10 摂食
目が開くと、藍色だった。
沈殿してゆくのは極光だったもの。
浮遊してゆくのは泡沫だったもの。
二つは交わり、光の幕が海底に降りている。
冷たい色を帯びた世界は暖かくなる。
全身をまとわりつく水が温かくなる。
これは、海のあたたかさである。
ナギは、海の中にいる——。
§ § § § § § § § § § § §
——なぎ。
耳には届かない声を感じ取った。
横を向くと、そこにはヒダリが浮かんでいた。ホワイトアッシュの髪の毛が海藻のようにうねりを巻き、クリーム色のシャツの表面が波紋に歪んでいる。
ナギが頷いて見せると、ヒダリは口元をほころばせて微笑んだ。
そして、ふたりで足元を見下ろした。
そこには、深淵のような暗黒が広がっていた。
海の底というよりも、地球の中心に続く道のようだった。足の先に強い冷気を感じる。思わず逃げてしまいたくなる。今にも足元の闇から手が伸びてきそうだ。ナギたちの身体は、その奥に向かっているようだった。入れ違いに、吐いた空気の泡が昇っていった。
ナギたちはこの導きに身を委ねていた。命の危険だとか、未知への恐怖だとか、そういった感情は生まれなかった。ただ、導かれるままに沈んでいった。
少しすると、光の幕さえも届かなくなった。身体が闇の中に溶ける。ナギとヒダリ、お互いの顔が見えなくなる。それでも、繋いだ手のあたたかさだけで十分だった。温かく、柔らかな手だ。いつの間に繋いでいたのだろうか。手を繋いでいる理由を考えようとしたが、考えるだけ無駄だと分かった。そうしたいから、そうなっただけだ。そうしたくなかったら、そうはならない。
二人は一緒に沈んでいく。
そうして、どれだけ深く潜ったのだろうか。
耳の中を満たす海水に音はない。だが、無音ではなかった。何の音か、聞き分けることはできないが、難しい音ではない。いつかに聴いたことのある音。思い出せない。形の無い記憶を掴むことはできない。水を掴むことはできないように。
しかし、水は掴めなくとも、掬うことができる。考え方の問題だ。記憶にも同じことができるはずだ。ナギは頭の中で、両手を合わせるようにして記憶の器を作った。そして、そこに過去の水が滴るのを待った。
その間に、足元に砂の感触が生まれた。泥ではなく、降り積もった粉の上に立ったようだった。姿が見えないヒダリの存在は、繋いだ左手が証明している。そして、彼女は前に進もうと提言をしているようだった。その手を優しく握ると、同じ力で握り返された。ナギたちは進むことにした。
海底は月の無い深夜のようだった。閉ざされた倉庫の中のようだった。目を閉じて歩いているようだった。まとわりつく水流は風のようだった。地上を歩いている気分になった。
進んでいくごとに、自分が自分でなくなるように思えた。
それは、眠りに落ちる際に、死んでゆくと錯覚する、あの感覚に似ていた。
私は今、死に向かっているのだろうか?
隣にいるはずのヒダリは、果たして本当にヒダリなのだろうか?
私が勝手に作り上げた幻想に過ぎないのだろうか?
これは、夢ではないのだろうか?
——ねえ、ナギ。
再び、耳には届かない声がした。
脳に直接、電気信号が送られているようだった。
この声も、私が勝手に作り上げた幻聴に過ぎないのだろうか。
握っている手のこの温かさも、この柔らかさも、私が勝手に作り上げたものなのだろうか。
これは、死にゆく人間が最後に見る夢なのだろうか。
何もかもを不快に思わず、そして恐怖さえしない。
煙草を吸った時の倦怠感にも似た感覚。
快楽物質に心を奪われている状態。
——ねえ、ねえってば。
(なによ)
ぶっきらぼうに私は応える。
私が作り上げた人格と意思疎通を図っても意味はない。
これはただの独り言に過ぎない。
——ボクたち、どこまでいくんだろうね。
(さあ)
口を動かしてみる。
音は生まれない。
水は震えない。
空気の泡も出ない。
また歩みを進める。
——このままずっと歩いていても、ボク、いいかも。
(なによ、それ)
心の中で苦笑する。
思う以上に、私はこの幻想を楽しんでいるのかもしれない。
現実ではない虚構ならば、何をしても許されるだろう。
——ボクね。ナギとなら、どこまでもいける気がする。
私もそう思う、と思った。
これは、ただの独り言に過ぎない。
「わ」
その幻聴に答えようと口を開いた時、水の風が頬を撫でた。
まるで誰かの吐息のような、温かい風だった。
凍えるような冷たさも、その風が吹き飛ばした。
肌に太陽のような熱を感じた。
あのジリジリとした感覚だった。
循環する血液が全身に熱を運ぶ。
足裏の冷たさまでも感じなくなる。
吐き出した泡が鼻をくすぐった。
繋いだ手のひらが、溶け合うようにひとつになる。
「ボクたち、どこまでも一緒にいこうね」
その声だけは、はっきりと耳で聴き取った。
ヒダリ——。
その瞬間、海底に光が生まれた。
太陽のような極光に目を閉じた。
海底と同じ暗闇がまぶたの裏に広がる。
慌てて目を開けると、隣にヒダリの姿はなかった。
繋いだ手も水を切っていた。
光は球体としてそこに浮かんでいた。
多くのことが一瞬にして変わる、これは夢だけに限った話ではない。
——ヒダリ?
