佐野ヒダリの優雅な日常 その①

ひとり




 佐野ヒダリは自身を『常識人』だと思い込むようにしている。

 人間の大半は、己のことをよく知らないものだ。

 鏡を見なければ顔を確認できないように、人は他人と交わらなければ自分自身を見つめることはできない。

 人はひとりでは生きていけない、というのはつまりそういうことだと思う。 

 だから、佐野ヒダリは、自分の中に『鏡』を置くことにした。

 鼻先に突きつけられた鏡に、自分の全身を映すのだ。

 そうしてできた虚像を、『他人としてのもうひとりの自分』とする。

 自分の中に生まれた『他人としてのもうひとりの自分』と共に生きることで、自分の外に居る他人と強引に関係を持つ必要がなくなるのだ。

 そうすれば、ひとりで居ようとも、孤独であっても、自分が自分であることを見失わない。自分自身を忘却しなくなる。

 そう、どんなにひとりで居ようとも——。





「あ、ひつじ雲」


 八月の半ば、地球は己の寒さを忘れていた。

 電車内には通勤・通学の人で溢れかえっていた。夏の明るい朝だというのに、その表情は暗い人が多いし、下を向いて手元の電子機器を覗き込んでいる。ある人は文庫本を、靴を、女子高生の太腿を、鞄の中を、組んだ両手の指のシワを、ここにはない何かを、うつろに眺めているものだった。

 車内の出入り口に立った佐野ヒダリは、空を見ていた。

透き通る青が、キャンパスと化した窓ガラスに塗られている。ときおり電柱や屋根に青が切り裂かれても、再び現れる。青とは不滅の色なのだろうか。その青に浮かぶ白い雲は、不滅とは違った何かではないか。ありきたりな考え方を採れば、不滅の対称である必滅の象徴とか——つまり、白とは滅びを覚悟する色なのかもしれない。

 さすれば、黒は……興る、ということか?


(机上の空論だし、そもそも前提から間違ってるよ)


 ここにカメラがあれば、馬鹿な考えなどしないのに、とヒダリは思った。


『次は、——、——でございます。センキューフォア……』


 車内に人の流れが生まれる。ヒダリは頭の上で騒ぐ電光掲示板を見上げた。電車が緩やかに停車した。背後からおびただしい量の人に押される。


「ひゃっ」


 その手は、背中だけでなく、腰や尻、脚を触れていった。まさぐるような手つきの感触が肌に刻み込まれる。ヒダリが人の波から外れると、その感触はピタリと消えた。

 ホームの外れにヒダリは立ち尽くした。

 頭上は屋根で覆われており、青い空は見えない。


「触りたいなら、そう言えばいいじゃん」

 

 人の流れが収まり、ヒダリはホームを歩きだした。広告にまみれた階段を降りる。手垢でくすんだ改札口、触れないようにI Cカードをかざした。『残金:102840』と表示される。

 人の流れは右向きにできていた。大学への道はこの流れに乗ればいい。


(でも、それじゃあ面白くないよね)


 ヒダリは流れに逆らって左に歩き出した。すっかり人が居なくなる。立ち入り禁止区域に来てしまったように思えた。ヒダリは構わずに進んだ。

 駅を出る。強い日差しが降り注いだ。頭上には、どこまでも続く青。眺めていると、肺に直接流れ込んでくるような青だった。鼻から吸った空気と、口から 吸った空気の味が違うように感じた。

 ヒダリは口笛を吹きながらスキップをした。

 ぷわりぷわりと前髪が揺れる。

 ぱふんぱふんと胸が跳ねる。

 タッカタッカとローファーが鳴る。

 全身も喜んでいることに、ヒダリもまた喜んだ。

 




 大学は夏季休暇に入っていた。

 前期の講義は一部を除いて修了し、ほとんどの学生はみな、一様に学内から姿を消した。人は休みとなると持ち場から離れたくなるらしい。見たくないものは見たくない、そんなものだ。

 ヒダリはこの夏、平常時よりも大学内を出入りしていた。大学に行き、学部の教授室を訪れたり、図書館で研究を進めたり、学食の安価な定食を堪能したり、ピアノ棟に忍び込んだり、部活動や同好会の空き部室をひとつひとつ眺めてみたりと、とにかく何かひとつのことをやり遂げに来たわけではなかった。強いて言うのならば、『抵抗』だと思う。いったい何に抵抗しているのか、よく分からないが……。

 夏の大学は好きだ。学内をすり抜けていく風が元気だから。



——さて、今日は何をして過ごそう?


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