しんでいるようだった。その光景を、ヒダリは無表情で見つめていた。人が喜んでいる姿を見ると決まって、悲しくなってくる。どうしてこうなるのか、ヒダリには分からない。いつからこうなったのか、何が理由なのか、それをヒダリは知らない。


「どうしてだろう」


 だから、この悲しい気持ちは、ボクの中に居るボクがそう勝手に思い込んでいるに過ぎない、と思うことにした。つまりそれは、『ボクという他人の感情』でしかない、と。


「人類が笑うということは、平和そのものなのにさ」


 強い日差しはうるさいほどに降り注いでいる。

 少し歩いた所にテトラポッドが密集していた。そこには数人の子どもがアトラクションとして遊んでいた。ヒダリもそこに登ってみることにした。コンクリートは乾いていながら、潮でぬめりとしていた。ぐっと手に力を入れて登る。すぐ隣を小さな男の子が一気に駆け上がっていった。見上げると、男の子はヒダリを見下ろしていた。


『ねーちゃん、ぼっちで何やってんの?』


「すごいね、キミ。栄養ドリンクのCMに出れるよ」


 男の子は首を傾げて「は?」と言いたげな表情をした。

 ヒダリが登りきった頃にはその男の子はさらなる冒険へと進んでいった。

 テトラポッドの隙間には暗い水溜りが出来ていた。深緑色の藻が群生しており、海の生臭さ——魚が腐ったような臭いが立ち込めていた。しかし先ほどの排気ガスよりも新鮮で生きた空気だった。ヒダリは深呼吸をした。少しむせたが、それさえも快感だった。

 ヒダリはその隙間にゆっくりと降りていった。小さな蟹が壁にくっついていたり、船虫が弾けるように逃げていったりした。風が入り込まないため、生臭さがヒダリの全身にまとわりついてくる。太陽から逃れた小さな空間は、まるで秘密基地のようだった。『秘密』という言葉の響きに背筋がぞくぞくとした。

 

『うわ、マジかよ。きったね〜』


 上から先ほどの男の子の声がした。本当にマジかよと思っているような物言いだった。


「キミもどう? 気持ちいいよ」


『気持ちわりーよ! ねーちゃん、怖くねーの?』


「別に。あ、みてみて」


 淀んだ水溜りに手を突っ込む。どろりとした感触の先に、ぬるぬるとした感触がした。それを掴んで引っ張り出す。握った拳の人差し指と中指から小さな魚がビチビチと動いていた。


「サカナがいるよ! 手で取れる!」


『き、キモぉっ!』


 男の子は頭を引っ込めていった。彼の最後の言葉が空間内で何度かこだました。「キモくなんてないやい」とヒダリは唇を尖らせた。彼に見せようとした魚は、ヒダリの手のひらをすり抜けて、水溜りの中にとぽんと落ちた。

 海の隅っこで生きる生き物たちを堪能して、地上に登り出た。日差しが先ほどよりも強く感じた。周りを見渡すと、あの男の子は居なくなっていた。ヒダリはテトラポッドの上を歩いて海際へと向かった。波がテトラポッドにぶつかって白い泡に砕けた。大きな音がした。

 最端のテトラポッドに腰を降ろす。

 ヒダリの視界には海だけが広がっていた。青くもない、灰色の、自然な海色だった。マリン・ブルーなんてものは特定の場所でしか見られない稀少な色で、本当の海の色は透き通ることのない濁った色をしていることをヒダリは知っている。

 ヒダリはこの汚いとも言える灰色が好きだった。

 美しいものが濁った灰色であることに、嬉しくなる。


「この前の海は……マリン・ブルーだったけど」


 本当の美しさとは、こうした素直に称賛できない要素をいくつか持っている。

 海だって同じだ。

 浜辺に生き物の死骸が落ちていたりする。朽ちた流木は虫の巣になっている。捨てられたペットボトルや空き缶だってそうだ。きれいだとはとても言えない。

 その汚点を含めて、海は美しいのだと、ヒダリは思う。


「だからこそ、あの白昼夢はボクたちとの共鳴だと思ったんだけどなあ」


 潮騒がヒダリの足元で鳴っている。

 この力強い音を『彼女』が聴いたら、果たしてどう言うだろうか?

 そんなことを思いつつ、海を眺めていた。


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