呼び掛けに応じるように、光の球はナギに向かってくる。
ナギは両手を広げてそれを待った。
目がくらむほどの明るさでも、今度は目を閉じなかった。
眼球が焼けるような熱さでも、目を閉じなかった。
光はナギの元に辿り着くと、その姿を変えた。
球の真白い輪郭が湾曲していく。
(ああ……)
ナギの腕の中には、黄金の魚がいた。
それは、本来ならば違う色彩をまとっているはずのものだった。
ナギは知っている。この魚は、自分の為に輝いてくれていることを。独りになったナギを安心させるために、この色をまとってくれていることを。本当は、マリン・ブルーの美しさを誇りたいはずなのに。
(あなたは、何者?)
魚は呼びかけに応えなかった。ナギの胸元で静かに息をしていた。それはまるで、あの女の子がするしぐさに似ていた。ただ呼吸だけをし、その無為を味わうように。何もしていないようで、何かを堪能しているような、その行為を。
その姿を見ていると、ナギの心の中にある海が、穏やかな水面を作り出すのだった。風のない、もの静かな水だった。
魚は目を閉じるように光を失っていった。灯火が静かに消えゆくようにして。
その光を、ナギは失いたくなかった。手に力を込める。潰してしまうかもしれない。そう思っても制御ができない。十本指に全力を込めていた。それでも光は消えていこうとした。
(……ああ)
これは私の夢だ——ナギはそう信じることにした。
そして頭の中に、魚図鑑のあるページが思い浮かんだ。
なんでも、シーラカンスは「水に溶けた歯ブラシのような味」がするらしい。子どもの頃、どんな味なのか気になり、たびたび歯ブラシを噛んだ。しかしどうしても、味を認知するまで噛むことはできなかった。その代わりに、ナギには虫歯が一本もなかった。
彼のことについて思い出したナギは、魚の肌に歯を立てた。
魚は抵抗するそぶりを見せなかった。
唇に当たる、ぶよぶよとした皮の感触。それを一気に噛みちぎった。薄光が赤黒い飛沫を照らす。鼻を抜ける空気が、確かな味を見つけた。
それは、歯ブラシではなかった。
そして、魚の味でもなかった。
まるで、甘い蜜のようだった。
この世のものとは思えない、生物がたどり着くことのできない、甘美だった。
ナギは再び魚にかぶりついた。数日ぶりの食事を口にするように、獰猛な肉食獣のように、一心不乱に肉を食った。口の中いっぱいに美しい味が広がる。頭部にかぶりつく。眼玉も脳も下も内臓も鱗もヒレも、全てを食らい、全てを飲み込む。
そうして残ったのは、背骨だけになった。
魚の背骨は、光の糸のように水中を漂っていた。
それさえも、1匹の魚のように見えた。
ナギは小指を、その輝く背骨に絡めた。
不格好な黄金の指輪ができあがる。チープなお菓子にありそうな指輪だ。
(ああ)
薄い光糸をしばし眺めたあと、ナギはひと思いに指輪を飲み込んだ。
そうして光は完全に消え失せ、辺りは闇に落ちる。
何も見えない、何も感じない。
それでも、何も怖くない。
死の感覚も、独りでいることも、理想にたどり着けないことも、何もかも。
私の中に、光がある限り。
(ありがとう、シーラカンス)
暗黒の海底で、ナギは気泡を吐き出して笑った。
§ § § § § § § § § § § § §
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