11 出生


 波の音に、うっすらと目を開ける。

 相変わらずの蒼空と、相変わらずの太陽だ。

 眼球を焼くほどの灼熱に、片手で顔を覆う。手のひらの血管が透けて見えた。今度は手の甲が焼けそうになった。

 ウミネコの呑気な鳴き声と、潮の満ち引き、踏切の音が聴こえる。混ざり合った三つの音は絶妙なイコライジングで、いつまでも聴いていたいアンビエント・ミュージックだった。

 全身を取り巻く、程よい倦怠感が心地よかった。体温が下がっているのだろう。脚の腿からつま先まで冷えきっている。誰かの脚を付け替えられたかのようだった。試しに足を動かしてみると、指先が少しだけ折れ曲がった。

 首を曲げて浜辺を見渡す。

 ナギの右側には灯台と、古い小屋と、臨海公園の森林が見えた。そしていつの間にか、海には人がいた。子どもが波打ち際を走り、水を蹴り上げ、お互いを投げ飛ばして笑っている。それを見つめる両親の姿。浜辺を走るスポーツウェアの男たち。静かに散歩をする老夫婦。ビキニ姿で遊ぶ女性たち。

 突然、八月が訪れたようだった。

 朝の海の寒さはどこにもなかった。


「ナギ、ナギ」


 反対側から声がした。

 振り返らなくとも、誰か分かる。出会ってまだ数ヶ月だが、何度も聴いた声だ。同じ声音を持つ人を集めても、聴き分けることができるだろう。彼女が持つ声はどんな音にも被らない、透き通る音色をしていた。

 ナギは左側に首を曲げた。

 こきり、と耳の裏で骨が鳴る。

 ヒダリは波打ち際に寝転んでいた。ナギと同じ体勢だ。シャツの脇には泥が付着し、鮮やかなクリーム色はトーン・ダウンをしている。ホワイトアッシュの髪が潮で濡れている。その中で、ヒダリは静かに微笑んでいた。太陽に負けないほどの輝きをそこに宿していた。まるで白い太陽だ、とナギは思う。


「おはよう、ナギ」


 ふたりで同時にあくびをした。


「……私、そんなに寝てた?」


 さあ、とヒダリは口元をむにむにと動かしている。


「ボクも寝てたから、わかんないや」


 波が捲れる。潮騒が染み込むように海の淵をなぞっている。

 ナギは今、海と陸の境界線に寝転んでいる。

 それは、頭上で広がるこの空にはできないことだった。

 空と陸。

 空と海。

 それらが交わることは決してない。

 これは、海と陸だけの特別な関係だ。

 それならば、こうしてヒダリと共に海で寝るのも悪くはない——そう思う。


「あれは、夢だったの?」


 ナギの問いに、ヒダリは首を傾げるしぐさを見せた。間を開けて、ナギは「そうよね」と自分の愚問を恥じた。人は分かり合えるはずはなく、ましてや夢の共有などできるはずもない。押し付けるのはもっと悪い。それを、つい先ほどまでの自分は可能だと思い込んでいた。夢の中で繋いだヒダリの手が、そうした錯覚を起こさせたのだろう。


「人魚姫にはなれた?」


 ぎゅ、と左手に力が込められた。夢の中で繋いでいた手は、夢から醒めた今でも繋がれていた。そしてその手の中に、波では拭うことのできないあたたかさがあった。水で濡れてしまっても、太陽が光を落としても、決して変わることのない温度だった。


「それはもう。夢の中で美しい海を」


「よかったね。すばらしい白昼夢だ」


 そう言って彼女は繋いだ手を顔の横まで上げた。骨でゴツゴツとしたナギの手と、柔らかなヒダリの手が、五本の指を絡め合っていた。そして、合わせた手のひらの中には、別の感触があった。

 ナギが手の甲を砂浜に下ろすと、ヒダリはその指を解いた。皮がくっつき合っていたかのように、一本ずつその指を外し、ナギの手のひらが現れる。

 そこには、一本の白い糸があった。服のほつれから生まれた物のようであり、ヒダリのホワイトアッシュのようでもあったが、ナギは直感的に、これを骨だと理解した。


「すてきな糸だね」


 ヒダリは魅了されたようにそう呟いた。骨をまじまじと見つめるヒダリの瞳を、ナギは骨を見るふりをしながら見つめていた。彼女のダイヤモンドの瞳は、地上で二個目、三個目の太陽だった。

 耳元で細波がささやいている。

 心にしみ入るような声。


「なんだか、寂しいな」


 ヒダリがぽつりとそう言ったので、ナギは苦笑を我慢できなかった。


「ほうら、やっぱりつらくなったじゃあないの」


「それは……うん、そうだね。ナギの言った通りだ」


 互いに骨を見つめていると、海風がふたりの間をすり抜けていった。子どもが無邪気に駆けていくようにして。それはどんな風も真似することのできない、この海の、その一瞬だけに生まれたメロディだった。

 どこか、懐かしさにも似た愛おしさが込み上げてきて、ナギはこう思った。


「私、少しだけ好きになったかも」


 そう言って、言葉が無意識に飛び出していたことに気付いた。

 しかし、今さら訂正もしない。


 海は誰のものでもない。

 もちろん、私のものでもない。

 近すぎず、遠すぎない。

 程よい距離で、海はそこに広がっている。

 ただ、それだけだ。


 ヒダリは何も言及せず、ふわりと笑っていた。


「ナギ、曲は作れそう?」


「もちろん。インスピレーションが風呂のように湧いてきたわ」


「さすが表現者だ」


 口の端をヒダリは緩める。


「ちなみに、題名は?」


 言葉に敏感な彼女は、物事に込められた意味を知りたがる。

 その愚直さにも似た素直さに、ナギは感心するように嘆息した。


「そうね……海の底で出会った魚をモチーフとして……」


 七月の浜風が、火照る頬を撫でていった。



 §

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